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               僕は、目線を伏せたまま。   「……僕は、お、怒ってますよ、ソンジュさん、…っ勝手に服捨てられて、そりゃ、…そんなの当たり前だ、そんなの、誰だって怒りま…」   「…ふふふ…」   「……、なぜ…笑うんですか」    僕は不思議で、瞳だけを動かしてソンジュさんを見た。  彼はやはり、嬉しそうな微笑みを浮かべている。――ゆっくりとまばたきをするその切れ長の目は、どこか、ぬくもりのある感情を宿して僕を見ている。   「…いえ、すみません。――怒ってくださって、ありがとう。…」   「……、…?」    え…? は…?  ポカンとしてしまった僕は――怒ったことに、生まれて初めて感謝された。…しかも皮肉なんかではなく、本気で嬉しそうにニコニコされながら。――そんなことあるか?    案外ソンジュさんって…――マゾなのか?  いや、たしかにそういう感じのところあr…――。   「…ふ、クク…いや勘違いしないでね。――俺は、怒っていると言ったユンファさんが、その通りあからさまにムッとして、俺に怒ってくださったのが、本当に嬉しかったのです。…それこそケグリの近くに居た貴方は、()()()()()()()()のようでしたので…そんな貴方の、感情の発露を目の当たりにし、俺はつい感動してしまいました。…」   「…………」    あぁ、と腑に落ちた僕は、何もソンジュさんはやっぱりサディストだった、と納得したからではない。…ソンジュさんは、その切れ長の目の中、薄水色に揺蕩う水のような切ない色を、僕の目へと映してくる。   「…陶器でできているのかとさえ…ユンファさんは、これまでまるで、動くビスクドールのようでした。――憂鬱な色気を纏いながらも、生の色気はなく…ラブドール、ともいえるかもしれません。貴方の瞳は、失望や諦観…そういった、とてもほの暗いもので翳り、虚ろでした。その端正な顔はその実、ずっと虚ろに凍り付いていたのですよ。…」    ソンジュさんは「もちろんご自分じゃ見えないものですから、ご自覚はなかったでしょうけれど…」と少し眉尻を下げる。   「…いえ、それはそれで、もちろんとてもお美しかったですよ。冷ややかで、無機質で…ユンファさんの綺麗なお顔立ちに、氷のような美麗さを加えていた…――しかし、ユンファさん本来の、気高き魂の美しさは…そこにはありませんでした。…」   「………、…」    たしかに僕は、これまで感情を押し殺してきた。――無駄だ、感情をあらわにしたところで何が変わるわけでもない、感情なんかないほうがいい、一喜一憂するなんて疲れるだけで、無駄な体力を消費するだけだ。――無駄だ。泣きたくとも今は笑え。笑いたくとも今は泣け。怒りたくとも今はかしずけ。    うっかり忘れてしまうほどだった。  怒っているのも、悲しんでいるのも、何もかも…そうして押し殺してきた僕の感情は――いつしか、僕の顔に現れなくなっていたのだろう。…腑に落ちた。  怒っていても、今僕は怒っていない。悲しんでいても、僕は別に悲しくなんかない。――僕は大丈夫。僕は、何も問題ない。    そうやって凌いできた。  そうやって、感情による思考をやめてきた。    僕の感情を見て喜んでくれたソンジュさんに、やっとそれが腑に落ちた。――僕は今、素直に怒ったのだ。  ソンジュさんは僕の片頬をするりと撫でて、力強くも妖艶な眼差しで、僕の目をじっと見つめてくる。   「儚く、憂鬱で、物憂げで…冷ややか…――貴方の魅力は、まるで月華だ…、それはそれで、いつまででも見ていたくなるような、ゾッとする美しさがありました…、しかし、今にやっと一つ…高潔な銀の毛皮を取り戻したユンファさんに今俺は、内側…貴方の魂からの輝きを見ました。見惚れるほどに、お美しい…」   「………、…」    僕は逆に照れることもない。――逆に、ロマンチックな言葉が過ぎて、瞬時には深く理解するに及ばないからだ。…ただとにかく甘い言葉を囁かれている、というのばかりは理解している。――さすがに花の名前にも詳しいだけあって、作家先生だからか、本当にソンジュさんはロマンチストなんだな。  僕がぼーっと美しい水色の瞳を見ていると、そこでソンジュさんはニヤリと笑い、眉を寄せる。   「…もっと見せてくださいませんか…?」   「……、ぁ、え…?」    何、…って、あぁ…僕の素直な感情――?  ぼーっとしていたばかりに腑抜けた反問をしてしまった僕、ソンジュさんは僕の目を見つめながら、妖しく目を細める。   「もっと笑って、もっと怒って、もっと俺を睨みつけて…もっと泣いて、もっと悲しんで、もっと、もっとだ、もっともっと貴方は、内側の魂に秘めたる感情を解き放つべきなのですよ、ユンファさん。…」    興奮気味にはやし立てるソンジュさんは、まるでキスをするような距離まで顔を寄せてくると、――その間近な距離、僕の目の前で、すう…と目を細め、あまりにも甘い声で。   「…そしてその度に、俺の息の根を止め、殺してね……」   「………、…」    は、と息を呑む。――僕こそ息の根が止まりそうだ。  ゾク、としたのは、ソンジュさんが危ういほど妖艶だからだろうか。――それとも、彼のほの暗い感情が、その水色の瞳に宿っているからなのだろうか。   「…俺の心臓が、止まりそうになるのです…――貴方が微笑むたび…貴方がその目を吊り上げるたび…貴方がそのタンザナイトの瞳を濡らし、雫を落とすたびに…息をすることも忘れ、俺は見惚れてしまうのですよ。…ユンファさんが、あまりにも美しいから……」   「…………」    ソンジュさんはする…と僕の頬を撫で下げ、嬉しそうな目をする。――あまりにも、無垢な目をするのだ。   「…このまま貴方に溺れて、死んでしまいたいな……」   「……、……」    ただの、オーバーなロマンチックな言葉ではない。  この人は、危ない――今に、本当に死ぬとさえ思う。  あまりにも本音、あまりにも嬉しそうに、あまりにも子供のような無垢な瞳で、一つも嘘を見せずにそう、うっとりと言うのだから。  ふふふ…と上ずった笑いを小さく鼻からもらし、ソンジュさんはす、と引いてゆく。――そして僕の目を見つめてくる彼のその目は、とても柔らかくやさしげだ。   「…貴方は、陰鬱な月華に呑まれるのではなく…――その陰鬱な月華を纏い、ご自分のアクセサリーにすればよいのですよ。…陰鬱な月華が映えるのは、間違いなく…気高き銀の毛皮なのです。」   「………、…」    なんて…反応したらいいのやら。  反応に困るのだが――ただ、…うやむやにされて、このままソンジュさんのペースに呑まれ、ナアナアになる気配。…彼の甘ったるい言葉にぼかされ、曖昧になってゆく()()を思い出した僕は、一度目を瞑った。   「……はぁ…、…」    ところで…――それはともかく。      僕はやっと自覚したのだ。――怒っている。        僕は、怒っているのだ。           

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