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【13】夢見る瞳
「…………」
僕は今、清潔でおしゃれな洗面台の前に立っている。
横に細長く大きな鏡、裏からもれる薄黄の明かりがぼんやりと、その長方形を縁取っている。…僕は鏡を見るのが怖いために、四角く真っ白なシンクの前にそれとなく指先を置き、その二段の浅い階段状で造られたシンクの中央、丸く綺麗な銀色の排水口をぼんやりと見下ろしている。
また僕の後ろに立っているソンジュさんは、先ほどと同じように、僕の髪を丁寧にドライヤーで優しく乾かしてくださったあと――今は、すう…すう…と僕の後ろ髪を優しく、櫛 で梳 かしている。
ちなみに僕は今、黒いシルクのパジャマを手渡されたのでそれを着ている(脱衣所の棚にあったものだ)。
しかし先ほどの、間に合わせのバスローブとは違って――あるいは僕が逃げ出したりさえしなければソンジュさん、あのあと僕には普通に昼の装いをさせるつもりだったのか――このパジャマに関しては、僕のために誂 えてくださったものらしく、パジャマの袖、ズボンの裾と僕の体にジャストサイズだ。
また、今穿いている新しい紺のボクサーパンツに関しても(恐ろしいくらい)ぴったりなうえ、柔らかくて通気性も良く、異常なほど着心地が良い。
ちなみにソンジュさんはというと、その二メートルと六センチ、どっしりと大きくなった体ジャストサイズだろう白いワイシャツの首元を楽に開け、下は紺のスラックスを穿いている。――僕は楽なパジャマを手渡されたが、彼はまだ眠るための服装にはならないらしい。
「…………」
「…………」
ソンジュさんの手がゆっくりと、僕の髪を櫛で優しく梳かしてくださる。――すーー…と、なめらかに、頭皮を優しく引っ掻く櫛の歯の先は、優しい力加減のあまりに、まるで僕の頭皮を撫でてくるようだ。
「…………」
「……、…」
気持ち良い…蕩 けそうになるまぶたを伏せる僕は、自然と口角が上がってしまう。
する…と僕の耳に沿うように撫でられた横髪、ぞくり。
少しでも貴方に触れていただけると、蕩けてしまいそうになる。…髪を梳かされているだけで、わずかでもぞくぞくしてしまう。――本来髪に神経などは無いはずなのだが、僕はいま確かに髪で感じて、心地良くなっている。
それでいて緊張にも似たような、指先一つ動かすのさえ恐ろしいような――変に動いて、変な風に思われませんように――恐れながらする祈りにも、似たような心持ちになってくる。
ドキドキ、してしまう。
叶うならば、ずっと…こうしていてほしい…――貴方の側にずっといられたら…たまにで構わないから、こうして優しく、貴方に髪を梳いてもらえたら…――僕は、どれほど幸せだろう。
「……、…――。」
だが…ふと思い出して、考える。
ソンジュさんは先ほど、浴室で…――。
“「っ無責任だが、…取り返しがつかなくなる前に俺から逃げろ、…ユンファさん…――っ」”
「…………」
こう、言っていた。
取り返しがつかなくなる前に、自分から逃げろというのだ。…さんざん「もう逃げるなよ」と言ってきた彼が、今度は僕に「逃げろ」というのだ。
いや、その言葉の真意とはおそらく、“狼化”していてはなお情緒不安定な自分の側にいたら、何をするかわからない…また僕のことを傷付けてしまうかもしれない…最悪僕を、誰かを殺してしまうかもしれない、という…ソンジュさんのあれは、ある意味で彼自身の恐怖心からの、そしてまたある意味では、僕を想えばこその言葉だったのだろう。
しかし「逃げろ」と言われても…じゃあ僕は、一体どこに逃げたらいいんだろう。
まさか、もう二度と会わないと決めている両親の元、つまり実家になんか帰れるはずがない。
ましてやノダガワ家に帰る気など、もう毛頭ない。
どうしたらいいのか…――まるでわからない。情けないが、今はもうわからないとしかならないのだ。
そうして僕には行く宛もないわけだが――何よりも僕は、もう逃げたくない。ソンジュさんの側にいたい。
もちろん…邪魔をするつもりはない。
九条ヲク家の邪魔はしない。その上で何とかして僕が、ソンジュさんの側にいても許される方法はないだろうか。
いっそ恋人じゃなくてもいい…恋人関係、果ては結婚を誰かに許されなかったとしても…――愛人。
愛人なら…それならどうだろうか。
いや、僕はそれでも構わない。
むしろそれが一番、丸く収まる形なのかもしれない。
性奴隷だった僕でも、愛人という形ならまだ――あくまでもひと時の遊び相手、ひと時の情を満たす相手、ひと時の寂しさを埋める相手、ひと時の性欲発散相手――そう一般的に定義される対象、すなわちソンジュさんの愛人ならば、あるいは結婚や恋人というより、まだソンジュさんのご両親にも黙認していただける可能性があるように思う。
あとはソンジュさんの正式な配偶者の方がどう思うか、もちろん邪魔には思うことだろうが――というか…そうなったらソンジュさんは、もちろん僕以外の人と……いや、僕はそんな贅沢は言える立場ではない。
側に置いて…いや、彼に愛していただけるだけ…たまに、抱いていただけるだけでも…僕なんかには、十二分なくらいだ。
構わないだろう、構わない。たとえソンジュさんが他の誰かと結婚をしても、他の誰かを愛するようになっても、たとえば僕以外のオメガのうなじを噛んでも、結婚したお相手との間に子供ができても…いずれ、彼に捨てられてしまうとしても――僕は、それでもいい。
僕がそれを我慢すればソンジュさんの側にいられるなら、僕はそれでいい。いっそ体の関係だけでもいいのだ。愛人ですらなく、もはや彼の性奴隷であっても、なんでも構わない。――たとえ会えるのがたまに、それも夜だけのこととなっても、その一夜だけはベッドの中で、甘い夢が見られるだろうからだ。
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