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                 ソンジュさんは僕の胸元――紺色のバスローブが若干またはだけて、V字に白く平たい胸が見えがち――に目線を落としつつ、しみじみとした声で。   「()()()というのは、まるで()()()()()のようだね」   「…………」    ――楽園の中央には、二本の樹があるという。  一本は“生命の樹”――その樹に実った果実を口にすると、永遠の生命を手に入れることができるという。  そしてもう一本は、“知恵の樹”――その樹に実った果実を口にすると、神にも劣らぬ善悪の知恵を手に入れられるのだという。――そう…アダムとイブが口にしてしまった“禁断の果実”は、この“知恵の樹”の果実だ。   「…それもまた、神が創り出したはずの禁断の果実ですが…――しかし、それを口にしたアダムとイブは、楽園を追放されましたね。…ふふ…禁断の果実には、身にも皮にも良い栄養がたっぷりと含まれているものですが…何事も摂り過ぎれば大病の元となりますよ、ユンファさん」   「……、…」    僕はドキリとした。  神様に叱られたかのような、そんな感覚がしたのだ。  僕は自然と、ソンジュさんの穏やかな水色の瞳を見上げながら、おずおずと震えている手で触っていた。――自分の左耳に着けた銀色の十字架を、許しを乞うように。  するとソンジュさんは、ふ…と柔らかく、金色のまぶたを細めた。   「…しかし俺は、わかってもいます。ユンファさんはご不安だからこそ…自信も確信も持てないからこそ、無理に何もかもを見ようとしている…――ですが、貴方が今見るものは、もっと少なくていい。…貴方が今見るべきものは、未来でも、過去でもなく…今このとき、目の前にいる俺、なのですよ。…」   「……、……」    僕は自然と、コクリ、頷いていた。  ソンジュさんはそんな僕を見て、あたかも「いい子だね」と褒めるように微笑みながら、僕の耳元にある手を大きな手で包み込んだ。   「…不安のあまりに未来を見通そうとして、もっと不安になるのなら…そんな、どうなるかもわからない不確かなものは、一切見なくていい…――盲者は、流れに逆らう術を失います。だが、それでも死にはしません…。…いえ、少なくともユンファさんは死なない…安全なのです」    そう言いながらソンジュさんは、もっと僕のほうへと寄ってきて――あまりにも容易く、ひょいっと僕の体を抱き上げ、横抱きにしてきた。  そして彼はすっと、何でもないように立ち上がる。  僕の目を、切実な色を宿す水色の瞳で見下ろしながら。   「…俺を信じて…――未来は怖くない。二人なら全部何とかなる、いや、俺が全部何とかしてみせるから…。怖がらないでいい…何も…まだ何も、問題は起きていないのだよ、ユンファさん……」   「……、…、…」    僕は、俯いた。  ソンジュさんの大きな手が、僕の背中から脇腹に添えられていて――すると…熱い。  ソンジュさんの大きな手が、僕の両方の膝の裏を優しく掴んでいて――そちらは生肌ともあっては、もっと熱い。  ドキドキと胸が逸り、僕は頬をじんわりと熱くしながら、俯いている。   「…先導者たる俺がユンファさんのことを守り、貴方の代わりに全てを見ておきますからね。――ふふ、言ったでしょう…? 俺の側から離れては、危険だと……」   「…は、はい、ごめんなさい……」    僕が素直に謝ると、ペロン、僕の唇を舐めてきたソンジュさんは、「いい子だ…」と甘く囁いて――何処かへと僕を運びながら、更に甘い声で。 「貴方はもう、何も見なくていいよ…。辛いものや、悲しいもの…貴方が嫌なものにはもう、ユンファさんは目を塞いでいいんだ…。怖い未来ではなく…悲しかった過去でもなく――この今に(もと)づいて、全ての判断をしてください」   「……、……」    今に――基づいて。  だが僕は、過去の自分――性奴隷の自分――があってこそ、今の自分がいると思っている。  そして、もう決して性奴隷であったことを無かったことにはできない上での、未来の僕がいるはずなのだとも思っている。――たとえ今ソンジュさんのことを愛していても、僕も、彼も、未来の感情はわからない。  僕の過去で僕のことを判断する人に、僕たちのことを反対されたなら、…それどころか、わからないだろう。  一時の感情で、ソンジュさんとつがいになってしまったら――それは僕かもしれないし、あるいはソンジュさんのほうが可能性も高いだろうが――未来に、つがいとなったことを後悔しているかもしれない。   「……、…、…」    僕は、やっぱり、…今、だけでは何も判断ができない。  今日から別の人に生まれ変わることも、ゼロから始めることも、できない。――過去はもう、真実として僕の中にある。…既に起こった事実が連続して、今の僕がある。   「……、すみません、少しわかりにくかったね…――恐れ多くも、簡潔にいいましょう……」   「……、…」    僕はふっとソンジュさんの顔を見た。  彼は妖しく、そのアクアマリンの瞳を強く光らせて、僕のことをじいっと見ていた。――だが、僕と目が合うなりソンジュさんは、切ない顔をした。       「…もう頭でぐるぐる考えるのはやめて。貴方の素直な気持ちのままに、俺を求めてほしい。…俺を信じてくれ、ユンファ。全部俺に任せてくれよ、頼むから…――一人で全部何とかしようって背負うんじゃなくて、頼って、俺を。…守らせてくれよ、俺に、貴方を。」           

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