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                  早速電話をしようというユンファさんは左脇を開いた。もちろんその左肩に、スマホが入っているのだろう肩掛けのハンドバッグがかかっているためである。    彼は黒革のバッグのストラップ(バッグの紐、取っ手の部分)を完全には肩から外さないままバッグの口を開き、それの中を覗き込みながら右手を突っ込んで、ゴソゴソと中を漁っている。  そして、ややあってから目的のスマホを見つけ出したユンファさんは、バッグから取り出した、ケースなど着けていない銀のスマホをさっさっと操作し――早速それを右耳に宛てがっては俺の予想通り伏し目がち、「……ぁ、もしもし…」と控えられた声で通話を始めた。  その囁くような声がどうも男の甘い声と聞こえ、これはまたいやに色っぽいではないか――。   「ユエです。お電話が遅くなりまして申し訳ありません…はい…」   「……、…」  ――あぁ、やっぱりお綺麗。  さあ、じっくりと堪能しようか――約十一年ぶりに遮りもなくこの目で見られる、月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)のその至上なる月の美貌を……。    ……とその前に――やはりこれだけはしておかねばと俺は、やや顔を俯けた伏し目がちのユンファさんに一歩、二歩と小さく歩み寄る。  目の合わない今がチャンスである。視姦…否、俺が()()()()()()()()()()()()にどうにか平常心を保つため、今のうちにちょっと「妙薬・曇華蟠桃香(ユンファばんとうか)」を吸っておこう。    ましてや俺は、今からユンファさんを抱き竦めようとしているわけだが――近くから逃げられたら、俺は彼の桃の香をもまた逃す、ということを意味しているためである――するとあるいはまた、ユンファさんは俺と体を密着させた折に、「俺の匂い」を嗅ぐことになるかもしれない。    ぜひユンファさんには俺の匂い、もっといえば、俺の「フェロモンの匂い」を嗅いでもらわなければ……というのもその実、オメガ属がアルファ属のフェロモンを嗅ぐと――()()()()()()()()()()()()があるそうなのだ。  とはいえあの(一応お医者の)カナイ先生曰く、俺たちアルファ属のフェロモンというものは、嗅いだ人のその時の気分や状況、また嗅ぐ人によっても多少効き方が異なるそうである。  ――簡単にいえば、オメガ属にとってアルファ属のフェロモンとは「媚薬」であるといえるわけだが、時と場合によって「Love potion(惚れ薬)」のように効く場合もあれば、「Aphrodisiac(催淫剤)」のように効く場合もある(また相手によってもその辺りの差異がある)ということらしい。    ちなみにカナイ先生が言うには、「オメガ属のフェロモンは広く浅く(効く)、アルファ属のフェロモンは狭く深く(効く)というイメージ」だとのことである。    そうしてどだいオメガ属には「媚薬」として効くアルファ属フェロモンだが、更にいってユンファさんは、俺のフェロモンの匂いにかなりの好感を抱いていたろう。    やはりその容姿こそアルファ属的な美麗さをもっているユンファさんでも、彼の属性別はオメガ属男性に間違いない。すると元よりアルファ属のフェロモンに敏感なオメガ属のユンファさんは、そのオメガ属の嗅覚から、オメガ属以外には微香である俺の「アルファ属のフェロモン」を敏感に嗅ぎ取った結果――先ほど俺の思考は極度の緊張と混乱からネガティブに傾いていたため、事実より悪く誇張して捉えがちであったのだが、思い返せば嘘はなく――彼はなんと「甘くて爽やかな良い匂い」だと、俺のその匂いに好感を抱いてくれていたようである。    もちろん、属性別など関係なしに「フェロモン」というものには生殖に関わる誘引効果があるわけだが、実は遺伝子的な相性もまたそれによってわかるという。要するに、「体臭」というものに含まれているその人のフェロモンの匂いを嗅ぎ、その匂いに対してどう感じるかによって、遺伝子的な相性が良いか悪いかもまた図れるというわけである。    遺伝子的な相性が悪い場合は、相手の匂いに対して何か違和感があるか、悪ければ「臭い」と不快感を覚える。が、  それを逆にいうと、遺伝子的に相性の良い相手の匂いは何か落ち着く、マッチする、あるいは「良い匂い」とさえ感じるのだそうである。――それはもちろんユンファさんの桃の体臭が、俺にとって「妙薬・曇華蟠桃香(ユンファばんとうか)」となることにもわかるように、やはり俺たちは遺伝子的にも相性がすこぶる良い。    また俺が、ユンファさんのその甘い体臭に魅了されているのみならず(それこそ「妙薬扱い」はともかくとしても、彼の完熟桃の香りに「良い匂い」と思わない人のほうが一般的に少ないのはそうだろうが)、彼のほうも俺の体臭に「良い匂い」と好感を抱いてくれていた――ということはやはり、俺たちは“運命のつがい”に間違いないわけだ。    が、これもカナイ大先生曰くの話…それでなくともオメガ属である彼にとっては「媚薬」となる俺の匂いが、更に“運命のつがい”である――ほぼ100パーセントといわれるほどに完璧な、驚異の遺伝子的相性の良さを持つ――アルファ属(俺)のフェロモンの匂いともなれば、……俺のフェロモンの匂いは、ユンファさんに「()()()()」……の、可能性がある。    ともなれば、まずもって俺に惚れてほしい月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)に、俺のフェロモンを嗅がせないという手はないだろう――これは俺が再度「妙薬・曇華蟠桃香(ユンファばんとうか)」を嗅げるのみならず、あわよくばユンファさんに、少しでも俺の匂い(媚薬)を嗅いでもらえるかもしれないセカンドチャンス――ということで俺は、   「…はい、無事お客様のお部屋に到着いたしました。…ええ、大丈夫で…っ」   「…ふふ…」    そっとユンファさんの体を抱き締めた。  すると彼が明らかに驚いたのが可愛らしく、悪戯心の起こった俺は、二人の体に間を開けてユンファさんの顔を見た。彼は電話中ともありやや右斜め下に顔を伏せていたのだが、驚いた目で至近距離にも、やや顎を引いて俺のことを見てくる。  突然のことに驚いたユンファさんの目には、およそ悪戯な笑みが浮かぶ俺の両目が見留められたようだが、彼は『少し驚いてしまったが、まあ別にハグくらいならいいか』とすぐに俺の両腕を許した。   「……ぁ、いえ…何でも、…はい、すみません…、はい…」    ユンファさんの瞳はゆっくりと斜め下へ移ろう。  再度ユンファさんの背中をゆるく抱いた俺は、スマホのあてられていない彼の左の耳元に顔を寄せ、クンクン――揺れる銀の十字架のピアスまで何かセクシーである――あぁやはり素晴らしい完熟桃のこの甘き香り、不老長寿滋養強壮精力向上精神安定、効能は全く無限大である。   「……、…、…そ、そうですね、僕としては…」    ぞくぞくとはしつつも逃げないユンファさんの声が、色っぽい震えを帯びて小さくなっている。   「…すごく素敵な匂い…」   「…ぅ…ッ♡ ッぁ、あぁあの、いえっ何でも…!」    俺の囁き声にユンファさんはぴく、と肩を跳ねさせると、ふいっと俺から顔を背けた。  …首をよく伸ばしてまで俺から顔を遠ざけた彼に、まあ致し方ないと俺は、その伸びて筋の浮いた白い首筋に鼻を寄せてクンクン――やはりこの赤い首輪は邪魔だが――。   「…ん、♡ …ぁ、あっい、いえ、本当に…本当に大丈夫です、すみません…」    しかしどうもユンファさんは、首筋にかかるわずかな俺の鼻息にさえもぞくぞくときてしまうらしく、わずかな嬌声をもらすと、――我慢の限界というように、空いている片手で俺の胸板をやさしく押し離した。  また開いた間に見れば、ユンファさんは困った顔をして唇だけを動かし、「駄目、あとにしてください、今は電話中ですから」と俺の悪戯を叱った。   「…ふふ……」    ニヤリとくるね。  今は彼より俺のほうが年上(所詮設定の三十歳)だというのに、(彼自身は無自覚ながらも)今ユンファさんの顔は「優しい年上の(綺麗な)お兄さん」が、「駄目、今お兄さんお仕事中。あとで遊んであげるから、もうちょっと待ってて」などと小さな悪戯っ子を叱っているかのようである……長年俺が憧れてきた「お兄さんらしさ」は健在か、まして、これほどの美貌の好きな人が浮かべたやさしげな困り顔とは、全く俺の幼い悪戯心は煽られて膨らむばかりである。  まあもちろん俺だって、大して通話に支障が出るような悪戯をするつもりはない。それこそユンファさんの匂いを嗅ぐよりか迷惑のかからない、可愛い悪戯を思い付いたのだ。――およそ俺が今しようとしている悪戯とは、「もう」と彼が笑って許してくれる程度であろうと思われる。    その悪戯とは何か?  俺はユンファさんの背中の中腹と、腰の裏をぐっと強く両手で抱き寄せた。――すなわち俺は、ユンファさんにぎゅうっと抱き着いただけである、が、   「…ひぁッ…!?♡♡」   「……?」    ……え…?  俺はユンファさんの耳の隣で目を(みは)った。  ……いや俺は確かに悪戯心のまま、今ユンファさんにぎゅうっと抱き着いた。    しかし言うなれば――()()()()である。    要するに、だ。俺は今例えばユンファさんのどこか性感帯を触っただとか、そういった悪戯は全くしていない。本当だ。本当に俺はただ、彼にぎゅうっと抱き着いただけである。――しかし確実にユンファさんは今、俺がぎゅうっと抱き着いた折に「ひぁッ♡」と可愛らしい嬌声をあげたばかりか、俺が手を添えている腰をビクンッと跳ねさせた。   「は…ぃ、いえ何でもありません…っ! ごっごめんなさいちょっと…その、さっきからずっと、お客様が悪戯をされていて……」    慌てているユンファさんはなりふり構わず俺の胸を強く押し、俯きながら身を離した。その俯いた伏し目の顔は困惑、更に、恥ずかしそうに白かった頬を真っ赤に染めているばかりか、彼の顔全体はうす赤く染まっている。   「……、…、…」    いや、いや俺は今本当に抱き着いただけだ、それが悪戯かといえば確かに俺もそのつもりではあったので、一向あれを悪戯と呼んでもらってそれは構わないが、――むしろ俺のほうが驚いているくらいである。  俺は「電話中」というある意味固い気の咎めがあったはずのユンファさんが、彼自身にもコントロールが効かないほど不意に「ひぁッ♡」と喘いでしまうようなことは本当に、俺はそこまでのことは一切何もしていないはずなのだが、……抱き着かれただけで喘ぐ人などいるだろうか?    いや、それこそ先ほどユンファさんのほうから俺に抱き着いてきたとき、またそのあと俺が彼を抱き締めたときにしても、ユンファさんは今のような官能的な反応を見せることはなかったではないか(耳に関してはまた別の話として、ではあるが)――なぜだ……?    物は試しにもう一度――俺は再びユンファさんに抱き着こうとしたが、ユンファさんはそれを嫌がって俺の胸板を強く押した。そして、俺をキッと睨みながらふるふるっと顔を小さく横に振り、彼はそうして俺に断固とした「NO」を突き付けてくる。  その断固たる態度は要するに貴方、俺に抱き着かれただけで、マジで感じて喘いだということ…? ――唖然としている俺はユンファさんの細腰に手を添えながらも、それ以上はもう大人しく何もしない。   「…いえ、ちょっと悪戯に驚いてしまっただけで……はい、…ぁいえ、そんなことは……」    彼は電話相手のスタッフへの弁明に忙しくしながらも、相変わらず俺を厳しく監視するように眉を顰め、キッと切れ長の目尻をよりつり上げて俺を睨んでくる。しかし、明らかに今しがたの(俺にしてみれば謎の)快感から、彼の薄紫色の瞳は弱々しく少し潤んでいる。   「いえ、いえまだ、まだです、プレイを始めてなんかいません…、はい、申し訳ありません……いえ、かっからかっているわけではなくて、…」   「……、…」    ユンファさんの目は俺を睨むようではあるが、彼は俺に怒っているというよりか、『今は駄目です、お願いだからやめて』と必死に俺を止めているようである。俺が抱き着いたことに関しても、彼は迷惑とも何とも思っていない。  今ユンファさんの瞳に映っている「迷惑」の色は俺に対してではなく、むしろ自分の反応が大きかったというのにユンファさん自身が迷惑しているやら困惑しているやら、はたまた羞恥と自責とと、とにかく彼の瞳のそれは自分自身に向けられた「迷惑」である。    しかし、ユンファさんがそれほど必死になる理由こそ俺にも理解には及ぶ――仕事関係の電話中に「あっ」と声が出るほど感じてしまうのなら、倫理観と羞恥心のある立派な一人の人として、必死になるほど俺の抱擁を拒むのは至極当然のことであろう――が、…とはいえ、俺はなぜユンファさんが先ほど「喘いだのか」、それは依然としてわからないままである。       

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