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さて、これは俺がこのホテルのスイートルームに到着してからおよそ三十分後のことだ。
俺はこの部屋に置かれている二人がけの、セピア色の革のソファに腰掛けた。目の前に置かれているのは木製のローテーブルである。
ソファと同系色のくすんだ木目調が美しい長方形のローテーブルは、一般的なそれよりも大きい。一般家庭の家族団欒を目的としたダイニングテーブルほどはあろうか、というのも、ソファに座った俺の膝よりやや高いくらいのテーブルの中央に、長方形のガラス柵が設けられている。
そしてその透明なガラス柵の中には小石が敷かれており、中央に一線上に燃える本物の炎、すなわちメラメラと立ちのぼるような焚き火が灯されているのである。
つまり、その焚き火があろうともテーブルとして必要不可欠な実用性、物を置く十分なスペースを確保するために、このローテーブルは一般的なものよりか大きいわけだ。
またこのソファのほうも二人がけとはいえ、シート数が二つというだけで、成人男性も長躯 なほうの俺とユンファさんが並び座っても、それなりにゆったりと座れそうである。
これに俺とユンファさんが並んで座り、卓上のロマンチックな焚き火を眺めながらくつろぐと思うと、……あぁ、今はあえて考えないように。
さて、そうしてソファに座るなり俺は、ショルダーバッグの中からスマホを取り出した。そして早速指定されていた時間帯に『DONKEY』へと電話をかける。
というのも予約を入れた翌日に、『DONKEY』のスタッフから俺のスマホに電話がかかってきた。…その電話の内容は「当日の午後九時頃、俺のほうから店に電話をかけてくれ」との旨であったのだ。
電話の要件は相互確認である。
その電話で俺が店側に確認された内容としては、客の俺が今日予約通り、予約通りの時間(午前零時〜五時)に、予約通りの場所(事前申請していたこのホテル)で、変更なくキャスト(ユンファさん)のサービスを受けられるかどうか。
また指名したキャストはユンファさん(月 )であっているか。キャストに変更はないか(但し会ってすぐならば「チェンジ(キャスト変更)」もできるとも、するわけないが)。予約時に俺が伝えていたホテルの住所に間違いはないか。ホテルの部屋番号はどこか――そういった事務的な相互確認があり、
更に店のほうからは、「キャスト(ユンファさん)が本日予定通りに出勤しており、道路の混雑が著 しくなければ、ほぼ時間通りにお客様(俺)の待つホテルへ到着する」とのことを伝えられた。…そしてユンファさんを乗せた車がこのホテルの下に到着した折に、改めて電話での一報があるという。
ところで俺は、今夜ユンファさんを「貸し切り」で独占指名をしている。要するに今夜彼が接客するべき客は「俺ただ一人だ」ということだ。しかし聞くところによれば、もう既にユンファさんは店に出勤しているという。
何かおかしい。
今夜俺一人のみを相手する予定にしては、いやにユンファさんの出勤が早すぎやしないだろうか?
今はまだ俺が予約した時刻のおよそ三時間前である。
まさかモグスさんのいる自分の家で風俗店に電話する勇気のなかった俺が、三時間も前に此処にいるのはともかくとしても――ユンファさんのほうはむしろ何かしら事情でもなければ、三時間前に出勤する必要性はそうなかろう。
まさかとは思うが――ユンファさんは俺に会うまでの時間に、「他の客も取れ、もっと稼いでこい」とでもケグリかモウラかに命令されたのだろうか?
彼自身が働きたい、稼ぎたいと考えた可能性は極めて低いといえる。なぜならどれほどユンファさんが身を粉にして働いたところで、本来彼が得られるはずの報酬のその全ては、あのモウラの懐に一銭も余さず入ってゆくからである。――あるいは彼のマインド・コントロールの程度によっては自発的に、そういった自己犠牲的な思考にならないとも言い切れはしないが、
何にしたって折角「独占」……すなわち今夜ばかりであっても、「ユンファさんが抱かれる相手は俺ただ一人」という状況をあえて作り出したというのに、――それは嫌。
そこで俺はついこうした欲目が出てしまった。
「…あの、ご無理を承知でお尋ねしたいのですが…、正直、無理かなとは思いますけれど……」
『はい?』
「その、ユエさんを今すぐこちらのホテルにお呼びすることって……あのー、可能でしょうかね…?」
俺の要求に対する店側の返答は――ちなみに一旦ユンファさんにも確認していたようだが――なんとYESであった。…するとどうも「(他の客も取れという)命令」をされていたわけでもなさそうに思えたが、しかし、もしかすると却 ってそ の ほ う が 稼 げ る か ら という判断だったのかもしれない。
というのも、もちろんその追加された時間分の料金は、既に俺が支払い済の料金に加算されるとのことであったのだが、あくまでもユンファさんの勤務時間は「午前零時から早朝五時まで」であるため、そのプラス時間の金額は規定金額よりもかなり割り増し料金になるということであったのだ(追加規定料金+延長料+残業代+追加サービス料だそうだ)。
『……という感じに…あのー、なってしまうん…ですが…、えー、いかが…』
「もちろん幾らでも出します。むしろそれだけでよろしいのですか? 何ならそれ以上でも喜んでお支払い…」
『いえいえっそれは……かし、こまりましたぁ、はい…』
「そうですか。ではそれでよろしくお願いいたします」
俺がさらりとこれを言える大金持ちでよかった(カナイ兄さんには後ほど追加料金の旨連絡しておこう)。
ユンファさんはすぐに向かってくれるとのことである。
また『DONKEY』はこのホテルと程近い都内にキャストのターミナルとなる店を構えているため、このホテルへは多く見てもおよそ三十分前後でたどり着くそうだが、できる限り早い到着を目指しますので、とのことであった。
「では、どうぞよろしくお願いいたします。失礼いたします……――…、…ふー……」
さて俺はその電話を終えたあと、何気なくスマホ画面の時間を見た。…まだ九時回って七分である。
ユンファさんが此処へ来るまでには、まだ多く見て三十分以上も待たなければならない、のか。…もちろん元は三時間ほど待たねばならなかったのに比べれば、その待ち時間自体はかなり短縮されたわけだが。
しかし、俺はそもそも待つのが嫌いなタイプである。
だが何よりそれ以上に、俺が首を長くして待っている人が初恋の人ともなれば、その不確定的な三十分は気の遠くなるような長い時間に感じられてしまう…――ましてや「三十分」と決められているならまだしも、「できる限り早い到着を目指す」という不確実性を付け加えられてしまうと、尚の事どうも気持ちが落ち着かない……。
「…うぅん…、どう…時間を潰したものかな…――。」
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