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                  「…………」    図書室に取り残された俺は、まだ友人たちの居る外へとは行かなかった。彼らは俺が此処にいるとも知らず、他の場所へと俺を探しに行ったようだ。  そうして俺は、彼が座っていた横長の白い机の前に立った。いくらか傷がついて、ところどころ白い塗装が禿げて黒の欠片(かけら)が見えているが、窓から差し込む夕陽が白に反射して眩しい。  そして(こと)に、そのぼんやりと橙色の光に照らされた本のつるつるした紫の表紙、その人が残していった数冊の本はむしろ、それそのものが冴えた光を放っているようですらある。低く積まれた本の反対側に生まれた影が、本の存在をより強く引き立てる。    俺は夢の名残りに陶然とした。  まだ夢を見ている気分だ…――あえて俺は、何が(うつつ)かもわからないと決め込んだ。  彼という夢がまだ、この図書室の中に漂っていた。  バター混じりの甘い桃の香、積まれた数冊の本、夕暮れの橙色、…バチバチ、…パチンッ…部屋の蛍光灯が灯る。  白い光に照らされた、塗装のところどころ剥げた白い机。   「…………」    俺は積まれた本の、一番上を手に取ってみた。  表紙には紫にぼんやりと浮かぶよう、印象派の画家が描いたような白い裸婦の、そのしなをつけた豊かな背中が描かれている。そして白い文字で、『夢想』というタイトルが書かれていた。    これは文庫本だった。つまり小説だったのだ。    その下の本も同様だ。  四冊積み上げられていた本はすべて文庫本であった。  背表紙のあらすじ曰く――『夢想』『ゆめみてやがて』この二冊は続編ものである。『願い』『叶い』これもまた続編ものであるらしかった。  もしやこれは、彼の忘れ物だろうか?   「…………」    そう思ったが、どうやら違う。  背表紙の裏には、図書カードのポケットがあった。  あるいはあの人の名前が記されているかもしれない――俺は図書カードを引っ張り出し、横に羅列されている名前を見た。五人ほどしか借りていない。――しかし、最後に書かれた名前の横にあるのは、三ヶ月も前の日付である。    持ち帰り忘れたということではないらしいが、俺はその本の表紙に鼻を寄せてみた。これらが、彼が読んでいたものかどうかを確かめようとしたのだ。  ――結果は、少なくとも彼はこの本に触れたとわかる。  古い紙、多人数の手垢の匂いとインク臭に、真新しい桃の香がほのかにあったのである。  つまり彼は、此処で暇つぶしにこれらを読んでいた、ただそれだけのようだが――しかしいくら図書室にいたとしても、本が好きでなきゃ、まず四冊も文庫本を持ってはこないことだろう。    なるほどあの人は――小説が好きらしい。    それにしても、なんという偶然だろうか?  『夢想』『ゆめみてやがて』『願い』『叶い』  いや、偶然なんかではない。この本たちは、まさに()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のである――。   「……、…」    俺は十二歳の頃から、この日経験したような夢を見ていた。もちろん眠っているときに見た夢である。  俺の夢はいつもほとんど悪夢だった。悪夢のような日常を、鈍感になろうと努めながら生きてきた俺が見る夢は、いつも悪く不幸なことばかりをそこにありありと映し出した。そして、俺は現実でそれを経験しているときよりも、よほど夢の中でのほうが敏感に不幸と恐怖を感じていた。――よっぽど俺は、夢の中でこそ生き、現実でこそ死んでいたのである。    そうして不幸を夢でも(うつつ)でもべっとりと肌に纏わせ、あたかも水に流せば魂には影響ないと平気な顔をして現で死に、しかし、確かに俺の肌から魂にまで侵蝕している不幸を、夢で生きながら密かに恐れていた俺が、そうした不幸な少年があるとき突然――幸せに浸る夢を見た。    夢見の恋人――こんな俺を愛する美しい人がいた。  馬子にも衣装、ただ指定された()()()()()()()()()を纏っているだけの俺に微笑みかけて、俺を愛する奇妙でいて綺麗な青年。  彼もまた不幸を纏っていた。但し俺の不幸のように、決して醜いものではなかった。綺麗な不幸である。色っぽい不幸である。隙のない美しさを、あたかも俺の指一本ほどなら差し込めそうに思わせる隙と見せかけた、あやしげな不幸である。    突然甘く幸せな夢を見た日、俺は驚いて飛び起きた。  悪夢を見ているときほど俺は飛び起きないで、朝まで枕を高くしてぐっすりと眠れる。それは人によれば奇妙かもしれないが、俺は悪夢のほうが安心できたのだ。それが俺の日常であり、普通であり、尋常であり、食傷的になるほど何ら変なところのない夢であるからだ。  俺は不幸に普遍性と諦観を委ねている少年だった。    しかし俺は、夢の中で甘く幸せな彼に会ったとき、飛び起きたのだ。彼のよく色が変わる瞳が印象的だった。  カタルシスを覚えるほど透き通るような薄紫、紫の中で赤い火が燃えているような赤紫、深く暗い聡明な群青、翳り妖しい不幸じみた濃い紫、……あれほど貴石とも呼べる瞳に、普遍性などとても見出だせない。  俺は夢の中で、彼の瞳に初めての恋をした――。    そして俺はすぐさま、その夢を適当なノートに書き記した。ただ夢というのは起きて五分もすれば、あらかた忘れてしまうものである。その日はほとんど書けなかった。    その日は――だ。  そのあと俺は、何度もあの幸せな夢を見た。それどころか、シチュエーションを変えて何度も何度も、あの綺麗な人が自分の恋人として夢に出てきた。  いつも通り不幸な夢を連日見たあと、忘れた頃にまたあの幸せな夢を見た。俺は次第に、枕元にノートとペンを置いておくようになった。そうして俺は、あの夢を少しずつ現で明瞭な文字の形にしていった。  色褪せている己の人生に差した唯一の色味、幸福の欠片(かけら)、砂を噛むような日々に訪れた甘美な味、…密かに読み返しては随筆も都度加えた。  便宜上の名前も彼に与えた。俺が夢を見ているときに現れる恋人、だから俺は、彼のことを()()()と呼んだ。    それがあの『夢見の恋人』の原型となったのは、言うまでもないことである。――そして正夢となったこの日の、ユンファさんとの出逢いという鮮烈な記憶もましては、俺は寝食も忘れていよいよあの作品を完成させた。         

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