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                「…なあユンファさん? 俺まぁた坊っちゃんに怒られちまうからさ、ほら。…寒いだろ?」    僕の隣でモグスさんが上着――白いワイシャツと黒いベストの上に羽織っていた、ベージュのトレンチコート――を脱ぎ、そしてそれを、僕に差し出してくださった。   「…いえ、大丈夫です…、ぁ…いややっぱり、…すみません……」    秋の気温ならば肌寒い程度だし、むしろ僕のせいでモグスさんが寒い思いをなさったらと思うと僕は、一度は遠慮したのだが――こんな格好(バスローブ一枚)で、またあのエレベーターに乗り込むと思うと、やはりお借りするべきだろうと思い直した。  そうして僕は、モグスさんからそのトレンチコートを受け取り、背中を浮かせてそれを羽織る。…すると、ふわりと渋めのタバコの香りがするのだが、モグスさんも喫煙者なのだろうか。  そしてモグスさんは僕の隣で、僕のことを眺めながら。   「…大丈夫、怪我はしてないかい? もしどっか痛いようなら、帰ったらすぐおじさんが手当てしてやるからよ」   「…はい、大丈夫です。ありがとうございます」    やっぱりモグスさんも、本当にどこまでも優しい人だ。  その優しさに胸をあたたかくしながら僕は、モグスさんのトレンチコートの袖に腕を通しつつ、伏し目がちにそう答える。  まあ、硬い地面に触れてしまった膝や足の裏は正直少し痛むが、手当てをしていただくほどの傷があるわけではないだろう。…あってせいぜい細かなかすり傷程度だろうし、それくらいなら手当てを受けるまでもなく、よく洗っておけば問題ないはずだ。――と、僕は思ったのだが。   「大丈夫じゃない。膝や足の裏に傷がありますでしょう。」    伏せの体勢のままボソリとそう言ったソンジュさんに、僕は「いえ、でも」と。   「別に、本当に大した傷はありません。多分血も出ていないし、そんな、手当てをしていただくほどのことじゃ…」   「駄目です。駄目に決まっているだろ、ユンファさんの綺麗な足に傷が残ったらどうするんですか。」    僕の言葉を遮って、なんなら少し怒り気味にそう言うソンジュさんは、…驚くほど、かなり…心配性の人らしい。   「…いえ、でも本当に大丈夫です。ご心配は有り難いんですが、これくらいならよく洗っておけば問題ないかと…」    いやしかし本当に、こんなの、そこまで心配されるほどの傷じゃない。  謙遜だ、我慢だ、そうではなく、だ。…さすがにこの程度の傷で、今後傷跡が残るなんてことはまずあり得ない。こんな血も出ていないほどの、目に見えないレベルの細かな傷に、そこまで心配してくださらなくとも…――大体僕は、オメガなのである。  オメガは月に一度、大体の人は毎月オメガ排卵期がくる。――そしてその排卵期は、何もデメリットばかりではなく――新陳代謝がかなりよくなり、その結果、体の中も外もクレンズされるようになっている。    そのためにオメガ属は、傷跡などが他種族に比べてかなり残りにくい体質なのだ。――そして幸いというべきかわからないが、僕は今もうすでに、そのオメガ排卵期初期を迎えた状態なのである。  いやそうでもなきゃ、日頃から麻縄でキツく縛られ、バラ鞭なんて生易しいものじゃない本格的な鞭で打たれて、思いっきり首絞め、酷ければ腹パンなんてことをされてきて、そうして生傷の絶えない僕の体に、それらの傷跡が残っていないことにも説明がつかなくなるだろう。    しかしソンジュさんは、それじゃ許してくれなかった。  ――バタッバタッ…と、ふさふさの尻尾を不機嫌そうに振っている(厳密にいえば、その尻尾でモグスさんの(すね)を叩いている)彼は、不機嫌そうな低い声で。   「駄目だ。駄目、駄目、駄目。薬を塗って差し上げますから、…モグスさん。帰ったらすぐに薬箱を…」   「いやっ本当に大丈夫ですから、…それこそ、これよりもっと酷い傷があっても、すぐ何事もなかったようになりますし僕、本当に大丈…」   「いやーユンファさん男だねえ、舐めときゃ治るってか? はははは…」    なかばお互いに言い募るようになっていた僕らだが、そこでモグスさんが茶化すようなことを言う。  するとソンジュさんは、ふっと僕のほうへまた振り向き、…狼の顔ながらかなり怒った顔をして、僕のことを見上げてくる。   「…どうします。――舐めるなら()()()()()()が。…舐められたいか、薬を塗られたいか。」   「……、ぁ、あの、いや、なぜその二択…」    いや、それはおかしい二択じゃないか?  僕が思うに、舐めときゃ治るってのは、「こんなもん()()()舐めときゃ治る、ツバでもつけときゃいいんだこんくらい」――というワイルド方向のセリフだったような気がするのだが、なぜソンジュさんが舐めるということになっているんだ?  いやというか、本当に洗っておけば済む程度なんだ――流血したかも定かじゃないほどの、目に見えないレベルの傷である――が……ソンジュさんはすーっと目を細め、低い声で僕のことをこう脅してくる。   「どうするんですか。ユンファさんにはその二択しかありません。」   「…え、なぜ…? ですからなぜその二択、その二択はさすがにおかし……」   「どこがでしょうか。」   「……、…、…」    え…?  えっと、…ど、どこがおかしいって…――そんな100%自分が正しい、というような凛々しい(狼の)顔と態度を取られてしまうと、僕は自信がなくなってしまう。   「…わかりました。では帰ったら俺が、丁寧に舐めて差し上げま…」   「くっ薬、…薬で。…お願い、します……」    薬だろう、しいてその二択ならば、どう考えても。  僕がうろたえながらの小さな声でそう答えると、前でサトコさんが「横暴ね…」とぼそり。  そのあとすぐにモグスさんもまた「ああ、横暴だよ…」とぼそり、呟いた。         

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