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「…ククク…もちろん俺とユンファさんが交わしたものもそうですが、…たとえば、貴方とケグリが交わしたあんな性奴隷契約を反故 したところで、ケグリは誰も訴えることなどできませんよ。――むしろ肉体的、精神的苦痛を与えられ、確実に損害を受けていたユンファさんサイドなら、向こうを訴訟することもできますがね…、ふ、あ ん な 紙 切 れ 、個 人 間 の 趣 味 以 上 の 意 味 合 い は な い のです。…」
「…はあ、…そう…なんですか…?」
パタン。――冷蔵庫を閉めたソンジュさん。
そうなんだ、と意外に思っている僕の顔を見て、ソンジュさんは優しく微笑みながら、僕の頬をするりと撫でる。
「…ええ。そもそも、ケグリが貴方にしたような…金を返す方法としてお前は自分の性奴隷になれ、なんていうのは、立派な犯罪行為ですから。…人は生まれた時点で人であり、人権は誰しもにあり、またその人権は、誰にも剥奪できる権利はない。…物扱いしてよい人など、この世の中にはいないことになっているのです。憲法でね…」
「………、…」
ゆっくりとまばたきをしている僕は、ソンジュさんの不敵な笑みを見ている。
「…大体、金を貸したのだから返してくれ。…貸し付けをした者が、貸し付けをされた者に、それ以上の何かを付け加えること自体がおかしいのですよ。――借金返済の方法を指定する権利は、誰にもありませんからね。」
「…………」
するり…ソンジュさんの手が下がり――僕の腰に、彼の片手が回る。…僕はドキリとしたが、彼のその行為には、あまりセクシーな意味もなさそうである。――さらりとそうしてきたが、ソンジュさんは相変わらず、滔々とこう続けてゆくのだから。
「…そもそも…ユンファさんは自然と、連帯保証人扱いとなっていますけれど、それは、お父様とケグリの間での貸し付けの契約書にある内容なのですか? もし仮にそうでないなら、まずユンファさんが、ケグリに金を返す義務はありません。――まあわかりませんがね…、さすがに、その契約書を見せてもらったわけではありませんので」
「……、……」
あ…それ、言われてみれば――どうなっているんだろう、…馬鹿だな。本当に僕は、世間知らずの甘ったれだ。
まずそこにも発想がいかなかった。――恥ずかしいと僕は、顔を伏せる。
「…いやしかし…仮にユンファさんが連帯保証人となっていたとしても、だからといって貴方を、性奴隷扱いをしてよい理由にはならないのですよ。――性的な奉仕によって金を返せ、という方法は、なぜかわりと一般に根付いてはいますけれど、まずそれが自体が許されぬことです。」
「…………」
本当、僕って馬鹿だ。
オメガはみんなそういう扱いを受けるものだから、なんて、おかしいなんて、思いもしなかった――。
ソンジュさんは僕のその思いを見透かしたか、「いえ、ユンファさんを責めているわけではありませんから、ご自分が立派な選択をしたことを恥じてほしくはないのですが」と前置きをした上で。
「…性的な行為、および性サービスへの従事は、お互いの自由意思に基づいた決定でのみ合法となります。――たとえば借金を返すために、給料のよい性サービスに従事することを個人が選択するのと、お前にはそれしかないのだからと脅迫し、相手を追い詰めて自らの性奴隷、および性サービスへの従事を強要することは…法律で、許されていません。」
「………、…」
そう言ってくれる人が――あのときに、いたら。
いや、違うか。――あのときの僕が、そのことを知っていたら。……ソンジュさんは少し声のトーンを落とし、しかし、やはり僕を気遣ってか優しい声で。
「…たしかに性サービスの給料は他よりもいいですし、何より需要があります。――俺は、頭ごなしに性サービスそのものを否定するべきではないと考えている。…それもまた一つ、立派な職業に違いないかと。つまり、借金を返すために、自らその職業を選んで働くこと自体そのものは、否定することではないのです。」
ソンジュさんは「むしろ誰もやりたがらない、その仕事をやってでも責任を全うしようという覚悟は、尊敬されるべきでしょう」と付け加え――そして、さらに続ける。
「しかし…職業を選ぶ自由は、誰しもにあります。種族や性別は関係ありません。――また、働く自由も、いうなれば働かない自由も、このヤマトにはあるのですよ。…金を貸しているからといって、人の行動や意思を支配する権利は、誰にもありません。人権や思想、意思、人の肉体とはそもそも、他人に譲渡できるものではなく、売り物でもないのです。」
「…………」
やっとわかった。――僕はあの日、ケグリ氏に人権を売ったのだ。…でも、買われてはいなかったのだ。買いようもなかったのだから。――僕があの人に売ったつもりであっただけだ。…ケグリ氏が、買ったつもりだっただけだったのだ。
「金を借した相手と、貸してもらった人に、明確な上下関係が生まれる…――それそのものは、仕方がないところがあるかもしれません。しかし…それというのはあくまでも、倫理観的な問題によるものです。気持ちの問題なのですよ。…だからといって、相手を奴隷として扱ってよい理由になどなるわけがありません。…社長も乞食も、人は人だ。立場や職業における決定権が多いか、少ないかの違いしかありません。」
「………、…」
僕は、忘れていた…――。
「…金が、王と奴隷を決めるわけではないのです。――もし世の中でそれが普通となっているのなら、それこそ、不健全な社会構造とはいえませんでしょうか。」
「……はい…」
馬鹿だ。…僕はすっかり忘れていたのだ…――大学で学んでいた、そ の こ と を。
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