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モグスさんは僕の隣で、黒いベストのポケットに携帯電話――スマホではなく、あのパカパカする古いタイプの銀の携帯――をしまいつつ、僕へとにっこり振り返る。
「…いやーそれにしてもユンファさん、腹減ってるだろ? 今ちょーど俺のカミさんが来ててさあ、とりあえず飯作ってくれてるから。もちろん、ユンファさんの分も。」
「…あ、ありがとうございます、すみません……」
モグスさんの奥さん――たしか、ユリメさん…といっただろうか。…僕はありがとうございますと、わざわざすみません、というつもりでモグスさんへと、ペコペコと頭を下げる。
「なんのなんの。…あーなあ、ユンファさん。」
「……はい」
そこでモグスさんは、やや渋い顔をした。
いや、渋い顔というよりは真剣な顔か。――いつもは優しげな笑みばかりを浮かべているモグスさんがその表情を浮かべると、彼の顔付きはより精悍さを増して見える。
「…正直な話…どうした。行く宛とかあったの。家に帰りたくなった、とかか?」
「……、…いいえ…、正直、行く宛は…なくて……」
僕は腿の上、モグスさんに借りたグレーのハンカチを握りしめた。――そして、それを見下ろすふりをして、…自分の下腹部を見下ろした。
「…そうか…、まあ、そりゃそっか……」
「…………」
きっかけは、こ れ だった。
これでまた彼らの家へ行ったら、いよいよ僕は、避妊薬を飲むしかないんだろう。…お腹の子を堕ろせと言われてしまうんだろう…――。
ソンジュさんの子供を、産みたかった。
もうこんなチャンスは、二度とないのだろうに。
「……なあ、でもユンファさん。くどくど年寄りの説教になっちまって悪いけど、これだけは言わせて。――駄目だよぉそれじゃあ。…いや、何が駄目ってね……」
僕はやや遅れて、隣のモグスさんに振り向いた。
僕を叱るようなモグスさんは、やや険しくなった顔をふるり、横に一度振る。――しかしその口調ばかりは、僕のことを威圧しないようにと気遣われたような、軽いものだ。
「…なぁんにも持たないで、行く宛てもなくて、しかもハダシで。バスローブなんてもん一枚引っ掛けただけで…しかも、…来 て ん だ ろ 。――危ないじゃない。…ユンファさんの身が危ないんだよ。だぁから駄目。それだけは駄目なの。」
「……はい、ごめんなさい……」
そう、僕のことを案じて真剣に、お父さんのように僕を叱ってくださるモグスさんに、僕は情けないやら恥ずかしいやら。…それでいて、そのあたたかい叱責が本当に有り難いやらで、また目が潤んできてしまった。
しかし、僕が目を潤ませたからだろうか――今回に関しては悲しくなったから、ではないのだが――、モグスさんはパッと目を大きくすると、慌てたようにへらりと笑う。
「あっあ、いやごめんね、俺ぁ謝らせたかったわけじゃないんだよ。…それに、もうわかってるだろうからよユンファさんは、もうこれ以上はなんも言わねえ。――なあーボク? お前ももう怒ってないだろ?」
「…ええ。怒ってはいませんが」
今ソンジュさんは伏せの体勢で、重ねた前脚――というか、腕…? ――に顎をのせ、より低い体勢になっている。…しかし、バタンッバタンッとふさふさの尻尾を不機嫌そうに大きく振り、何かつっけんどんな低い声でそう言うので、僕は深くうつむいた。
「……ごめんなさい…、あの、お怒りは当然の…」
そう僕が謝ろうとするなりモグスさんは、そんなソンジュさんをなかば冗談っぽくも明るく、叱るように、僕のそれをこう遮った。
「おいおいソンジュう〜〜。もうユンファさんはちゃあんとわかってんだし、こんなに反省してるだろ? これ以上好きな人責めるなよ。…な。ここは男らしく、まあしょーがねえかって許してやんな。――あとでちゃあーんと仲直りしないと、ほんとのほんとにユンファさん、逃げちまうかもしんないぞ?」
「……はぁ…ですから、怒っていません。本当に怒ってはいないんだ…――それに、言われなくとも仲直りはするつもりですよ。…ただ、今は少し考え事を……」
「…仲直り…というか、僕、ちゃんとお話しするつもりです。どうなるか、とか、今後のことは…僕の話を聞いてから、ソンジュさんにご判断いただければと思っています」
僕ははじめからちゃんとソンジュさんに、誠実性をもって向き合うべきであった。――今の僕は、もうそのことに気が付いている。
それもただ気が付いているばかりではなく、後悔を伴った上で、だ。
だから僕は、もう逃げない。
もちろんそのつもりである。
「……ユンファさん…、仲直り、でしょう…」
「…………」
ソンジュさんはどこか不安げにそういうが、仲直り…というと、そのように事が運ぶかはわからないのだ。――だからそうですとは言えないものの、僕はそれをも覚悟した上で、きちんと話をしなければならない。
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