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                  「つまり俺が言いたいのはよ、お前が小説家として大成するかどうかってのは問題じゃなくて、自分のできることで誰かの役に立ちたいって思えるんなら、自分のためにもとりあえず何でもチャレンジしてみたほうがいい、ってことよ。…それによぉ、昔から(かい)より始めよっていうだろ。でっけぇことやるには、まずちっちぇことからだ。――わかったか、ボク?」    (ただ)――俺が両親どころか、誰にも秘めて小説家を志していることが今にモグスさんへ露見したとはいえども、あの『夢見の恋人』を出版社に送るだなんだというのは、一見ニアリーイコール、しかし俺の中では、全く紐帯(ちゅうたい)していない事柄であった。  これで節操はあるほうで、そのような口車に乗るような俺ではなかったのだ。   「うん、わかった。ためになる話をありがとうモグスさん。…でも、それとあれを出版社に送るというのは……」    全く違う話で、はっきりいって関係ない。それだけは嫌だ――と、俺が言うまでもなくモグスさんは、ニヤリとしながら俺を横目に見た。   「いーや。違かないさ。やー俺は素晴らしいと思ったね、ありゃあ絶対に誰かのハートをあつーく動かして、うるっうるに満たす作品だって思った。ほんと、お前は天才だよソンジュ――()()()()()()()()()()()() あっははははは!」    朗らかな熱いほどの笑い声がギターとともに車内に満ちた。折しもまたギターソロのタイミングであった。モグスさんの笑い声と、オーディオから流れるその猛々しいギター音はどこかよく似て、なぜか不思議と調和している。  いや、そうしてあたかも太鼓判を押してくれたセリフはともかくとしても……俺ばかりはさあっと血の気が引いて、末端から込み上げてくる冷えをよく感じた。   「……、……――は…?」    送っ…た……? 理解に時間がかかった。  過去形である。どうも過去形である。おかしい。  先ほどこの男は「送ってみないか?」と、あたかも俺の挑戦を扇動するような問い掛けをしてきたはずである。  しかし、ぱっかりと鍋の蓋を開けてみれば、もくもくと物凄い勢いで立ちのぼる熱い蒸気のごとし笑い声をあげた、このジュウジョウ・モグスという男は――今、()()()()()()で、「()()()()()」と(のたま)った。   「今…なんて…言いましたか……」    悪い予感もここまでくるともはや予感とはいえない。どうか聞き間違いであってほしい。なかば既に怒りを覚えながらも呆然とした俺へ、モグスさんは何か誤魔化し笑いを浮かべ、運転に忙しいというふりで前を見たまま、俺とは決して目を合わせない。   「…ごめん、実はもう送っちゃったんだわ。」   「……、……はあ゛…っ?」    まあ、そうである。  モグスさんは俺が書いたあの『夢見の恋人』を、何かしらの方法で読んだ――とはいえそれは俺が推測するに、恐らくは、夜中寝る間も惜しんで書いては泥のように眠っていた俺が、執筆に使っていたノートPCを眠気に紛れてそのままにしてしまったことが原因で、彼に読まれたのであろう――、そのあと、俺の才能を誰よりも確信してくれた彼は、『夢見の恋人』の原稿をすぐさまコピーし、否応なく出版社へ送った。――というのが、この件の事の顛末のようである。  そして「送ってみないか?」なんて聞いてきた(苦し紛れな)理由は、こうだ。   「…いやぁごめんな。てっきり坊っちゃんなら、“うんうん! よくわかったねさすがモグスさん! そうなの、ボク小説家になりたかったんだ! モグスさんがそこまで言ってくれるならモチのロン送る送る送っちゃぁ〜あう”ってノリノリノリ気になってくれるもんだとばっかり思ってたからよお……」   「……、死ねばいいのに」    しかし馬鹿は死んでも治らないそうである。  ふざけるな、と俺は憤りで頭が灼けそうであった。「送ってみないか」と聞いてくるだけならまだしもである。いや聞くまでもないではないか? 俺に有無を言わせず勝手に送ったくせに、何が「チャレンジしてみよ☆」だこのクソジジイが。  あれは俺の勝手な妄想である。俺がのべつ幕なしにユンファさんとの理想の恋愛を書き綴ったどころか書き殴ったものである。誰それに読ませることなどまず前提にすら置いていないで書いたのだ。    なんならいわゆる濡れ場だって書いてしまった。  ――そうだ。俺はこうなるとも知らず、ユンファさんとのセックスを夢見て、そのベッドシーンを好き勝手書いてしまったのである(そしてそのことが原因で、のちに『夢見の恋人』および俺は世に賛否両論を巻き起こし、今風にいえば炎上してしまったわけである。だが俺だってそこまで恥知らずだったわけではないのだ。まさか人に見せない前提で好き勝手した自分の妄想が世に広まるとは、夢にも思っていないことであった)。   「マジで一回死ねばいいのに」    死など一度きりであると考えるのが普通だが、この場合の死とはもっとも生きているうちにちょっとした懲らしめに会えばいいのに、というものである。またこのように俺がすげなくそしれたのも、父より父らしい気の置けない関係性にあるモグスさんが相手だからこそだ。   「え、はい? あんだって?」    そう。こうして実際は聞こえていながら耳をそばだてる真似をする彼だからこそ、なのである。   「…本気で()がそういうとでも思ってたの…?」    ちなみに、俺はあの『夢見の恋人』でカナエに自分の一人称ではない「俺」を使わせた影響から、自分の一人称もまたこの頃から「俺」になっていた。  もちろんこれまでは「僕」と自分を称していた俺だが、「僕」というのより「俺」というほうが、何か強く頼りがいのある男らしい気がしたのである(つまりあのユンファさんに、「俺」というほうが恋愛対象に見てもらえるような気がしたための()()()が取っ掛かりだった)。   「ねえ。おい…俺が本気で、そんなこというと……」   「いいや?」   「……チッ…クソジジイが……」    モグスさんはそれこそ、俺のおしめを替えるまでしていた人だ。――要するにどだい俺がそんな軽率なノリで「送る送るぅ〜☆」なんて言うはずはないことを、何なら両親よりも彼が一番よくわかっていたはずなのである。  いや、それをよくよくわかっていた上でモグスさんは、俺の根暗で臆病な性格もよく知っていたばかりに――この勝手な否応なしの強行に出たということだ。   「…はぁ……まあ、でも……」   「ん?」   「別に、まさかそれでどうにかなるわけでもないし……」    しかし俺は切り替えた。というか切り替えざるを得なかったわけである。だから強いて恥を堪えながらこう考えた。――まあいっか。別に、出版社に送ったからといって必ずしも書籍化の打診が来るわけじゃないし。  自分の恥を世間に晒すようなことは起こるはずもない(要するにそれですぐ夢が叶うわけがない)。もう既に恥ずかしい思いはしている(誰にも見せたくなかったが、モグスさんはおろか下手すれば出版社の人にまで読まれてしまった可能性がある)が、これ以上の恥の上塗りは成されようもない。    なぜなら、まさか、作家を志しているとはいえども中学二年生が書いた、ひと月ほどしか費やしていない稚拙な作品が、そう上手いこと評価されるわけがない。相手は目の肥えた文章や物語のプロ、一方の自分はあの『夢見の恋人』が処女作のアマチュアともいえない中学生、下手すればちょっと冒頭を読んだだけでその人の笑止を買っていることだろうから。――我ながら一人の夢見る少年であった俺とて、さすがにそこまで甘い世界でないのはわかっているつもりであった。   「お〜そりゃあどうだろうな?」   「…いや絶対あり得ないから…これでもし出版社の人から連絡がきたら、俺、モグスさんに謝ったっていいよ。」   「ふっ…人の才能が日の目を見るタイミングってのは、人間にはわからねえもんなんだぜ、ソンジュ。よくこういうだろ? 人事を尽くして天命を待つ。やるだけやったら、あとは運を天に任せるってな――。」        モグスさんはやけに確信めいた深い声でそう言った。           

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