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                  「ぁ、あの、凄く緊張されているようだったので…」    俺からさっと体を離したユンファさんは申し訳なさそうに黒眉を翳らせ、その薄紫色の瞳で、俺の目をやや見上げ気味に見てくる――なるほど今や俺のほうが八センチほど背が高いため、178センチのユンファさんであってもこうして、やや顎を上げねば俺の目が見えないのだ(最高に気分が良い)――。    どうやらユンファさんは今、俺のことを気遣ったが故に俺に抱き着いてきたようである。但し彼個人からの気遣いやちょっとした悪戯(いたずら)心というのではなく、それは風俗店のキャストとしての()()()()()()()であった。――それがどういうことかといえば、要するに彼はあまりにも緊張している(客の)俺の強張った気分をほぐそうと思い、(風俗店のキャストとして)ちょっとした「可愛い悪戯」を仕掛けてみようかと俺に抱き着いてきたのである。   「ごめんなさい、驚かせ…というかご不快でしたよね、本当にごめんなさい…」    すぐさま俺から身を離し、怯えて俯くユンファさんの伏し目は切れ長の一重まぶたであるからこそ、その黒いまつ毛の下で陰る群青色となった瞳もまた、本当に美しい。  この至上なる月の男神に俺は今抱き着かれ……――。   「…違うんだ…っグ、う゛……」    俺は弁明のさなかにも顔を仰向かせ、意味もなく仮面の上から鼻を押さえた。もうユンファさんは俺の体を抱き締めてなどいないが、今さら鼻の奥がツーンとしてきたのである。俺は胃もなかなかに弱いが、なんせ鼻が殊に弱い。   「ご、ごめんなさい本当に、ごめんなさ…」   「む゛し゛ろ゛(う゛れ゛)し゛す゛ぎ゛た゛ん゛だ゛……っ」    至福、高い立派な天井が滲んで見える。俺の目に涙が浮かんでいるのだ。至福、興奮とも涙のせいともわからないが、鼻血が出そうな気配さえする……至福、至福、至福、惜しむらくはユンファさんを抱き締め返せなかったことである。   「……、え…?」   「もっと…もっとして…お願いだ……」    先ほどは力みすぎたと恥じた俺の、高い勾配天井に放たれた俺のこの声は、さながら死の臥所(ふしど)で愛する人へ何かしら冥土の土産をねだる人かのような、か細い、しかしいやに必死な声音である。  どうやら呆然としていたらしいユンファさんだが、ややあって「はい」と柔らかな安堵の笑みを含ませた声で応えるなり、再度――ぎゅ……。   「…グうっ…あぁ゛…どうしよ、…こ…な……」    俺は困って呟いた。  ユンファさんの硬く平たい体が、俺の筋肉で肉厚な体にぎゅうっと押し付けられている。俺は上向きの顔をやや俯き加減へ、そっと壊れ物を抱き締めるかのようにユンファさんの体を抱き締めてみる。    ドキドキと俺の胸は全く生き急いでいる。  八十まで生きるとして人の心臓はおよそ三十億回ほどしか鼓動を刻まぬという。それも哺乳類の心臓が刻む鼓動には死のカウントダウンともいえる回数制限があり、またその鼓動のテンポが速ければ速いほどに寿命も短くなる傾向があるというのだが、俺はそのうちのいくらかを今に大分早く(速く)消費しているような気さえする(俺はユンファさんと結婚したらいよいよ早死にするだろうか? いやその人のせいで俺が夭逝(ようせい)しようがそれもまた運命、彼ならむしろ本望……)。   「……はは…、凄く…ドキドキ、していますか…?」   「…あ、わ、わかる…? はは……」    ユンファさんは上品な声色で、俺の生き急いでいる心臓を擽るように優しくからかってきた。  布越しとはいえ、俺の荒波を刻む胸板がユンファさんの胸板に密着しているのだからそれがわかって当然ではあろうが、しかし、俺の心臓の生々しい鼓動がユンファさんに伝わってしまっているとは何か恥ずかしいような嬉しいような、これもまた初めて知った妙な感覚である。  なお今回は却って幸いかもわからないのは、ユンファさんが左肩にかけている黒革のバッグの質量が、それでも俺とユンファさんの体の密着度を多少弱めているところである。   「何だか可愛いな…」ぽつりとユンファさんは俺の耳元で呟いた。彼のそのかすかに甘い声に俺の心臓が一度大きく跳ねる。   「……ぁ、…ふふ……」    どうやらドクンッと小さな衝撃をも胸に感じたらしいユンファさんが少し驚き、それからやや離れて、俺のことをからかうように甘く優しく睨んでくる。――その甘く細まった切れ長の目が見惚れるほどに綺麗だ。   「…はは、ご、ごめん…凄く色っぽくて、今の…」    実は先ほどのユンファさんの「可愛いな」は、風俗店のキャストとしての客に対する義務的な媚態などではなく、俺の心臓の速い鼓動を自分の胸に感じていることに覚えた、かすかな愛おしさ…すなわち、ユンファさんの本音であったのだ。そして、その好きな人の愛を敏感に感じ取った俺の心臓が、大きくドクンッと跳ねて喜んだのである。   「僕までドキドキしてきちゃった……ぁ」   「…は、はは…、……」    俺は恥ずかしいあまりに顔を隠すため、再びユンファさんを抱き締める。しかし先ほどから滑稽なことに、ユンファさんの痩せた硬い背中を抱き寄せている俺のこの両手が、両腕が、ガタ、ガタガタと運行中の電車内というほど不規則に、大きく震えて時折跳ねる。  そのたびに彼のカッターシャツの乾いた布と俺のスウェットのパーカの袖とが、かさ、かさっ…と小さく鳴るのがいやに羞恥を煽られる。――どうも事前に幾度していたイメージトレーニング上の俺は、ユンファさんの前でこんな醜態を晒してはいなかったのだが……所詮イメージトレーニングはイメージトレーニングだ。自分の情けなさを差し置けば、今の現実のほうがよっぽど幸せである。   「…緊張してしまいますよね…」    俺の緊張をやわらげようという甘い声を出したユンファさんは、その片手で俺の背をするりと撫でた。   「……そう、だね…、……」    緊張…もちろんしている。だが、それよりも俺の腹の底からこみ上げてくるこれは、(うら)らかな花畑の最中で微睡んでいるかのように甘い幸福な恋心だ。――やはり肉体というものを肉体で感じるとうっとりとして、むしろ冴えていたまぶたが重たくなってきた。もちろん眠いのではない。    誘惑――匂いとは一番それの力が強いかもしれない。  俺は肉体に刻まれている本能から、華の甘い匂いに吸い寄せられてゆく蜜蜂のように、ユンファさんのほのかな桃の匂いを辿ってこの顔を、おもむろにその人の耳元へと寄せる。――恐らくユンファさんの耳の裏あたりからほのかに香っている彼のこの体臭は、桃の香水など人工的な香りではなく、完熟した実際の桃の、その魅惑的な甘くも爽やかさのある香り……俺にとっては何よりも甘く、何よりも頭からとろけてしまうような、何よりもずっと嗅いでいたいと願うほどに大好きな、俺の「初恋の香り」である。   「……、不思議だ…凄く落ち着いてきた…」    俺はユンファさんのその桃の香りを彼の耳元で堪能していると、何か不思議と昂ぶり過ぎていた神経が、すなわち過敏なほどであった気分が落ち着いてきた。  どうもユンファさんの桃の匂い(体臭)には興奮作用のみならず、鎮静作用まであるようだ。…もはや、これは癇癪持ちの上に少々(本当はかなり)ナイーブなところのある俺が必ず手に入れなければならない、いわば俺には全く必要不可欠な、俺の人生に幸福をもたらし得る妙薬に違いない。  しかも「良薬は口に苦し」というが、ユンファさんの嗅ぎ薬(体臭)に至っては全く良い、甘くとろけるような完熟桃の香りそのものである。何ならオメガ属であるユンファさんは舐めても甘い、全く苦くないどころか、いみじくも「美味しすぎる良薬」である。    するとユンファさんはさながら、桃源郷にあるという仙果(せんか)蟠桃(ばんとう)――食べれば仙人、不老長寿、いや不老不死にさえなれると言われている桃――に違いない。…良薬は口に苦しとは結局、この酸いも甘いもある浮き世に限られたことなのであろう。  なるほどそう思えば確かに、俺がユンファさんの()()()()()()()()、確かに俺(たち)は不老長寿となってしまうのか。    まずこの妙薬の効き方からして間違いない、俺たちは“運命のつがい”だ――あとは理屈っぽいユンファさんを黙らせる()()が必要だが、()しくも()()()()()()()()()()()()のだよ――。  そして、さしずめ“運命のつがい”である俺とユンファさんが実際につがいになれば、たちまち俺たちは不老長寿の身となってしまうわけだ。――思えば俺の松にも不老長寿の象徴が込められている…なるほど俺たちの運命はやはり、初めから「不老長寿(つがいになる)」と決まっていたようだね。    やはり俺は必ず、月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)と結婚しなければならない――。  俺はこの甘い桃の匂い(俺の妙薬)の効能に感激しつつ、耳元で放つに相応しい声量でユンファさんに話し掛ける。   「…ありがとう…貴方に抱き締めてもらったら、少し気分が落ち着いてきたよ…――だけれどごめんね…、貴方があまりにも綺麗過ぎて…正直ガチガチになってしまうくらい、俺、どうしても緊張してしまうんだ…。情けないよ…貴方にみっともない姿ばかりを見せてしまって、本当に恥ずかしいな……」   「……ふく…ッ♡ っは…あッぁ、そっそうなんですか、? はは…へ、へえ……」   「……、…」    おや…?  …ユンファさんはひくっとわずかに肩を竦め、その顔もまたわずかにぴくっとさせると、ふい…っと、ほど近い俺の顔から、何か顔を背けるように横を向いた。――それも彼のセリフは何か誤魔化しの色が濃い。   「ぁと、というか、いやよっよかったというか、ありがとうございます、というか…いやっそんな、あの、み、み、みっともないだなんてとんでもないですよ、はは…誰でも緊張しますから、結構皆さん緊張されていますよ、だから全然おかしいことはないですし、全然大丈夫です、…」   「……ふふ…、……」    可愛い…これはどうも誤魔化しからまくし立てている(言葉の内容はやはり思慮深い優しさがあるが)。  俺はユンファさんの耳殻(じかく)――耳の外側のライン――をなぞるようにして、耳の半分を隠すほど長い彼の黒髪をその耳の裏にかけた。その髪はぬるかった。それにユンファさんはぞくぞく…と極小さくも震え、白い頬をじわりと淡い薄桃色に色づかせた。髪に覆われていたことによって熱のこもっていた、むしろ熱の根源たる、軟骨に薄皮の纏われた耳殻もまた熱い。  そうして俺が露わにしたユンファさんの生白い耳は、その実上のほうの滲むような赤らみが濃い。  俺はユンファさんのその可憐な少年のような耳に唆られ、仮面越しにもその耳の穴に唇を迫らせた。   「…ふふ…もしかして貴方は、お耳が弱いのかな…?」   「…ッはぁ……!♡ クっ…いやそ、そんな、…いえ、…」    俺の腕の中で顕著にビクンッと反応したユンファさんは、咄嗟はにかんで「いや、そんなことはないんですが」とでも否定したそうであったが、…彼は自分の身分が風俗店のキャストであるというのより、もっとも自覚の深い「性奴隷である」ということをすぐに思い出した。   「そ、そうなんです…耳、性感帯で…、耳だけでイッてしまうこともあるくらい…、はは…どうか、していますよね、本当……」    ――彼は性奴隷の自分が性感帯を指摘されて恥ずかしがる権利などない、むしろ自分は正直にそれを告白して恥をかくべきである、と――言いながら、俺からゆるやかに離れようとする。俺はもちろん逃さない。空中に漂う煙がふぅとわずかな息を吐きかけられて散ってゆくように逃げようとしたユンファさんを逃さない俺は、彼の腰の裏を優しく抱き寄せる。  ユンファさんはピク、と腰を極小さく跳ねさせたが、優しい力で何ら問題ないほど俺の腕の中で大人しい。そして俺は追うように、その露わな赤らんだ片耳の近くでこう囁く。   「…そう…? むしろ凄く可愛いじゃないか…、お耳だけでイけちゃうだなんて、素敵だね…」   「……は…ぁぁ……♡」    俺が囁いた瞬間、腰のほうからぞくぞくぞく…と背筋を震わせたユンファさんは、気の抜けたような吐息めいた嬌声をほんの小さくもらした。しかし彼は「ぁ、ごっごめんなさ、…」とすぐ俺の胸板を強く押し退けて離れる。   「ごめ、なさ…ごめんなさい、声なんか出して…」    眉を顰めているユンファさんは口を片手で押さえて俯く。彼の白い頬はまだじわりと薄桃色に紅潮しているが、その顔からはさあっと血の気が引いてゆく。また彼の切れ長の伏し目は気後れに小さく震え、美しい黒いまつ毛の下にある瞳は哀艶と濡れた群青色に見える。   「ごめんなさい…」   「…凄く可愛い声だったよ。謝る必要なんかないのに、なぜ謝るの…?」    俺は問いかけながらユンファさんの口元にある手に指をかけて、そっとその手を退かした。抵抗はなかった。   「……、…、…」    ユンファさんは唇を動かした。但し声はない。  彼はあまりの気後れに声を出しているつもりで、その恐怖に塞がった喉からは声を出そうにも全く出ないようである。彼はこういったのだ。「ごめんなさい、ごめんなさい、()()()を出して」  むしろその声を自分で咎めているからこそ恐ろしくて声が出ないのであろう。   「変な声だなんてとんでもない…凄く綺麗で、とても可愛らしい声だったのにな…、……」    全てはあのケグリのせいである(お前なぞいつかロードローラーで踏み潰してやるからな害悪イボガエルめが)。  元より全ての要素に麗質を持っているユンファさんの男性ならではに低いが美しい、麗らかな玲瓏とした響きのある声は全く並の男と比べても美しい声といえる。――あの日より美しさが増しているのはその声もまたそうである。    十三歳の俺があの日に聞いた、十六歳のユンファさんの声とて俺はそれこそ「大人の男性の声」であると思っていた。しかし今の彼の声に比べると、声変わりのさなかにあったあのときの彼の声は、やはり若々しいフレッシュな、まるで硬く青い若桃のような高さがあったようである。    まあアルファ属以外が聞けば言うほどには変化がないと思うことだろうが(声の出し方の問題とも思うかもしれない)、その実今のユンファさんのその声は、十六歳のときの彼の声よりも、大人の青年のビターな深みと耳心地の良いなめらかな甘い低さが増して、より甘やかな響きのある美しい男性の声となっている――比べればさながら若桃が熟れて大きくなり、すっかり甘くとろける完熟桃となったかのようになめらかな甘さの増した美青年の声だ――。    ユンファさんの声は、他の男に比べればやや高いほうの声とはいえるだろう――少なくとも俺よりは高いだろう――が、しかし、そのように甘やかな彼の声に含まれている高音はもちろん女性や少年の高音ではなく、あくまでも成人男性の喉から成される爽やかで優しげな男性の高音である。  いわば「優しげで爽やかなのに色っぽい深みのある男性の声」といったところであろうか。このかろやかな声には人をときめかせる華やかさと爽やかさがある。その上で響きはとても甘やかで柔らかく優麗としている。それでいて若い青年らしい深みがあり、俺の肉体の奥底に響き、そこに潜んだこの魂を小刻みに震わせられるだけの低さもある。    そのように美青年らしく端麗とした、いわば甘いマスクの王子様が出すに相応しい上品な男の声が「あっ」と上擦る――なるほどエロすぎる――むしろそのドエロい声もっと聞かせてくれよユンファ頼むから(土下座で)、などと美辞を忘れるくらいだろうどう考えても。   「むしろ俺は、もっと聞かせてほしいくらいだ…んふ…」    俺がユンファさんの青褪めてしまった片頬を、親指以外の四本の爪の腹でするりと擽るように撫でると――つぅ…と彼の美しい切れ長の目は上がり、あまりにも儚げな薄紫色の瞳が俺の目を見てくる。   「……、…」   「…………」    俺はそっと、ユンファさんの片頬をこの手のひらにおさめた。カタカタと震えている俺の片手は彼の頬の感触を曖昧にするが、熱くも冷たくもないぬるい温度ばかりは辛うじてわかる。  自分の顔を見つめられているということに気後れして伏せられた切れ長のまぶた、生え揃った黒いまつ毛の先に宿る艶めかしい儚さは、いやに男を誘うような清廉さである。    ゴクリと喉を鳴らした俺は、ゆっくりと顔を傾けながら自然と、ユンファさんのゆるく合わさったその肉厚な唇に惹き寄せられてゆく。  彼ははたと驚いて目を上げた。至近距離で俺と目が合ったユンファさんは目を(みは)る。        俺は目を瞑り――ユンファさんにキスをした。           

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