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「…なんていうか……まあ、ごめん……」
渋々俺がモグスさんにそう謝ったのは、あの『夢見の恋人』が一冊の立派な本となって本屋に並べられてから、しばらくのちのことあった。
こんなにうまい話があるだろうか…俺はまだ夢を見ているような気分ではあったが、それでも約束は約束だと馬鹿に誠実になったのである。――出版社からの帰りの車の中、するとモグスさんはゲラゲラ笑いながら、「ほら言ったろ、ほら! ほらなぁ〜俺の目に間違いはなかったじゃない!」といやに勝ち誇っていた。
なんならこの日出版社に出向いたのも、あの『夢見の恋人』の続編の打診を受けていたのである。俺の想像を絶するほど、あの『夢見の恋人』は世間の人に受け入れられ、愛され、よく読まれていた。
要するに結果は――そ の ま さ か が 起 き て し ま っ た 。
人生、何があるかは本当にわからないものである。
はじめは困惑と迷いがあった。その逡巡 の理由というのは言うまでもなく、俺は、本当にあの『夢見の恋人』だけは世に秘めておきたかったのである。しかし、このチャンスをみすみす逃すのは何か違う気もした。
もともと小説家という職業に憧れ、志していたことは事実である。それがまさかの形ではあるが叶おうとしている中で、この固執した考えは本当に正しいのだろうか?
もしかしたら、千載一遇のチャンスかも――。
結局俺は迷いを断ち切れないままであったが、出版社からの打診に応えた。破れかぶれの心持ちにも近しかったが、まあ乗りかかった船だ。どうなるやらわからないが、行けるところまで行ってみようと――それこそ運を天に任せた結果、俺の『夢見の恋人』はとんとん拍子で一冊の本と相成った。
言い換えれば、俺はそのときに一つ夢を叶え、今に続く小説家となったのである。
千変万化とはまさにこのことだ。俺の両親もはじめは大層驚いてはいたものの、「まあ好きにしたらいいだろう」とさして興味もなさそうであった。――元より俺の父が死ぬまで、つまり俺が九条ヲク家の当主と相成るまでは何かしら仕事をしなければならないし、何よりどだい俺の両親は、はじめから俺の作家活動を単なる腰掛け仕事と思っているのである。
そうして運命は、俺が予測していたよりもうんと早く、突然動きはじめた。――いや、モグスさんに動かされたというべきかもしれないね。
だが、当時俺についた編集者ほど恥知らずな人はいないことだろう。
もちろんあの『夢見の恋人』は、初稿のままで書籍化したというわけではない。
綿密な打ち合わせとプロの編集者からのアドバイスを経てして、やっとあの『夢見の恋人』は出版されたのである。
そうして、そもそも幾度かの推敲 や校正を重ねた上での出版ではあったが、殊に手直しを強いられた場面がある。
それは、例のベッドシーンだ。
というのもその当時の編集者から俺は、あのシーンを全カットすることはしたくないと言われたのである。あのシーンは物語の大きな見せ場であり、また二人の心が通いあうにおいて重要なシーンでもあるため、あの濡れ場をカットすることは、人の恋愛を描いた芸術への冒涜だとまで言われたのだ(熱意の余りに鼻息荒くね)。
そして実はもともとあのシーン、会話文だけではなく、心理、情景、両描写を事細かにしてあった。
当然である。元は一人の少年の、ベッドの上にいる初恋の人への憧れを単に書き連ねただけのものであったのだから。
しかし、いくら俺が中学生だと明かさない予定であろうとも、そのままだとレイティング――年齢制限――を必要とするような、官能小説に近いものとなってしまう。
それはさすがにまずいとの理由から、急遽あのベッドシーンは、会話文のみとなった(また会話文にしても、もっと抽象的なものに差し替えられた)。
そういった紆余曲折を経てやっと校了したあの『夢見の恋人』は、いよいよ世の中へ一冊の小説として出回りはじめたのである。
しかし、俺は書籍化まではしてもどうせ鳴かず飛ばずだろうと、まだ自己疑心の上に悪い予測を重ねて目を細め、疑り深く世の中を眺めていた。一寸先は闇である。
出だしは好調でも、たかだか一冊本を出版したくらいで夢叶ったりとはいえまい。何冊も出せるようになってはじめて小説家といえるのではないか。
ましてやこの業界は優劣のみならず、強運をも試される。さまざまな要素が複雑に絡み合った売れる売れないのしのぎを削る競争なのであり、それこそくちばしの黄色い俺なんかより老熟した作家がひしめく市場で、まさか俺のような若い作家の作品が取り立てて売れるとも思えなかったのである。
しかし――書籍化された『夢見の恋人』は、またたく間にミリオンセラーとなってしまった。
しばらくのこと俺は、狐につままれたような気分で生活していたものである。はじめは本屋の片隅に積まれていただけの『夢見の恋人』が、次第に本屋の中でも楽しげなポップで飾られるようになり、すると今度は駅の壁に広告が、その次には都会の駅の柱の電子公告が『夢見の恋人』のパステルカラーを映し出し…――俺の勝手な妄想が、世間に蔓延 ……いや、またたく間に広まっていったのである。
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