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                   さてチョコレートを六粒と温かいエスプレッソを一杯、それらをローテーブルに置いてソファに座り直した俺は、丸いチョコレートの包装を剥きながら考える。   「……、…」    スマホで時間を潰すとは現代人にとってまず先に思い付く暇潰しの術であろう。――しかし今度ばかりはやめておくべきかもしれない。…スマホを見ていては結局俺がそれで何をしていても、画面左上の現在時刻が俺の目を誘ってくるに違いないからである。    それこそ小さいそのデジタル時計は、普段ならば何ら存在感のない、比較的大人しい存在である。…その存在感のなさを例えれば、ちょっと五分だけ休憩しようかと動画アプリを開いたが最後、五分休憩のつもりが時間を忘れて一時間も動画を見てしまった…なんてこともきっと、現代人にはまま経験のあることであろう。  しかし、今の「待ち時間」というものにしばしばフラストレーションを感じてしまう俺にとってのそのデジタル時計は、俺の目を誘惑しては俺が掴もうとした尻尾を引いて逃げて俺をからかう、いわば悪魔のようなものである。    そして俺はそのデジタル時計が示す現在時刻を見る度に、まだか、まだこれだけしか経っていない、まだなのかと、このもどかしく焦燥した苦しみを味わうことになるであろう。……やはりこのチョコレート、口の中でとろけるね……今は時間を、ひいてはスマホを見るのはやめておこう。――俺は柔らかいスウェットパンツのポケットに入れていた、絶えず俺の腿に硬質な存在感を示していた自分のスマホを、目の前のローテーブルの上へと置いた。卓上の焚き火が黒いスマホの画面にめらめらと揺らぎ映っている。  またユンファさんがいつ来るとも知れないので、念のためベネチアンマスクもショルダーバッグの中から取り出して、テーブルの上のスマホの横あたりに置いておく。    さて、と俺は小さなエスプレッソカップの取っ手を摘み、中のエスプレッソを舐めるような量だけ口に含む。   「……、…苦いな」    俺の食べ慣れたチョコレートこそ間違いない美味しさではあったが、しかし、今一口飲んだこのカプセル式のエスプレッソはモグスさんが淹れたものよりもエグみが強く、チープな苦味と酸味が強い。  所詮インスタントでは致し方ないが、これはエスプレッソというよりか、ただ苦いだけの濃いコーヒーである。その上どうも余計な雑味がある。またコーヒー豆本来の甘味が加糖によって打ち消されているばかりか、その砂糖のせいでコーヒー豆のコクや旨味がほとんど感じられない。  非常に味のバランスが悪い……香りはまあまあだけれど、やはり修行を積んだプロのモグスさんが淹れたものには(かな)わないな。    ――パッ……『ものぐさ さん:無事、ついた? ぼくちゃん、ガンバ(目が><の笑っている絵文字)!!』    ローテーブルの上に置いた俺のスマホの電源が、音もなくメッセージ通知に点灯する。俺が目を下げて見れば――噂をすれば何とやら、モグスさんからメッセージが来た。  ちなみになぜモグスさんが、俺が無事目的地に着いたかどうかを気にしているかというと、それは俺が今日このホテルまでタクシーで来たためである――モグスさんに現段階で妙なことを悟られないようにと(逆に何か悟っているようだが…)、俺は彼の送り迎えを断ったのだ――。    また、なぜ俺がモグスさんの名前を「ものぐさ(さん)」と登録しているか?  実は彼の「モグス」という名前はもともとよもぎから精製される、太古の昔から(きゅう)などに使われてきた薬草の「(もぐさ)」から名付けられたそうだ(俺の樹やユンファさんの華のように、十条にヲクが付いていた頃からの伝統で、十条家の象徴は「薬草」なのである)。  しかし、モグスさんの祖父が出生届の「もぐさ」という読み仮名を、「変体仮名」という江戸時代に使われていた読みにくい字で書いてしまったため(教養ある十条家の上に今還暦近いモグスさんの祖父では致し方あるまい)、「さ(元の字は左)」と「す(元の字は春)」の見分けが付かなかった役所の者が、間違えて「モグ()」として受理してしまったそうなのだ。――であるから、俺はそのこととあの人の妙なところでものぐさな性格をからかって、「ものぐさ(さん)」との名前で登録しているのである。    パッ…『ものぐさ さん:なあぼく、今日、やけに、気合い入ってなかった(目を見張って驚いている顔の絵文字)? 好きな人に、会うんじゃないの(ニヤリの絵文字)? ぼく、俺は、応援してるぜ(ニッコリの絵文字と親指を立てている手の絵文字)。』   『ものぐさ さん:お前なら、絶対、やれる!! モグスおじさんは、ぼっちゃんからの、良い報告、待ってるからよ(ウィンクニッコリの絵文字)。』――無視しておこう。     「…うーん……」    ではどう時間を潰したものか。  俺は広い部屋に満ちた静寂の中で腕を組む。ちなみに俺の片頬は、今しがたもう一つ頬張ったばかりの丸いチョコレートで膨らんでいる。    この圧迫感のある静寂は、このスイートルームが約70平米もの広さがあるからこそであろう。ほとんどファミリー向けマンションの一戸全体の広さである。むしろ狭い部屋のほうに圧迫感を覚える者のほうが多いかもしれないが、脱衣場やトイレなどを除けば、壁の仕切りなど一切ない開けたその広い部屋にたった一人とは、あまりにもその「一人」というのが強調されてくる。  それこそ普段ならば何ら圧力の感じられない空気なんていう軽いものが、何か俺の両肩にのしかかってきているようにさえ感じられるのである。――それはまるで厳格な愛を持つ父親が躾のために、「待つ」ということを我が子に教えるために、待ち疲れてぐずりはじめた子の肩を押さえて「もう少しの辛抱なんだから、大人しくそこに座って待っていなさい」とでも静かに叱ってくるようである。  …まあ俺の実の父親はそういう場合なら、まず大声で怒鳴り散らかしてきたものだが、ね。    しかし、この広い部屋に満ちた静寂は俺に我慢を強いて、そうしてユンファさんを待つ時間をより遅いものにしているようではあるが――その一方、この部屋の壁から流れている小滝のちょろちょろとした小さい水の音が俺の耳に寄り添い、慰めてもくる。    それはまるでやさしい母親が子をなだめているかのような、控えめな慰めだ。まあ俺は待ち疲れてぐずる我が子を「もう少しの辛抱よ、もう少しだからね、もうちょっと待っていてね。あれ? ほら、あれなんだろう?」などとなだめるような母をもっていたわけではないが、そのような母親を見る機会はこの街の中にいくらでもあろう。  すなわち、そのちょろちょろとした音は確かに時が進むからこそ立つ音である。時が流れると共に流れ落ちてゆく水の音だからである。するとその音は、さても多少は時の進みを速めてくれているようにも感じられた。     「……、……ぁ」    口の中で咀嚼している甘く美味しいチョコレートがとろけ、濃厚な甘味が舌に絡み付いてきた頃にはたと思い至る。しばらくはタバコも吸う暇もないだろうなと。    俺はエスプレッソをぐっと飲み干した。その苦味で口の中のチョコレートを無理やり喉へと流し込んでから、立ち上がる。そして俺は、この部屋に付いた寒空のバルコニーへとタバコを吸いに出た(この部屋は室内禁煙なのである)。       

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