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               それは秋の終わり頃、底冷えするような冷え込みの強い日だった。要するに初冬、冬が街の中の色を奪い取ろうとしている過程の季節だ。冬という灰色じみた季節を、また人間のエゴが色鮮やかに照らす時期がそろそろ訪れようかという初冬――下校中の車内でのことである。    俺には彼のいう「()()()()」が何のことかすぐにわかった。  恥ずかしげもなく好き勝手描いたあのラブストーリー、『夢見の恋人』をあろうことかこのモグスさんに読まれたのである。――(うず)み火を灰から掘り起こされたかのような、今にも死にたくなるほどの酷い羞恥心を材料に、メラメラと腹の底から込み上げて燃え盛る熱は、外の初冬の冷え込みに勝って、俺の頬や耳、全身をたちまちヒリつかせた。  車が動き出す。助手席に座って俯いた俺は何もいえずに思考停止したが、モグスさんは感嘆の明るい声でこう続けた。   「いやーあれさあ、俺泣いちゃったよ。天才だよお前ソンジュ、なあ。…んで、俺ぁは思うんだけどよ…なーもったいないと思わないか? あんな良いもん一人占めすんのはいっそずるいぜ。――ということで…なあボク、あれ、出版社にちょちょっと送ってみない?」   「……は…? いや、あれは……」    ちなみにモグスさんはおそらく、本当に泣いたんじゃないだろうか。――なお、俺はゆめゆめ自分が人を泣かせられる作品が書ける人間だ、などと自画自賛しているのではない。    モグスさんはこれで涙もろい人情家なのである。  とはいえ俺はもちろん、『夢見の恋人』を世に出すつもりなど毛頭なかった。滅相もないことである。  これはそんな勇気があるかないかだ、そんな勇気がどうこうの基準におけるところの話ではない。確かに俺はあの作品を熱心に執筆したはものの、これは撞着(どうちゃく)とはいえない。    なぜならあれは、単に俺のモチベーションを保つためだけのもの――俺が叶えたいと見ている夢の象徴物、あのユンファという神の偶像化、個人的なバイブル(聖書)、世のため人のためになどとは露ほども考えないで書いた聖典、俺がための俺だけの理想の聖域。  例えば物心のついた少年が往々にしてはにかみ、ロマンを秘めやかにはしても明らかにはしないことのほうが多いように、自らが空想する完璧な理想の恋人、その恋人との理想的な時間やセリフ、それら夢想を誰にも邪魔されたくない、他人の介入を許さない、許したくないという青春の聖域から出ないところにある、神聖な物語――すなわち俺にとっての聖書、それが俺のユメミであり、俺の『夢見の恋人』であった。    これでは今一歩要領を得ないか?  簡単に言えば、自分の妄想を世の人に明らかにするなど死んでも嫌だったのだ。恥ずかしかったから。   「送らない。嫌だ」   「…なあんだよ、ちょっとした運試しだろぉ? ――ほら。たとえばひと粒のキャンディが、誰かの心を潤すかもしれないんだぜ。」    モグスさんはハンドルを握って前を見たまま片目でウィンクし、スラックスのポケットからひと粒のキャンディを取り出すと、それを俺の膝の上へポイッと放った。俺の制服の濃紺のスラックスの上にのったピンク色は、ピロー包装の成された、チェリー味のキャンディであった。       

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