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ちなみに俺がその信条を得たのは、ユンファさんが読んでいたらしいあの四冊の文庫本を読んでからのことであった。なおあれらは、俺が初めて教科書以外で読んだ小説である。
これまではそのように、まるで小説になど興味のなかった俺がなぜそれらを読みはじめたかというと、国語辞典の丸暗記の次に俺が始めた勉強が、世に出回っている小説を実際に読んでみる、ということであったからだ。――それで手始めに俺は、例の文庫本四冊を購入して実際に読んでみた。
端的にいえばどれもベータ属男女の純愛小説だった。
――『夢想』と『ゆめみてやがて』は、シンプルな純愛物語だ。
そして『願い』と『叶い』に関しては、純愛関係の二人の過去と周辺人物の謎を解き明かすミステリー作品であった。
この四作はユンファさんが面白がって読んでいた、というバイアスも加わってか、それなりに俺も面白く読むことができた。そして、その流れるように読める簡単な単語で彩られながらも、精密に描写された登場人物の心理と情景に、俺は深く感銘を受けた。
不思議なことに、夢を叶える勉強のためとロジック一辺倒に始めた読書のはずが、ユンファさんの残していったそれらを読んだあと、むくむくと湧き上がってくる熱意があった。…端的に言えば、俺の読書欲と創作意欲に火がついたのである。
ところで俺は、ユンファさんが読んでいたのだと思っていた『夢想』『ゆめみてやがて』、『願い』『叶い』…これらロマンス作品を、軽率にも彼の読書傾向の判断材料にしてしまったのだ。
ところが俺は今になって、それがお門違いであったことを知るに至った。――幸い彼が読書好きというのは合っていたものの、しかし特にロマンス作品好き、というわけではなかったようだ(実際は予想外にも、お姫様抱っこすらよく知らない人であった……)。
いや、俺のその個人的な悔恨はともかく、俺は結果的にはその四作を読んでよかったのである。
それらに頭が冴えるような、明瞭な気付きを得ることのできた俺だったが――このときまでの俺は、実のところあまり進んで本を読むほうではなかった。というよりか勉強に必要な本ばかりを読み、あまり物語的な本を読んだことはなかったのである。
まして小説家になろうなどとは、これまで夢にも思わぬ夢であった。――いや、だからこそだったのだ。
通暁暢達 としたプロの技を盗まなければ、まず小説家にはなれない。
ズブの素人どころの話ではないのだ。執筆するしない以前に、ほとんど小説に触れてこなかったまだ生まれて十三年ほどしか生きていない俺が、今から遅かれ早かれプロになるにはまず、手っ取り早い話が小説というものをよく知ることからだ、と俺は考えたのである。
だから俺はこの日を境に、さまざまな小説を読むようになった。そうして語彙のみならず、さまざまな表現の仕方や言葉などを学び、それによる効果もよくよく分析した。のだが――いつの間にやら俺は、小説、言葉というものの魅力に取り憑かれたようにハマッていった。
知らなかったが――言 葉 と は 魔 法 だ。
これまで言葉というものを、単なるコミュニケーションツールだとしか考えていなかった俺は、小説というものの面白さに目を見張った。――単なる文字列が自分の頭の中に映像を落とし込んでくる。――単なる文字列に、確かに自分の心が動かされて踊り、次は次はと、自然とページをめくる手も動かされるのだ。
それでいて、座って読んでいたはずがいつの間にかベッドに横たわっていた、などと、我知らず体勢を変えていたりなんてこともあり、それにもまた驚いたものだ。
言葉とはあまりにも世界にありふれている。言葉とはいつも人の日常の側にいる。ほとんどの人は毎日言葉というものに触れ、実際に自らも何気なく使う。――絵や映像よりもずっと地味な顔をしている言葉というものは、ほとんどの人が普段からなんら特別な意識もなく使っているものである。
しかし言葉というものは、人の心を動かし、やがては人の体をさえ動かすものなのである。
簡単な例でいおう。『〇月〇日新発売! 新食感のさくじゅわグミ、いちご味』なんてキャッチーな広告の、その「さくじゅわ」というフレーズに触発されたある人の頭は鋭敏になって、「さくじゅわないちご味」の食感と味を想像する。すると胃が動き、唾液が湧く。
そして、その新発売のグミに食指が動いた人はわざわざ足を動かし、その「〇月〇日」に何気ないつもりでコンビニへと行く。その後わざわざ金を出してそのグミを購入し、「本当にさ く じ ゅ わ なの?」と期待しながらそのグミを口にする――。
あるいはその人が、またそのグミに関するレビューをSNSに投稿するかもしれない。そうでなくともその人は、誰かにそのグミの話題を話すかもしれない。
そう…言葉が言葉を呼ぶ。
そして言葉は伝聞となり、更なる人の関心をあつめ、また他の人の心と体を動かす――あの『夢見の恋人』がブレイクしたときも、そのように伝聞から人々の関心を集め、世の中へ広まっていったものだ。
言葉は人を操る。
ある人は誰かの言葉に救われる――またある人は、誰かの言葉に殺される。
言葉は人の人生をも変え、左右する。
一見はあまり奇矯とはいえない凡庸な顔をしている言葉というものは、心から人を祝って喜ばせることも、心から人を呪って苦しめることもできる、魔法なのだ。
ファンタジーの世界に出てくる火の魔法のように派手ではないが、ともすればそれよりももっと生かすも殺すもとまで波及する強い効力がある。それでいて言葉とは、ほとんどの人が簡単に使うことのできる魔法なのである。
このヤマトではその昔、言葉に宿っている魔法を言霊 と呼んだ。
要するに我らの先人たちは、言葉には本当に魔力があるのだと信じてきたわけである。とはいえ、確かに現実では「死ね」という意味の呪文でその人がすぐに死ぬわけではないにせよ、その「死ね」というたった一言が、本当に人の自死の引き金ともなり得る――それが、言葉というものの魔力なのである。
だからこそ魔法というものの使い方は、誤らないようにしなければならない。
ファンタジーで例えるのなら、火を灯せる魔法を使い、暖炉の薪に火を灯そうとした人が使い方を誤れば、大事な家ごと燃えてしまうかもしれないわけだ。
現代の人は、言葉の魔法を魔 法 で は な い と考えている人も多いが、言葉はあまりにも身近な、誰もが使える身近すぎる魔法であるからこそ、細心の注意をはらって使わなければならないのだ。
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