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                 その「夢のような奇跡の一夜」が実現した日は、年が明けてから三ヶ月ほど過ぎた早春――冬と春とがお互いの顔を()めつけあい、季節の主権を巡って競り合っているような季節のある日のことである。  昼間には春が勝ってぽかぽかとあたたかい育みの日差しが絶えずあるというのに、一度日が落ちてしまえば、いまだ我が物顔の冬が自然を凍えさせようと恐ろしい力を強めているような、その運命の日の夜もまた真冬ほどではないにせよ、コートなどの防寒具が必要なほどには寒い夜であった。    俺が予約していた時刻…すなわち、ユンファさんが俺のもとへ来たるべき時刻の午前零時……その時刻の約()()()()()――すなわち午後八時半ごろ、俺は都内随一とも評される最高級5つ星ホテル『ホテル・ベリッシマTOKYO』にいち早くチェックインをしていた。    当然ながら飛び込みなどではない。  約十一年ぶりともなるユンファさんとの記念すべき再会の地に、そして、何よりも月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)という崇高なるその美青年に相応しい部屋でロマンチックな一夜を過ごそうと、俺は事前にこの都内随一の最高級5つ星ホテルの、更に一番グレードの高いスイートルームを取っていたのである。  ちなみにこのスイートは()()()()()なのだ。  今からユンファさんの反応がとても楽しみ……彼、喜んでくださるだろうか?    さて、この最高級を極めたランクの部屋に似つかわしい服装か否かはさておいて、このホテルに辿り着いたときの俺の服装は上下ともに黒ずくめ、スウェット素材のオーバーサイズセットアップ――フード付きの黒いパーカとスウェットパンツ――であった。  ちなみに例のベネチアンマスクに関しては、まさか被ったままホテルまで来たわけもないのと(さすがにスウェットセットアップにベネチアンマスクとは変質者扱いを受けかねない)、ユンファさんがこのホテルに来るまでには相当の時間があるために、今の時点ではまだ用意があるというだけである。    緩く柔らかいこのスウェット素材は思いのほか着心地が良い。しかし、普段はオーダーメイドしたジャストサイズの衣服ばかりを身に着けている俺にしてみれば、この緩く締め付けの感じられない服装はどうもパジャマのような、いわば何か()()()()()()()()のようにも思えてくる。  それこそ、本当にこれで人に会ってよいものなのかどうかとさえ疑いそうになるのだが…(しかも今から会う人とは、よりにもよって俺が誰よりも良く見られたい相手のユンファさんなのだが、これで彼に「だらしない」などと思われたりはしないだろうか…?)。    ちなみに、このぶかぶかとした黒いオーバーサイズのパーカの肩口からゴムの袖口までの側面には、白一色の棘付きの(つた)模様がプリントされている。なお、やはりぶかぶかとしたこの黒いスウェットパンツの両脚の側面にも、同じ白い蔦模様がプリントされている。    更にこの黒いパーカの左胸とパンツの右腿の前面にはワンポイントとして、派手な色付きのブランドロゴがプリントされている。――なおそのロゴは、まるでビンテージタトゥーのようにしっかりとした黒いインクで描かれているリアル寄りの絵柄と、濃くもややくすんでいるような色合いのものである。    そのブランドロゴをあえて一言で表現するならば、「赤薔薇を死守している蛇」といったところだろうか。  一輪の葉と茎のついた赤薔薇の、その緑の棘付きの茎に、とぐろを巻きながら絡み付いている一匹の蛇……ロゴイラストのモチーフはいわばこれだけだが、この蛇がまたかなり特徴的な模様を持っている。  その蛇の(うろこ)に覆われた身に浮かんでいる模様は、赤と緑とベージュの縞模様がベースとなっている。そして、そのどことなくイタリアンな三色の縞模様に、ダルメシアンのように黒いぶちが散りばめられているのだが、しかしその点々とした黒ぶちをよく見ると、実はその黒ぶち一つ一つが「黒猫の顔の形(尖った二つの耳に丸い顔の猫型)」をしているのである。    ちなみにこの黒猫模様は別のデザインパターンもある。  それだと小さな黒猫たちの両目は開いていて、縦長の瞳孔の恐ろしい赤い無数の目で、己らを見た者をじっと責めるように凝視してくるのだ。    だが今回借りたこのセットアップの黒猫はまぶたもわからない、いわば「黒猫の顔マーク」といった具合の黒一色のドット柄だ(さすがに無数の赤い目はドギツ過ぎるからと俺が断った)。  そういった個性的な模様の蛇が絡み付いた赤薔薇の、その八分咲きの花の下で頭をもたげる蛇は、チロリと先が二つに割れた赤い細い舌を出しながら、その横顔についた琥珀色の丸い片目、縦長の瞳孔で見る者を睨めつけている――といったようなブランドロゴが、この黒いパーカの左胸とスウェットパンツの右腿の上あたりに、ワンポイントとしてプリントされている。    要するにこのスウェットセットアップは、一応は「ブランドもの」というのに該当するわけだ。  このパーカのブランドは『SM²(シマシマ)』という。これを貸してくれたカナイ兄さん曰く、一応このセットアップも決して安くはないものなんだそうだが、貸すとはいえもう返さなくていいそうである。    それは「貸す」ではないだろうと誰しもが思うことだろうが、あの男は俺に「たまにでいいからそれを着て人に会え」というのだ。  どうりで新品を渡されたわけである。返さなくてよいも新品を渡されるも、まさかカナイの温情などではない。  要するに抜け目ないあの男にとっての「貸す」とは厳密にいうと、「()()」のではなく「()()」を意味しているということだ。…この『SM²』は彼のプロデュースしているブランドなのである。    ……なお俺がこのホテルに持ち寄った荷物は、(絶対に()()()になどなってやらねぇよと)帰りの着替えなどが入っているスーツケース一つと――およそパーカなんかでも構わないのだろうが、明朝にちょっとした九条(クジョウ)(ヲク)松樹(ソンジュ)としての仕事があるのでね――、そして例の検査キットやらタバコ、私物のスマートフォンなど細々(こまごま)したものが入っている、肉厚な黒革のショルダーバッグである。  ちなみになぜキャスターのないスーツケースを持ってきたかというと、それは一応九条ヲク家の下らない沽券(こけん)を保つという意味合いから、普段俺の荷物はモグスさんが運んでくれるため、俺は、例えばキャスター付きのキャリーケースなど機能的なバッグ類は何も持っていないためである(要するに「荷物を自分で運んではならない、全て召使いに運ばせるべき」という馬鹿げた因習のせいで、俺は今回不便を強いられたのだ)。     

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