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あれから俺が何もしないで一分ほど経つと、ユンファさんは右耳に宛てがったスマホに、更に耳を押し付けるようにしてそちら側へ顔を傾け、そのやや斜め下方向に顔を伏せた。彼は俺がもう悪さをすることはないだろうと高をくくった、涼やかな伏し目となっている。
――俺はその隙に、またユンファさんに抱き着いた。
とはいえ俺の腕には先ほどの力強さはなく、ただ変わらないのは手の位置である。片手はカッターシャツの布越し、ユンファさんの背筋の縦線にへこむ背中の中腹、もう片手はややS字に反った彼の腰の裏に添えている。
「……ぁ、……ええ、僕としてはこのまま……」
「……、…」
なるほど、力加減の問題であったようだ。
ユンファさんは「ぁ」と思いがけない抱擁に少しは驚いたものの、先ほどのように嬌声をあげるでもなく、またビクンッと官能を刺激された反応を見せるでもないで、更に今は大人しく俺の両腕を許しているあたり、先ほどのような激しい抵抗感もまた今は覚えていないようである。
……しかしそわそわとユンファさんの腰が落ち着かない。彼はさりげないように小さく腰を動かし、俺の硬い下腹部から恥骨に、自分の下腹部が押し付けられないようにと腰の裏をわずかに丸めて浮かせ、隙間を持たせた…――なるほど、わかった。
しかし確信が欲しい俺は、ユンファさんの腰の裏をぐっと強く抱き寄せた。
「…そうですね、ただ…ァ、?♡ ふく、…〜〜ッ♡♡」
確信である。ユンファさんはビクンッと腰を跳ねさせた。しかも今度はぐうぅ…っと長く強く下腹部を俺に押し付けさせてみると、彼は身悶えて言葉を失い、ふるふる震えている。
「……そうか…子宮を刺激されていたのだね…」
居たようだ――抱き締められただけで喘ぐ人。
なんと此処に居る。信じられないことに、その稀有 な人とは俺の愛しの月下 ・夜伽 ・曇華 その人である。
俺が思っていたよりかは簡単な理屈であった。
要するに先ほどにしろ今にしろ、俺がユンファさんの腰の裏を強く抱き寄せたばかりに、ユンファさんの下腹部の下にある子宮や膀胱といった彼の性感帯もまた、俺の硬い下腹部や恥骨にぐうっと押されて刺激されていたのである。――それしてもたかだか抱き寄せられただけでこれは感じすぎと思わなくもないが…あるいは彼、人よりも割と敏 感 体 質 なほう、だったりしてね(だとしたら最高なのだけれど)。
「…〜〜っ駄目、やめて、っください…!」
と、じっくり子宮を上から押されたままであったユンファさんは俺のことをグッと強く押し退け、羞恥心から泣きそうな顔を赤面させながら、俺のことをいよいよ迷惑だと睨んでくる。――しかし彼ははたとして目を伏せた。電話中のスタッフに心配されたようである。
「……ぁ、いえ違うんです、またちょっとした悪戯をされて……全然、全然そんなことはありません…、お客様はとてもいい方で、ええ、はい…本当に……」
「…ごめん…」
俺は小さな声でユンファさんに謝った。
どうやらこの『DONKEY』でも、「ユンファさんの(性奴隷であるという)背景」をむしろ利用している店長など以外、すなわち店の末端に位置するドライバーなどのスタッフに関しては、きちんとユンファさんを「普通のキャスト」――彼のことを客を選ぶ権利のない(主人であるケグリに「どんな客とでも寝ろ」と命令されている)性奴隷ではなく、きちんと正当な選択権のある風俗店のキャスト――として大切に扱っているらしい。
それだから今、ユンファさんは電話越しに『本当にそのお客様大丈夫ですか? 酷いことをされるようならお断りして…』と男性スタッフに心配されていたのだ。
「ごめんね、本当にごめん…」
俺は重ねて彼に謝った。
すると、つと目を上げて俺を見たユンファさんはそれにほだされ、睨みからゆるんだ目元こそ困った様子ではありながらも、その桃色の唇の端を少し上げてふるふると顔を横に振った。彼はすぐに俺を恕 してくれたのである。
そしてユンファさんは俺の胸板を、おもむろに片手の平でする…と下へ撫で下げながら、はにかんで目を伏せた。
「…本当にちょっと悪戯をされただけなんです…はは、擽ってきたんですよ、本当にそれだけで、…ええ、本当に酷いことは何も……」
「…………」
あまりにも艶然とした微笑だ。
やや顎を引いたその人のやわらかい微笑、緩まった形の端正な黒眉、美しい切れ長のまぶたのフチ、伏せられているその生え揃った黒い長いまつ毛が、はにかんだように増えたまばたきに艶めく――黒髪のかかっているその痩せて平たい両頬は、じゅわりとあわい薄桃色に紅潮している――やや上から見れば尚の事整った高さの見える鼻、そして――可憐にもわずかに口角の上がった、肉厚な桃色の唇……。
俺は堪らなくなり、ユンファさんをぎゅうっと抱き締めた。もちろんもう腰の裏を強く抱き寄せたりはしない(先ほどは好奇心に負けたが、ユンファさんの「可愛い声」を他の男に聞かせるのはもう嫌なのだ)。
――これだから美しさとは罪である。その至上なる月の美貌は俺をこうして、普段よりも衝動的にさせるのだ。
しかし彼は先ほどのことがあるからか、「もう、駄目ですって」とでも言いたげに咄嗟俺の胸板を軽くまた押した。が、俺はユンファさんの肩甲骨の間を、それと彼の背中の中腹をぎゅうっと抱き竦め、その人の片手をお互いの胸板で挟み、圧迫する。
「貴方は本当に綺麗だ…」
俺は彼の耳元でそう呟いた。囁いたというより、ただ本当のことを感動のあまりに呟いたというだけである。
「……、…、…」
するとユンファさんは言葉を失い、ふるふると小さく震えながら固まった。
先ほどからそうではあるのだが、聞こうと思えばアルファの俺の耳には、今『ユエさん? ユエさーん?』とユンファさんのスマホ越しに訝っている『DONKEY』のスタッフの言葉も全て聞き取れるのだ。
しかし今までも興味はなかったし、今も、これ以上はもう聞かないでおこう。――ユンファさんの胸がドキドキと速く動いている音のほうが聞きたいからである。
「……、ぁ、…ぁ…っい、いえごめんなさい…、ちょっと、電波が…悪くて……はい…」
とはいえ俺は、優しく叱るようなユンファさんの片手がまた俺の胸板を押してきたために、大人しく少し体を離した。
しかし彼の細い腰に両手を添えたまま、今にもまた抱き合えそうな距離で――目を伏せていたユンファさんはつと目を上げた。そして彼は俺と目が合うなり、『あまり悪戯なさらないでくださいね』と、優しい薄紫色の瞳で微笑みながら俺を叱る。
俺はぼんやりと、いや、うっとりとして、ユンファさんのその美しい薄紫色の瞳に見惚れている――今は頭がぼんやりとしていて、不思議と彼の美しい目を見ても平気だ――。
「綺麗だよ」
吐息のようなほとんど声のない言葉と俺の瞳に、彼は目を伏せ、困惑の表情を浮かべた。
「……、…、…」
その薄桃に染まっていた頬は先ほどより赤味が増して、じゅわりと内側から濡れているような桃色になっている。
する…と俺の胸板にあるユンファさんの片手が脱力したようにゆっくりと下がり、俺の片胸を撫でながら彼は、後ろへと引いてゆく――まるで俺から離れることを名残惜しんでいるかのようなその手を俺が掴むと、彼はハッとしてまた俺の目を見上げた。
「……え…? ぁ…いえ、全然…そんな…、むしろ、とても…」
「……、…」
俺の見間違いかもしれない。
ユンファさんの目は、俺の目をじっと見つめてくる。
――弱々しく怯えたように、その切れ長のまぶたは小さく震えている。…小刻みに揺れる彼の薄紫色の瞳は潤み、恐ろしそうに俺の目の中を覗き込んでくる。…今にも泣きそうなほど必死に俺を拒む瞳の中には、明確な怯えと恐れと警戒とが映っている。
しかしユンファさんが「恐れているもの」は――厳密にいうと、俺ではない。…そして彼自身は、自分が「何に恐れているのか」など少しもわかっていない。
「とても…素敵な方です…本当に…、本当に、とてもお優しい、方で……」
「………」
怖いもの見たさにも近い。それはグロテスクなものをなぜか見てしまうというよりかは、簡単には浮上できない深海に沈むということは危険だと、そうきちんと理解し警戒はしている。
だというのに、よほど海の表層にある水よりも澄み渡っているという深海の水を求め、どんどんと奥へ泳いでいってしまう…いや、下へ、どんどん下へと落ちていってしまう……深海という場所は美しくも凍えるように冷たく真っ暗だ、息が苦しくなろうと簡単には地上へ戻れない、ともすればもう二度と地上へと戻れることはないかもしれない……そう警戒し、怯え、恐れてはいながらも、そうして危険だとわかってはいながらも、見たい、いや、どうしても見てしまう――惹き込まれてゆく、俺のアクアマリンの瞳に堕ちてゆくように、恐れながらも俺の目を見つめてしまう。
「……とても、綺麗な目の色を、されていて……」
「……、…」
俺は目を見張った。
――『一目……』勘違い、見間違い、バイアス、――ユンファさんはさっと目を伏せ、我に返った。
「いえ、あのはい…すみません、とにかく僕としてはこのまま…はい、それで大丈夫です…」
「……、…、…」
俺はよたつくよう後ろへ一歩、二歩、三歩と下がった。
――圧倒されてしまった。
いや、あるいは俺の見間違いかもしれないのである。
残念ながら俺 の 目 は 期 待 し て い る 。
俺の目は人の感情を読み取る ことができる。
但し俺も人である。激しい動揺や焦慮の際や期待、そういった俺に精神的余裕がないときの俺の目には、俺自身の感情のバイアス(フィルター、色眼鏡、先入観といった類のもの)がかかってしまう。
少なくとも俺は今かなり期待をしてしまっている以上、バイアスがかかっていないかと聞かれればおよそそうだろう。
しかし――俺は目を瞑った。
「…一 、目 ……」
あれは見間違いだろうか…――俺が今夜ユンファさんと初めて会った瞬間、俺は気が急いていたばかりに、このスイートの出入り口であるエレベータードアすれすれに立っていた。
そして、エレベーター内のボタンの羅列にあるインターホンを押したユンファさんもまた、ほとんど出入り口に近い場所に立っていたのである。
つまり決してお互いに意図していたわけではなかったが、すると俺たちは、かなり間近な距離で顔を合わせることとなった。
あの瞬間、俺と目が合った瞬間のユンファさんは『あれ開くの早…っていうか、近…?』と驚いていた。
しかし、俺は約十一年ぶりにもやっとという思いでユンファさんに会えたこと、そしてあの日よりも磨き立てられたような彼の美貌に動揺していたために、彼のそのあとの感情をリーディングすることをしていなかった。
だが、改めて俺の目の中でREPLAYしてみようか。
あのときの記憶を脳内再生してみよう――。
俺がすぐさま「…うあっ綺麗゛…!」と悶えたとき、ユンファさんの薄紫色の瞳の表面に浮かんでいた感情は、『え? いきなり何だ…? もしかしてこの人、僕に“綺麗”だと言ったのか…? 何にしてもこの近すぎる距離からして、ちょっと変わっている人には違いないよな…』といった、……やっぱり俺、ユンファさんに変 人 だと思われているではないか…っ!
「…ッグ……」
いやへこたれるな俺よ…更に奥 の ほ う も見てみようか。
ちなみに俺の目は簡単な、表層的な感情や思考ならば一瞬で見抜くことが叶うが、しかし深層的なものに関してはやはり、じっくりと見るだけの時間はかかるのである。
そのため人の深層意識を覗き込む場合は、ほとんどこうして「脳内REPLAY」に頼っている。…まずじっくりと人の目を見つめられる機会などないからである。
では、更にあのときのユンファさんの瞳の奥、奥も最奥に潜んでいる、深層意識の部分はどうかな…――。
『水、色…? 水色の、目……海のようだ…透き通った、海……吸い込まれそう…こんな目…見たことがない…こんなに綺麗な目は初めて見た…綺麗……』
「……、…、…」
いや、いや、俺の見間違いかもしれない。
ましてや――実際にそうかどうかはわからないが――少なくとも出会った瞬間にしろ今にしろ、ユンファさんにはその「自覚」がないようなのである。
――『一目、惚れ……堕ちてゆく……もしかして、これが…?』
これはいわばユンファさんの意識の深海にあった、いや、俺の見間違いかもしれない、――俺の目に「一目で惹かれた」とは、決して。
俺の瞳に「一目惚れをした」とは決して、――あるいは俺の見間違いかもしれないのである。
「……ふーー、……」
判断をするにはまだ早計といえるだろう。
ここで浮き足立ってはならない。冷静に、冷静に――。
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