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ソンジュさんは、僕のことをぎゅうっと強く、抱き締めてきた。というかもはや、もう逃さないよ、というように、抱きすくめてきている。――そして彼、明るい声で。
「…じゃあ俺と結婚して、ユンファさん。」
「……、…、ぁ…あの、けっ…」
結婚…――。
だいぶ話が飛躍しているような…いや、まあ…愛してる、好きです…――という告白めいたことは、確かに、言った。…それに関してはまるで後悔がない。ホッとしたというのもある。僕にとって生まれて初めての告白(っぽいもの)は、いうなれば想い人であるソンジュさんに受け入れられた、ということでもあるだろう。――結婚を…迫られている時点で…。
「…え…? さっき車の中でも、俺と結婚してくれると言ったじゃないですか…?」
「……、あ…」
まあ、確かに。言ったか、…いや言ったけど、あれは何というか、ヤケクソで…――というか。…結婚…、僕だってさすがに、そこまでの覚悟が決まったわけでは…はっきり言って僕は今、恋 人 と し て 、というレベルの覚悟具合だったのだが。…いや確かに、ワンチャンソンジュさんと結婚できたらな、みたいな下心がさっきあったにはあったが、…現実的に考えてみると、結婚って――わりと冷静に、いろいろ決めたり擦り合わせたりしなければならないことが、山ほどあるもんなんじゃないだろうか。
ましてやソンジュさんは、あの九条ヲク家の人なわけである。――噂によると条ヲク家の人々は、結婚相手も慎重に選び、家柄に相応しい人と結婚する…とか、なんとか。
いや、冷静に考えたら、僕なんかが結婚していい相手ではないだろう、どう考えても――。
ソンジュさんは、ふふふと嬉しそうに笑うと――僕の耳元で。
「…じゃあお風呂出たら…早速婚姻届にサインしてね、ユンファさん…」
「……ぁ…? あの…、正直、あの…恋人…」
恋 人 と し て 、という意味合いでの告白でした、と言おうと思ったのだが――ソンジュさんは、あはは、と僕の耳元で笑い。
「あぁ、そう。一応一週間はそのつもりだったのです。…でも、愛し合っているならもはや、何も問題はないかと。――だって、別に夫々 になっても、恋人的な雰囲気がいきなり壊れるわけではありませんから。…」
「…………」
そういうものなのか…?
というかそういうことじゃ、まあ僕は何かとよく知らないんだが、…というか、――本当に…僕でいいのか?
「……、…、…」
僕なんかで…いいのだろうか。
彼、何でも知っているようで結局、僕のことはまだ何も知らないだろう。――そのうちガッカリするかもしれないだろう。…僕は、ソンジュさんが思っているよりも綺麗ではないし、狡いところだってある。…僕の中にはもっとドロドロとした、汚い面だってあるのだ。
きっとソンジュさんは勘違いをしている。
自分の理想像を僕に重ねているから彼、僕のことを褒めそやすことができていたんじゃないのか。そのようなフィルター越しに僕を見ているから、なんじゃないのか…でももしかしたら、ソンジュさんはそのアクアマリンの瞳 で、僕の中の何もかもが見えていて…こう言ってくれているのかも、しれない。――僕は…僕としては、…正直、少しだけ覚悟している。
僕の中に、ソンジュさんと添い遂げたい、という気持ちがないといったら、…はっきりいって、嘘にはなってしまうのだ。
でも…でも、でも僕、――性奴隷だったんだぞ。
「……ぼ、僕なんかで、…いいわけ、ないでしょう…」
九条ヲク家の、ソンジュさんの伴侶――そんな家柄も良く、結婚するというだけでたくさんの人が彼に注目する…そんな人の結婚相手が、…僕なんかでいいはずがない。
「…許されないかと…、誰も、許してはくれない…誰も祝福なんか、してくれないかと……」
僕はきっと、YESといったらいけない。
ソンジュさんのことを想えばこそ、彼と結婚なんかしてはならないのだ。
「……、なぜ二人のことに、俺たち以外の人の許しが必要なんです…? 神が俺たちを出逢わせた意味に、これ以上のことはありません。――その神こそが結婚を認め、許し、祝福するというのなら、他の人間のことなど、はっきりいってどうでもよいではないですか。」
「……でも…九条ヲク家の方々が、僕のことを認めなかったら…? いや、多分認められることはないかと…性奴隷だったんですから、僕は…――そんな、僕なんかと結婚してしまったら、そうしたら貴方は、きっと今以上にお辛くなります……」
それなのに――僕の体は、ソンジュさんから離れたくないと…彼のことを抱き寄せ、体を密着させている。…未来や、ソンジュさんの言葉に期待しているんじゃない。ただ、僕は今が惜しいだけなのだ。
「…大丈夫…何も問題はない。――俺が全部、何とかしますよ」
「…………」
ソンジュさんは僕を抱き締め、固い決意の声でこう言うのだ。
「……運命が俺たちを惹き合わせたというのに、やっと会えたというのに…、どうして離れなければならないんですか…――ユンファさんは嘘だと思っているようだが、あの“運命のつがい”の証明書は、本 物 です。…」
「……、……、…」
本物…――じゃあ僕たちって、本当に…“運命のつがい”、なのだろうか。…わからなくはない。理解できる要素は、これまでにいくつもあった。
でも…だからといっても、世間が許すかどうかは、また別の話なんじゃないだろうか――。
「…貴方は俺の、運命の人だ。…ユンファさんの運命の人は、俺なんです。――神の采配が、“運命のつがい”である俺たちを出逢わせたというのに…どうしてその神が、結ばれる俺たちを認めず、許さず、祝福しないというのです」
ソンジュさんのこの言葉に胸を打たれる僕は、…その人にしがみついた。――しかし、首を横に振った。
「……僕、僕は…ごめんなさい、決められません…――そうだとしても、正しいことではないような気がして、仕方がないんです…」
僕が首を横に振りながらこう言うと、ソンジュさんは…ふぅ…と鼻からため息を吐いた。
「なら…やっぱり、“婚姻契約”ということで。…それならどうですか…? 期限付きの“契約結婚”です…」
「……、……」
ソンジュさんは妥協したように、そう提案してきた。
正直僕は、そちらの契約内容はほとんど知らない――一週間の“恋人契約”が事実上期間延長になる、ということのほかには何も知らない――が、…ならばなおのこと、YESとは言いにくい。
「…あの…その、契約内容は……」
「…待って、慌てないで…その話は、またあとでにしましょう…」
「……あ…はい、わかりました…」
そしてソンジュさんは…僕の耳にその唇を寄せて、こう甘く囁いてくる。
「…まずはお風呂。…俺と一緒に入りましょうねユンファさん、ふふふ…体、洗ってあげる……」
「……ッん、…」
彼の生あたたかく湿った吐息が耳に触れると、僕の両耳がカアと熱くなった。――なんとなくいやらしい気分になってしまったのだ。…いや…。
「……、……」
何がな ん と な く だ、――思えば、誰かと一緒に風呂に入る行為は、まあまあいやらしいことである(子供が小さい親子関係を除き)。……最近ノダガワ家の人々と、そして『DONKEY』のお客様と…、つまり僕は、この一年半ほぼ一人で風呂に入っていなかったせいで(というか誰かの体を洗うついでに自分のことも洗っていたせいで)、すっかり感覚が麻痺してしまっているらしい。
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