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                 俺の顔が近寄るとユンファさんはビクンと驚いて、「おお」と声を上げながら、彼の小さなやや面長の顔は、小さく跳ねるように後ろへ下がった。…というよりか、顎をビクンと引いたようである。   「……はは、困ったな…」彼は困り笑顔で、屈めていた背を正し、自分の肩を見た。そして、弛んでいた学生カバンの紐を肩にかけ直しながら、   「でも、僕と離れたらきっと君は、僕のことなんかすぐ忘れちゃうよ。そのときになったら、キスだってしたいとも何とも思わなくなってるだろう。…本当だよ、結婚もね、もちろんそうだ。そんなの今この瞬間だけだよ、今だけ。――君ももう少し大人なったら、僕が言っていることの意味はわかるはずだ。」    ピンと背筋を伸ばした彼は、かなり姿勢が良かった。そのまっすぐな長身からは、まばゆいほどの神々しさと、あまりに品の良い凛とした美しさを感じた。  そして伏し目で何となし自分の肩にかかった、グレーの学生カバンを見ているユンファさんは、俺が年下だからと侮っていたのもそうだ。しかし何より今の俺にならわかる、彼の勘違いがある。    このときユンファさんは、きっとこう勘違いしていた。  自分のフェロモンを嗅いでいる俺が血迷ったのだと。()()()()()、一時的な狂おしい気の迷いで胸が高鳴り、彼に恋をしてしまったという勘違いをしたのだと――ユンファさんは、ユンファさんこそ、そうした勘違いしていたのだろう。  しかし俺は、狂おしいほどの初恋はしても、狂おしい気の迷いなどは起こしていない。  ユンファさんは、今度はもう背を伸ばしたまま顎を下げて俺を見下ろし、曖昧な笑みを浮かべた。   「君はきっと将来、僕なんかよりももっと素敵な人と恋をして、結婚するんだろうから。…それに、そもそも僕らはまだ、年齢的にも結婚なんかできないだろ。」    彼の笑みの曖昧さの正体は、一言でいえば困惑である。  如何(いか)にしてこの変わった少年を(かわ)そうか、というものだ。いっそ冷たく突き放すのが正解か、あるいはこうして言い聞かせたほうが理解して引くか、しかし先ほど突き放せどどうにも此処から立ち去らなかったこの少年に、なかばは後者が正解なんだろう、という煮え切らない笑みなのである。  しかし結果から言って、ユンファさんのその推測はなかば正解。――もうなかばは、不正解である。   「()()……?」   「うん。君も僕も、まだ子供だからね」    なるほど。俺は「わかりました」と一旦引いた。  もちろん俺は、結婚適齢期、つまり()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という意味だと解釈したわけだし――年齢的に()()結婚できない、ということだと――、今もなおそうだと信じて疑わぬようにしている。    ただその件で引きはしても、どうしても俺は、ユンファさんとダンスが踊りたかった。なぜなら俺の夢の中では、恋人となった彼と俺が、この夕暮れに染まる図書室で身を寄せ合い、ワルツを踊っていたように記憶していたからだ。そして俺は夢の中で、彼と踊ったそのダンスにとろけそうな幸せを感じた。  だから十三歳の俺でも確信していたのである。    ユンファさんと踊るワルツには、自分の人生の至上の喜びがあることを――。    となれば俺は、もう帰りたそうに学生カバンの肩紐をにぎにぎと握っているユンファさんへ、こう言い募った。   「でも、じゃあせめてダンス…」   「駄目」――しかし彼は、俺に最後まで言わせることさえ許さず、やはり苦笑いを浮かべ、伏し目がちに顔を横に振った。   「ダンスは、僕なんかとじゃなくて。…君と同じくらいの年の、女の子とでも踊ったらいいだろ。…はは、だって変じゃないか? こんな年上のお兄さんと君が、手を取り合って踊ってるなんて、きっと君が恥ずかしい思いをしちゃうよ。」   「……っ、…」    変じゃない。俺は言いたかったが、たしかに傍目から見て俺のような背の低い少年と、この背の高いユンファさんが向かい合ってワルツを踊っている様は、どうもデコボコ、ちくばく、マッチしない、奇妙な、いや、滑稽な光景に見えてしまったことだろう。――その二人の姿をさっと俯瞰的に想像した俺は、悔しい羞恥心を覚えた。  しかし、それで諦める俺でもない。   「……でも、じゃあ、此処ででもいいので……」    なら人目のない此処で…と食い下がった俺に、ふっとユンファさんは自嘲した。   「駄目駄目、無理だ。悪いけど僕、ダンスは踊れないんだ。ごめんね」   「なら僕、リードします。できますから」   「…え?」    すると彼は俺を見て目を丸くしたが、「ソンジュー?」  なんという最悪のタイミングか――この図書室の外で、俺を探している友人の声が聞こえてきた。  待っていたはずの俺が忽然と消えたためだ。ユンファさんはその声にさっと釣られて、この図書室のベージュの扉へと顔を向けた。   「……、あれ…ソンジュって、もしかして君…? なあ君、お友達に探されてるんじゃない…?」   「…ち、違います……」    俺は目が泳いだが、なんとしてでも彼と一曲踊りたいと嘘をついた。  しかし、外で俺をいまだ探している友人が、俺の連れであるということを確信したらしいユンファさんは、   「早く行ってあげな。君のお友達が探してるみたいだよ」    まんまと俺を追い払う理由を見つけ、聡明な目をして俺へ微笑みかけたのだ。その余裕のある年上の笑みは、俺のプライドをまた傷付けてきた。   「…あの、いえ、でも本当に違う…」   「ほらソンジュ、早く行けよ。」   「…………」    今度の俺は嘘さえ見失った。()()()()と呼ばれ、彼に親しげな命令をされたからだ。  俺が目を見開き、ぽーっと顔を熱くして黙り込んだのは、何も呼び捨てにされたから嫌だった、誇りを傷付けられて憤ったから、というのではない。これは一般的に見てもさほど失礼とも当たらないことである。  ユンファさんが繰り出したこれは、明らかに年下の俺へ、それも同性の少年への、ある意味では何より親しみを込めた命令なのだ。――ユンファさんはニコニコしながら、威圧感など少しもない親しげな軽い調子で俺へそう命じた。…そうして命令口調にすることで、俺が此処から離れやすいようにと。  俺はドキッとしたのだ。――一目惚れをした綺麗な人に、その綺麗な声で、自分の名前を呼び捨てにされたから、そして親しげに命じられたからだ。……要するに嬉しかったのである。    外で「ソンジュさーん?」と女友達の声が聞こえてきた。ユンファさんはひと際甲高いそれに耳聡くなり、ニヤリとわざと耳元に手をかざすと、悪戯な笑みを浮かべて俺を見下ろす。   「…ん…? はは、ねえソンジュ、女の子もいるみたいだ。多分君と同じくらいの年の。――あの子をダンスに誘ったら?」   「……え、いや、僕……」    俺は貴方と、踊りたかった。  俺は彼女ではなく――貴方とワルツを、踊りたかったのだ。  しかしユンファさんは、むしろ自分が此処に留まっているから俺が気を遣って、なかなか歩き出せないのだと勘違いをした。――彼は口元に笑みを浮かべながらも俺のことを優しく睨み、「全く…」と呆れたふりをした。その顔は人をたらし込む愛嬌があった。   「…まだ僕のことを心配してくれてるの? 大丈夫だって。いや、正直いうと本当に体調は悪いんだ。でもお兄さんもちょうど、今帰ろうとしていたところだから。ね…バイバイ、ソンジュ君。」    ユンファさんはにこっと人好きする笑みを浮かべて「バイバイ」と繰り返すと、俺の横を抜けてゆく――しかし、それでも泣きそうになりながら彼を顔で、目で追っている俺と目が合うなり――俺のことを慈愛の伏し目で追いながら、ユンファさんは色っぽいしっとりとした風を纏いつつ、ふっと優しく俺へ微笑みかけた。    なんと表現しよう? なんと表現したらいいのか、なんと表現するべきなのか、……残念ながら俺の負けだ。もはや断筆の微笑みである。  俺はこのときのユンファさんの、あまりにも美しい、あまりにも魅惑的な、あまりにも俺の脳裏に焼き付いていながらも、あまりにもなんといえばよいかわからない、…花が綻ぶよう? それよりももっと感動的だ、…花の(かんばせ)? そんな人間の笑顔よりももっと神秘的で魅惑的だ、…ミステリアスでありながら優しく、優しくありながらも妖艶で、妖艶でありながも慈愛に満ち満ちて、…悪魔的というのではなく、聖母マリアの微笑みに、処女性以上のもっと魔性に近しい色気があれば、それがもっとも近いかもわからない。    俺の脳全体がじーんと痺れ、気が狂いそうになるほど体が熱くなった彼の甘い微笑みを、俺は結局あの『夢見の恋人』で再現するに至らなかった。俺はあの男神の美しい微笑みを偶像化することを、その人知に及ばぬ美貌によって拒まれたのである。  とにかく、とても色っぽく綺麗だった……そしてその微笑みに見惚れている俺へ、彼は、俺の頭をポンポンとして、ぱちりと伊達なウィンクまでしてくれたのだ。   「じゃあねソンジュ、君はフィナーレのダンスも目一杯楽しんで――。」      そのあと前を見たユンファさんは颯爽と、この図書室から出て行った。その伏し目がちな横顔には研ぎ澄まされた美貌があり、やはり誇り高き狼のようであった。      結局俺の初恋の人は行ってしまった――涙目で立ち竦む俺を、この図書室に一人置いて。         

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