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「…………」
それにしても――シャワーに向かったソンジュさんは「シャワーを浴びて着替えてきますので、その間はどうぞくつろいで、お好きに過ごされていてください」とのことで、そうして彼は一度寝室に寄ってから――おそらく着替えを取りに行ったのだろう――、再度リビングに、またあの廊下へ続く扉へと入って行き。
そして先ほども一旦は抜け出てきたが、既にシャワーを浴びてびしょ濡れわんこ状態であったソンジュさん…――シャワーと着替えだけにしては、何か随分遅い気もしなくはないのだが。
いや…――あるいは今、全身がもふもふなので、洗うのにも乾かすのにも時間がかかっているのかもしれない。
「…………」
「――ユンファさん…? まあ好きに読まれて一向に構いませんけれど…そ ん な の でよいのですか。」
「…っおぁ、! あ、あぁ、ソンジュさん、…」
いつの間にか僕の背後に立っていたソンジュさん(黒いローブ姿、肩からタオルを引っ掛けている)が、床に正座している僕の頭上から突然そう声をかけてきて、僕は飛び上がるほど驚いてしまった。――ココアを床に置いておいてよかった、持っていたら溢していたところである。
いや、彼の声はかなり落ち着いていて静か、ピアノのクラシックミュージックの旋律の中でも、ギリギリ聞き取れるくらいの声量ではあったのだが、――久しぶりに頭をぐるぐる回した結果疲れた僕だが、ただ今はぼけーっとちょうどソンジュさんのことを考えていたので、遅いなあと思っていた本人がまさか、そのタイミングで来るとは思わず。
――しかし思えば、彼のボディソープか何かがわずかな蒸気混じりに、甘くしっとりと香っている――驚いた俊敏さで僕が振り返り見たソンジュさんは、何か神妙な表情で僕を見下ろしていた。
「…すみません、驚かせて…そっと声をかけたつもりだったんですが…――しかし、そんなものでよいのですか…? それこそ、本なら他にもたくさん……」
「…へ…そ、そんなの…?」
目を丸くしているソンジュさんは別に、侮辱的な声色で言ったわけでもなく、あくまでも淡々とした、なんなら僕を気遣うような声でそう言ったのだが――その言葉選びには、どこかpine先生を見下 している…と僕は、思わず眉を寄せた。
――僕はpine先生の大ファンなのだ。
いや、もしかその人はソンジュさんなのかもしれないわけだが、…しかし敬愛しているほどの人を見下されて、気分が悪くならない人はいるだろうか。
「…そ、そんなのじゃありませんよ、…pine先生は、とても素晴らしい作品を書く作家さんですから」
「……ユンファさん…はは、…それは…いや。――ところで…」
「はい…?」
何かくしゃりと笑ったソンジュさんは僕を見下ろしたまますくっと腰を伸ばし、目を丸くした神妙な真顔をくい、と横に傾ける。――ピンと立った三角の耳が揺れる様は、どことなく可愛らしい。…そしてソンジュさん、床に座る僕へと大きなもふもふ(黒い肉球付き)の片手を差し出してくる。
「…とりあえず…お手をどうぞ、ユンファさん。」
「…………」
僕は差し出されたソンジュさんの手を、ぼうっと見つめている。――本当にソンジュさんは、王子様みたいな人だ(今は人狼の姿ではあるが)。
僕はこの人の手を、取ってもいいのだろうか。…王子様の手を取っていいのは、その人に相応しい人じゃないか。
例えば…お姫様。
あるいは、王子様。
――ソンジュさんの…婚約者。
「……、…ユンファさん…?」
「大丈夫です…自分で立てます」
僕は自分で床に手を着き、立ち上がった…――までは、よかったんだが。
「……ぅあっ…! ぐ、…」
しまった、正座していて脚が痺れ、
「…ぉあっぁあぁ、…ごっごめんなさ、…」
「あっ…だ、大丈夫ですか…?」
脚の感覚がないせいで上手く立てず――足首がぐにゃっとした――横にぐらついた僕の手を取って引いてくれたソンジュさんは、それでもたたらを踏む僕をとっさに、…抱き締め…いや、僕の体に腕を回して、支えてくれている。
「…ご、ごめんなさい、あ、脚が、痺れてて゛…」
「…いや全然大丈夫ですよ俺は…ほんと全然、ふふ…むしろ気分が非常に良い……」
「……、…ぐ、…〜〜っ」
もふんっとソンジュさんの胸板に両手を置き、僕はそこで顔を伏せている。――脚は今、顔が歪むほどにジリジリ、まるで両方のふくらはぎがアスファルトに引きずられているかのように激しく痛んでいる、息が止まるくらい痛い、辛い。死ぬ。
「……んぐ、ぅ゛…ぁぁ…っい、いった、あ…、んん…〜〜っ!」
痛。すぎ。る。
声が出るくらいだ。――というか「痛い、あぁ痛い」と声に出して紛らわせでもしなきゃ、…ちょっと耐えがたい、これは、
「……なんてエr…いや、んふふ…ユンファさん、一度座りますか…?」
「っい、いえ、座るほうが辛いこれは、すいませ、…」
「……では、もう少しこのままで……何時間でも」
「…はい゛っずみまぜん゛、…」
久しぶりに味わったこの、正座によるビリビリの痺れ…気持ち悪く痛く、顔が勝手に顰められる――この痺れ。
ふっと息を止めて耐えるほかにない、身近な苦行だ。
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