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「…ユンファさん…チョーカーが濡れてしまいましたね。気持ち悪いでしょう…?」
ソンジュさんが、カタン…静かに櫛を洗面台に置きつつ、そう恐る恐る僕に話しかけてきた。
実は浴室のあれ以降、ほとんど話しかけてこなかったソンジュさんは――「逃げろ」と言ったあとすぐ僕を抱き起こし、僕のことを抱き締めながら泣いて「ごめんなさい、本当にごめんなさい」と繰り返していたが、ややそうしていたあと「体が冷えてしまうね、出ようか」と。
そうして浴室から共に出たあとはここまで、彼は僕にパジャマを渡すときや髪を乾かすときなど、ある程度の指示(「これを着てください」などである)と、僕を気遣うようなセリフしか口にしていなかったのだ。――そんな彼はワイシャツを着たあとすぐ、それの胸ポケットに入っていた何 か の 薬 を水もなく飲んではいたが(正直それが何の薬なのか気にはなったが)、どうも今は話しかけてはならないような、そんな神経質なオーラを纏っていたソンジュさんに、僕も話しかけることはできないままだった。
だからか、やっとソンジュさんに話しかけてもらえてホッとしたようでもある僕は、それでいて少し、もう既に首を横に振りそうである。
「…肌がかぶれてしまうかもしれませんから、外しましょうか。……」
「……、…っ」
ビクッと肩を跳ねさせた僕は、ソンジュさんの爪先がうなじに掠めるなり、小さな範囲ながらビリビリとした痺れをそこに感じて、さっとそれを避けるようにやや体を前に傾けた。
「…あ、すみません…、今はオメガ排卵期中で、うなじが敏感になってらっしゃるんでしたね……」
するとソンジュさんはさっと、僕のうなじから手を引いたようだ。
「…い、いえ、…ごめんなさい…、……」
僕は白く四角い洗面台を見下ろしながら、自分の視界が小刻みに揺れているのを感じている。
このチョーカーは――まるで、首輪だ。
おそらくはGPSでも組み込まれているのだろうこのチョーカーは、間違いなくさ ま ざ ま な 意 味 で 、僕の自由を奪うものである。
勝手に婚約指輪の代わりとして着けられ、何処に行ってもソンジュさんには僕の居場所がわかるようになっているらしく、見れば彼の本物の牙と、僕の目の色によく似たタンザナイトがあしらわれていては、僕は何処にいても、何をしていても…これを見ればすぐに、ソンジュさんのことを、僕こそが彼に縛り付けられていることを思い出すに違いない。
「…いえ…ましてや今俺は“狼化”もしていますし、変に触られるのはお嫌でしたよね。すみませんでした…――ではユンファさん、ご自分で外せますか?」
「……、…、…」
だが違う…――嫌だ。僕は今、むしろそ れ を望んでいる。
むしろそのように僕は、縛 り 付 け ら れ て い た い のだ。
僕は何も、オメガ排卵期中でうなじが敏感になっているから、その警戒心が集まっているようなそこを、無闇矢鱈に他人に触れられたくないから――だからとソンジュさんのその手を、避けたわけではない。
このチョーカーを外されるということが何か僕には、それによってまた「逃げていいよ」と、ソンジュさんに見放されるようなことが起こり得るように思えてしまったのだ。…だが、僕はこのチョーカー に、ソンジュさんに縛り付けられていたい。
確かにベルベット素材が濡れていて、もう少しだけ首元が痒 くなってきてはいるが――外したくない。
「……、ユンファさん…?」
「…………」
外したくない。外したくない。
この首 輪 を外したくない。――ソンジュさんがくださったこの首 輪 を、僕は着けていたい。…このチョーカー を外してしまったら、ソンジュさんは僕のことをどこかへ逃して、そのまま離れて行って…もう二度と彼とは会えなくなってしまうような気さえするのだ。――ソンジュさんに捨てられてしまうような気がするのだ。
「……外したく…ありませんか」
「……ごめんなさい…」
僕は結果、ソンジュさんに逆らってしまったのだと申し訳なくなったが、なかば「そうです」という意味でもこう謝った。
「…いえ、謝られることでは……ただ、ユンファさんの綺麗な肌が荒れてしまうからというだけで…――しかし…今無理に外しても、きっと貴方はご不安になるだけでしょうね。…もしやユンファさんは、俺が先ほど“逃げてくれ”といったことで、何か気を揉んでらっしゃるのでは?」
「……はい…、その、僕…逃げろと言われても…正直、行く宛もありませんし……」
俯いている僕はほとんど口を動かさず、そうボソボソと言った。…何より――ソンジュさんから、離れたくない。
二転三転、既に逃げた上でそれは勝手な我儘だとわかってはいるのだが、できれば僕は、どんな形でも構わないからソンジュさんの側にいたい。
「…あぁ…いえ。――俺が“逃げてくれ”と言ったのは、何も今すぐに追い出すだとか、宛もないのに外へ行けという意味ではなく…モグスさんたちが、この家の下の階に住んでいますから。一時的にでも、それこそ夜だけでも彼らの家へ行っていただくですとか…それこそお互いに、オメガ排卵期と“狼化”の期間が終わるまでは、多少距離が必要かもしれない、という意味で……」
「……、…っ!」
僕は何かを思考する前に――ほとんど無意識、また衝動的に、動いていた。
「…っあ、ゆ、ユンファさん…?」
「……嫌…です…。貴方の側に、いさせてください……」
僕は体を返し、またぎゅうっとソンジュさんに――抱き着いていたのだ。…我ながらどうしていきなりここまで大胆になれているのか、正直戸惑いながらも。
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