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              「……、…」    しかし…――。  僕は誰に聞いたらいいのかわからず――とりあえず、モグスさんを見た。――ソンジュさんは今狼化しているため(なんだかんだ話してはいるが)、あまり堂々と言葉を交わせる状況ではないと判断したからだ。   「……あの、モグスさん……」   「…んあ?」    するとモグスさんは、僕にキョトンとして振り返る。   「…僕は、その…いいんですか、また…家に……」    勝手に自分で逃げ出した、のだ、僕は――。  何か話しておくこともなく不誠実にも、いきなり逃げ出した僕が、どうしてなんのお咎めもなくしれっと、のうのうとまた彼らの家の敷居を跨げるか。  するとモグスさんは苦笑にも近いながら、カラッとした笑みを浮かべた。――その垂れた目尻に細かい笑い皺を浮かべ、柔和なその笑みと、あたたかく柔らかい、彼の声は。   「…何いってんの。――帰りましょう、一緒に。」   「………、…」    あたかも何でもないように…あまりにも何も気にしていないように、そうはっきりと言い切ったモグスさんは、くすっと眉を寄せて。   「…なあユンファさん、(はな)っからそういうことに決まってんだろ? じゃなきゃ追いかけてなんかこないよ。…誰もね、帰ってきてほしくない人をこんな、…なあソンジュ。――どうでもいいなら、ほっときゃいいんだから。」    モグスさんはちらり、鳶色の瞳で僕の足下に座っているソンジュさんを見下ろしつつ、そう言う。   「…まあー遅くはなっちまったけどね…、いや実は、()()()()()よ。――ソンジュがあんなタイミングで、いきなり“狼化”しちまったもんで……」   「……わん。」    ソンジュさんは僕を見上げてそう、あからさまに人のわん、ではあったが――本気でらしく吠えようと思えば吠えられるはずなんだが(さっきはバウバウグゥグゥであった彼である)――、彼なりの場を和ませようという冗談なのかもしれない。  そしてモグスさんはまた僕を見ると、ひょいっと肩を竦めてはにっこり、自嘲気味に苦笑しながらうなじを押さえる。   「…やーこれでも俺たち、急いでユンファさんのこと追い掛けてはきたんだよ? 参ったよほんと…はは、俺たちが通りに出たときには、もうすっかり貴方の姿はなくなってて……でも、――そんな中でも、ソンジュがユンファさんの匂いを追って、…それでやっと。…ユンファさんを見付けられたってわけよん。」   「……、ごめんなさい……」    もういい加減鬱陶しいだろう、とは思いながらも僕は、また謝ってしまった。  なんて馬鹿だったんだろう。――ソンジュさんとモグスさんは、僕のことを見限ったわけではなかったのだ。  むしろ、突然“狼化”するというアクシデントの中でも、それでも焦って急いで、犬のふりまでしても手段を選ばず、僕のことを心配して追いかけて探し、こうして見つけ出してくださったのだという。  申し訳なくて、それと同時に有り難くて、またぐっと胸が詰まり、僕は泣きそうになる。   「はははっ…いやーユンファさん、脚速いですなぁ。もう還暦近いおじさんの老体には、手厳しいほど走りましたよ」   「…もっとモグスさんが速く走れていればね…しかしむしろ、日頃の運動不足が解消されてよかったんじゃないですか。」   「…おーいおいソンジュ、そもそもお前が途中で吠えて、スニーカー離したりしたのも悪いんだぞ、てかお前な、俺ぁ別に運動不足じゃねえわ。さんざっぱら日頃お前にコキ使われて……」   「…っご、ごめんなさい、本当に……」    自分が情けなくて恥ずかしくて、僕は今にもすっかり消えてしまいたいくらいだ。  深くうつむき、泣いて歪んだ自分の顔を、両手で覆い隠した僕の肩に、――そっと添えられた、誰かの手。   「……大丈夫…? もうほんと、可哀想になっちゃう…、自分のこと責めすぎよユンファさん…」    それは、サトコさんの手だった。  彼女はその中性的な声をとても柔らかくして、僕のことを心配してくださる。   「…あたしには本当のところなんか、なんにもわかんないけど…――ねえ、ユンファさんだけが悪かったの? 多分だけど、何か思い詰めてない? なんだか自暴自棄になってたみたいだし、それに…ソンジュさんがこうやって“狼化”してて、あなたも排卵期きてるって……怖かったとかさ、そういうのもあるんじゃない…?」    そうして僕のことをフォローしてくださるような言葉をかけつつ、僕の肩を優しく撫でさすってくれるサトコさんは、「まああたしベータだからね、アルファとオメガの間で、そういうのがほんとにあるのかわかんないんだけど…」と自信なさげに言うなり、頼もしいしゃんとした声で。   「でも、大丈夫だから。…ソンジュさんって確かに怖いところあるけど、ユンファさんの言うことはちゃんと聞いてくれると思うよ。…帰ったらちゃんと話し合いな?」   「……っ、…はい、…」   「…ふふ、だってソンジュさん、あたしたちでもわかるくらい、ユンファさんにベタ惚れだもんね。…普段のソンジュさんなら信じらんないくらい。…むしろ聞きたいよね? ソンジュさんも。」    ソンジュさんは「もちろんですよ」と言うなり、また僕の手の甲をペロペロとしてきた。――そこでモグスさんもポンポンと、うなだれた僕の頭頂部を包み込むように軽く叩いて、カラッと笑ってくださる。   「…もう気にするな、ね? だぁいじょぶだから、大丈夫大丈夫。いきなり連れて来られてなぁ。何もかもがいきなりで、不安だったな。…ユンファさんはきっとさ、坊っちゃんや俺から逃げたかったってより…――不安から、逃げたかったんじゃないか。」   「……、…、…」    僕は、不安から逃げたかった――。  モグスさんのその言葉は、僕の中にストンとあまりも容易く、ピッタリと落とし込まれる。――もちろんそればかりが原因じゃないのだが、モグスさんの言葉は何か、年輪を重ねているが故の説得力があるのだ。   「…ま、人ってそんなもんだよな。壊れそうなくらい不安になっちまうと、どんな大胆なことだってできちまうんですわ。…なあソンジュ……」   「…ええ。俺もよくわかりますよ。」    そしてモグスさんは、ポンポンと僕の肩を優しく叩き。   「…気にすんな、こんなの大したことないよ。誰だって間違うことはあるし、失敗だってするんだ。でも、だとしても貴方は、こうしてちゃんと謝ってる。偉いぞ? 立派だよほんとに、ありがとうが言えない、ごめんなさいが言えないおバカさんは、この世の中にいぃっぱいいるんだ。」    言いながらよしよしと僕の頭を撫でてくれるモグスさんは、スラックスのポケットから――くしゃくしゃの、グレーのタオルハンカチを僕に、差し出してくださった。   「…それになユンファさん。真剣に謝ってる人を許せない人のほうが、間違ってんだよ。――まあ、今回の件が間違ってたかどうかなんて、俺が判断することじゃないけど。…謝ってる貴方的には、なんかしら間違えたと思ってんだろ。でももう十分だ。もう十分ユンファさんは謝った。――誰も怒っちゃいないよ。」   「…はい…、あ、ありがとうございます、……」    僕はモグスさんが差し出してくれた、そのタオルハンカチを受け取り、もう一度「ありがとうございます」と泣きながら、また頭を下げた。   「…いいえ、こちらこそ。…よし。じゃーとりあえずそろそろ、お嬢たちの車に乗り込ませてもらおうや。」           

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