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               さて――俺は淀みなくユンファさんの白い肌を偶像化していたのだが、その血が騒ぐような勢いのまま書いた作品こそが、あの『夢見の恋人』である。  俺は正直なところ、『夢見の恋人』で作家デビューするなどとは夢にも思っていなかった。――というかむしろ、『夢見の恋人』は端から、小説家になりたいがために書いた作品ではない。はっきりいって自己満足のために書いた作品だ。    つまりあの『夢見の恋人』は俺が自分のために書き、自分のためだけに残し、ユンファさんへの想いを一人で味わうためだけに書いた自己完結的作品である。もはやユンファさんへ向けたものですらない。  俺は夢への酩酊、耽溺を誘う葡萄酒とともに、月夜に自分が食うためだけのパンを焼いたのだ。複数の自分の夢という材料をパン作りのように混ぜて練って寝かせ、そうして膨らんだパンを焼くようにして完成させたのが、あの『夢見の恋人』である。    では、なぜ俺が熱心になってあの『夢見の恋人』を書いたかといえば、俺はあの『夢見の恋人』を誓願のよすがにするために書いた。  初志貫徹のために、しばしば身の振り方を正すために、忘れるべからずの初心たる夢を形とした――。  簡単にいえば、夢を叶えるにおいて時折モチベーション維持のために読み返す、個人的なバイブル(聖書)にしたいというだけのことだったのである。――であるからこそこだわり抜いたのだ。まさか聖書に(わず)かでもほつれなどあってはならない。    すなわち俺は、自らの空想も含めた夢を、ただ目に見える形にしたというだけのことであった。俺はあの『夢見の恋人』を、自分以外の誰かに見せるつもりなど毛頭なかった。――確かに俺は小説作家を志し、本好きな彼と出逢った()()()を契機に、小説というものへ深く関心を寄せるようになった。そしていつかは作家になろうと、さまざまな形で夢を叶えるための勉強には励んでいたのだが。    その傍らでも、別段()()()()()()作家デビューを目論んでいたわけではない。    俺とてそれなりに執筆経験を積んでから、せいぜい大学生になった頃くらいか、満足できる作品を書き上げられたらまあコンテストに応募するなり、出版社に作品を送ってみるなりしてみようか。――などと、あれでも猶予をもった目星をつけて考えていた。    もちろんあの『夢見の恋人』を書くのは楽しかった。  相違なく情熱の赴くまま、寝食を忘れてのことだ。時間を忘れ、眠ることも忘れ、食事のときさえ気もそぞろ、しばらくはいつも心ここに在らずで――そのとき俺の心は常に『夢見の恋人』の世界に、あのユンファさんの瞳の中にあった――、俺はしばらくのこと目も眩むようなあの美青年にかまけていた。    そのときの俺は我ながら正気ではなかった。  その当時の俺の耽溺ぶりはまるで、あまりにも美しいが呪われた絵画の、その魔性の魅力に取り憑かれて正気を失った画家の男、とでもいうか。  ある日男は()()()()()()という、美しい色白の青年の描かれた絵画を家に持ち帰り、自室の壁にかけて飾った。    するとその日を境に雲行きが怪しくなってゆく。  男はその絵画に描かれた美青年――ユンファさん――の瞳を、日がな一日呆けて見つめ続けるようになった。絵画の中の美青年はツンと澄まし顔である。しかし男は美青年を見つめながらニヤニヤして、嬉しそうにこういう。   「彼は俺にだけ微笑みかけてくれるんだ」    男の周囲の人間は大層驚いたが、絵の前に座り込んだ男にはもはや周りの声など一切聞こえていないようであった。  そして男の耽溺ぶりは、日を追うごとに輪にかけて酷くなっていった。男は絵画へ向けて一人でにブツブツ何かをいう。男は一人でにくすくすと笑う。男は一人でに辛そうな顔をする。かと思えばまたぼーっと絵画の中の美青年に見惚れている。まるで絵画の美青年と会話をしているようである。  また、男はその絵画の前で寝て、その絵画の前で食事をする。――そのような常軌を逸した男の狂気に触れては、周囲の人間は驚きよりもやがては恐怖のほうがまさった。    そうして狂気の余生を過ごした画家の男は、生涯最後の作品制作として熱心に、自画像を描いた。「彼が描けといったんだ。こちらに来て、もう一緒になろうと」キャンバスの中の男は恍惚と幸せそうに微笑んでいる。  そして己の身に寄り添わせるよう、あの絵画の美青年を、美青年のタンザナイトの瞳のしわ一本一本までもを、丹精にデッサンしはじめ――。    俺はこういったイメージでエンディングまで一気に、走り抜けるようにあの『夢見の恋人』を書き終えた。そのあとも、俺はその作品をたびたび見返しては修正を加え、更に自己満足のため『夢見の恋人』完成度を高めていった。    ――がしかし、はっきりいってあの『夢見の恋人』は、習作のつもりですらなかったのである。    人の目に触れさせるなど滅相もないことだった。  その気が毛頭ないからこそ自由に、自分の好きなように描いた。それでいて、見込みロングランとなるだろう心願成就のモチベーションにしたいともなればこだわりもあり、俺なりの美の追求もあった。が、しかしそこには、あの作品で一旗揚げようなどという企みこそ本当になかったのである。  再三とはなるが、あの『夢見の恋人』に関しては本当に、誓って、己の野望を託して書いたものではない――。      ――ところが、     「…なあー坊っちゃん、随分()()()()書いたじゃないの」      ある日ニヤけたモグスさんが車の運転席で、その車の助手席に乗り込む俺を見ながらこう言った。         

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