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                 俺がユンファさんにしたキスの角度は完璧だった。  顔を傾けないユンファさんの唇に、俺のほうが顔を傾けて唇を合わせ、また八センチ差からわずかに俺は首を竦めている(この程度の差なら膝を曲げるほどのことは要さない)。また俺の片手はユンファさんの肩に、もう片手は彼の後ろ頭にそっと添えるように…――このCoolなイカしたなめらかな動きでのキス、自然そのままの動きではありながら初心(うぶ)なぎこちなさなど少しもないキス、これは我ながらPERFECTなキスであったといっていい。    これならば彼に()()などとは思われなかったことであろう。――ユンファさんは固まっている。  それは何も俺のキスにときめいてくれたというわけではない。   「…………」   「……、…」    なるほど…彼は困惑している。いや俺も困惑している。  そうしてユンファさんにキスをした俺の唇に訪れた感触は、俺の唇が約十一年ぶりに味わうべきユンファさんの柔らかい唇の感触――などではなく……彼の唇と俺の唇に挟まれた自分の仮面の唇、その硬い二人を隔てる壁の感触ばかりがこの唇に押し付けられた。  途端に興醒めする俺はさっと離れ、自分の腰を両手で掴んだのち、面映(おもはゆ)い思いに天井を見上げた。    なんと立派な天井かな…俺のユンファへの愛は青天井。   「何かおかしいね…この俺がなぜ…、なぜでしょう…?」   「…あの、仮面…?」   「…やめて…」    どうか指摘してくれるな月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)――。   「……なぜかすっかり忘れていた……」  PERFECTなキス……いやむしろ最悪だよ。  あまりにも儚げなその美貌に、俺は自然とキスをしてしまったのだが――どうりでユンファさんが驚くはずである――忘れていたが、俺は今仮面を着けていたのだった。   「……はは…ほ、本当にどうしようもないな俺は、情けないことに…わ、忘れていた、仮面のことをすっかり……」    よし、可愛く笑って誤魔化しておこう。   「ははは…すみません、言おうとはしたんですが…」    ユンファさんは緊張の糸が緩んだように楽しげに笑ってくれた。はたと八センチぶん見下ろせば、彼はにこっと破顔しながらも「言う前にもう…」とそれよりは皆まで言わないでくれた。ユンファさんの頬が薄く紅潮しているのが何とも、美青年の白い頬が紅潮しているとはこれほどまでにも可憐か。なるほど――死にたい…恥ずかしい。    そしてユンファさんは、俺の目を優しい切れ長の目で見てくる。   「…はは…いえ、そりゃあ緊張してしまいますよね。でも大丈夫ですよ。…今夜は全て僕に任せてくだされば、きっと大丈夫ですから…ね」   「……、…」    俺は彼の微笑に馬鹿らしい虚しさを覚えた。  当然のことである。――俺のこの恋心の熱量は、例えば太陽の膨大なエネルギーだ。  表面温度だけでおよそ六千度にも達するその温度から放たれるエネルギーは、3.6×1026ワットと瞬時に地上を枯渇させるほど膨大なエネルギー量を放っている。…それだから俺の愛とはおよそ恩恵とも災害ともなり得るとは、さすがに自覚してはいるのだが。  しかしそれにしても酷い温度差だ。ところがどうだろう、地球よりよっぽど雲も何も邪魔するもののない我が月ときたら、その俺の熱量にも冷めた「仕事の目」をしている。    簡単にいえばユンファさんは、例えば痛みに(うめ)く患者の幹部を優しく撫でながら微笑む看護師のような、そういった「仕事としての優しさ」で、今も俺のことを気遣った。  まあ好きな人であるユンファさんにキスをしたつもり()()()俺はともかく、今の「仮面キス」にはさすがに、誰もときめくはずはないんだが――この際あの馬鹿げたダサすぎるキスのことは忘れるにしても――当然彼がああして俺を抱き締めてくれたのにしろ、思えば「(客をあやさなければならないキャストの)仕事として」というそれ以上の何があるわけでもなかったのである。――だが、それが当然であることは、これでも俺はよくわかっている。   「…………」    しかし、一秒ごと俺のユンファさんへの恋心の熱は増してゆくが、そうして俺のほうの温度が高くなればなるほどに開いてゆく、この温度差はさすがに切ない。  とはいえ、今に俯いた俺が、その寂しさに多少心を落ち着かせたのもまた事実である。ある意味では、拒みようもない現実という冷ややかな風に熱っぽい浮かれきった敏感な心が吹きさらしになり、そのヒリヒリとした痛みによってハッと冷静になった、とでもいうべきだろうか。  まあいいだろう、今宵はまだ始まったばかりである。  挽回の余地などいくらでもあるよ。幸いなことに、俺ほど完璧な男など世の中にはなかなかいない。    さてここで突然はたとひらめいた俺は、「あっそうだ」と声を弾ませる。……しかし今に始まったことでもないが、俺は目の前のユンファさんをどうも見られず(先ほどはどうしたことか、多少は彼の美貌を見られていたのだがね…)、彼の背後、斜め下のドアの隅を眺めてしまう――クリーム色の大理石風、目立った(ほこり)などはなく、むしろ重箱のつつける隅がないほど綺麗に清掃の行き届いたエレベータードアの隅だ――。   「…あーあのそういえば、運転手さんに電話で報告するというプロセスがあるんでし、…だったよね? どうぞ。」    俺はどうぞと片手を差し出すようにして、今の思いつきのままそうユンファさんへ、「報告電話」を促した(彼からは目線を外しながら)。  なおそれというのは俺が事前に、こういった風俗店利用の流れをリサーチしていたが故に知っていたことだ。    その「報告電話」とは、風俗店のキャストであるユンファさんが客(俺)の元に到着した折、下に待つ運転手兼スタッフに電話で報告をしなければならないといったもので、要するに「業務連絡」である。――またその報告内容というのは、プレイ前にキャストが無事客の元へ到着できたかどうかと、これから客と行うプレイ内容の最終確認等であるそうだ。  なおその際に、客があまりにも無理を強いられるであろう相手であるとキャストが判断した場合においては、キャストが下に待つ運転手にその旨の連絡をして、その客とのプレイを断るということもできるらしい。    何なら俺もわからないが、これまでの俺の挙動不審さから思うに、俺は最悪ユンファさんに「やっぱりちょっと無理ですね…正直キモいので」だとか言われかねない気もするのだが、……なるほど考えただけで絶望だ……。  いや何にしても――ユンファさんにその「業務連絡」を勧めた俺には、ちょっとした(下心が故の)()()があるのである。       

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