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「……カナイさん?」
俺はユンファさんの、そのあえて明るく出された声の呼び掛けに、閉ざしていたまぶたを薄く開け――ゆっくりとこの目を開けてゆくがしかし、どうも恐ろしい気がしては彼の顔を見ることができずに、瞳は下げたままである。
すると目を伏せたままの俺の顔を、ユンファさんは深く顔を傾けて、下から覗き込んできた。はたと心配げな薄紫色の目と目が合う。――だが彼は俺と目が合うなり、俺を安堵させようと、にこっと優しげな微笑をその美しい顔に浮かべた。
「…カナイさん。カナイさんが僕に謝る必要なんかありません。いや、貴方が僕に何をしたというんですか? はは…そんなことは、何も。…でももし何か、僕のせいで貴方に悲しい思いをさせてしまったのなら、むしろ僕のほうこそごめんなさい。…」
真摯な凛とした声で俺に謝ってきたユンファさんは、その切れ長のまぶたをより細めて、優しい微笑のぬくもりを深める。
「…ふふ…それに、僕はカナイさんが気味が悪いだとか、そんなことは少しも思っていませんよ。…気味が悪いだなんてとんでもない、むしろ貴方は、凄く優しくて素敵な人じゃないですか。――だからどうかご自分を責めたりしないで、“気味が悪い”だとか、そんなのも駄目。…貴方こそご自分のことを、そのように思わないでほしいんです、僕は。…だってカナイさんは誰が見ても凄く格好良くて、はは、僕なんかやきもちが焼けそうなくらい、貴方はとても素敵な人なんですから。…」
「……、…」
ユンファさんは「ね」とその美しい切れ長の両目をやわらかく細め、慈しむような薄紫色の瞳で俺を見ながら、ふんわりと柔らかく微笑んでいる。――八センチの身長差があれば、彼は俺の顔を下から覗き込むにしても単に深く顔を傾けるだけで、その上で俺の顔の下に、ほんの少しその笑顔を潜り込ませているような感じなのである。
ただ深く傾いているユンファさんの顔の、そのやわらかな笑みをたたえた白い片頬の上あたりや、片方のツリ気味な目尻にかかっている前髪の繊細な黒が、何とも彼の美しい微笑を映えさせている。
「…それとねカナイさん、実は僕も、これで結構浮かれているんですよ。…はは、だって、カナイさんがあんまりにも格好良いから……こんなに素敵な人と一晩、それも恋人として過ごせるだなんて、僕、嬉しいけどちょっと緊張しちゃうな…――でも、きっとカナイさんも今、物凄く緊張されているんですよね。…はは、いやわかりますよ、会うのも初めてだし、緊張しちゃいますよね?」
「…………」
俺はユンファさんのこの神聖なる優しい微笑に、今、気後れを感じている。俺は彼を畏 れているのである。
「…実は僕も今、ちょっとだけ緊張してしまっていて…正直心臓、バックバクです。…ははは…もしかすると僕たち、今同じ状態かも。――きっと僕たち二人でドキドキして、緊張して…何だか二人で、さっきからずっと、どぎまぎしちゃっていますよね。…まるで付き合ってから初めてのデートで、この日を待って…待って、やっと今夜、大好きな恋人に会えたみたい。…ふふ」
「…………」
この日を待って…待って、大好きな貴方に会えるまで、三ヶ月――十一年。
いみじくも俺にとってそ う だ とは知る由 もないのだろうユンファさんは、全く、呆れるほどに綺麗な人だ……今に、額を出すよう真ん中で分けられたこの黒い前髪の内側から、この両手の五本指を乱暴に、その両方の髪の中に差し込んでしまいたい。――これは怨みからの蠱惑 だ――ぬくいだろうユンファさんの頭皮を、この冷たい指先で強く揉んでみたい。
そのまま引っ掻くように彼の頭を強く掴み、俺の気が済むまで、この優しい笑みをたたえたふくよかな唇を貪り、彼の神聖性を暴きたい。――ユンファさんが「嫌だ、嫌だ、どうして」と失望するまで犯し尽くし、俺なんかに神聖な優しさを向けて損をしたと、彼に失望の暗い表情をさせてみたい。
それは全部俺のせい――そう…全部、俺が悪い。
全部俺のせい。…神が穢され暴かれるというのは、いつだって欲深な人間が悪いのである。ベルゼバブ(蝿 の王)という悪魔はその実、元はバアル・ゼブル(気高き主)という名の豊穣の神だった。しかしバアル・ゼブルは人間のせいで、こと異教徒たちにとっては都合が悪いからと、ベルゼバブなどという悪魔だと見做された。
いつだってこの俗世の神聖なる全ては、人間の都合が良いように作り替えられ、その神聖性を穢されるものである。――聖書も、宗教も、神も、仏も、天使も、悪魔も。
そして神は神であるからこそ、この俗世の理として、人間に穢されなければならない。――もしくはそれこそが神 の 独 占 といえるだろう。人間は神聖な存在の「お恵み」に強く惹かれるが、その神聖なる存在が俗に穢れればむしろ眉を顰め、穢れた存在の「お恵み」など一向拒むようになる。
豊穣の実りを差し出す神の、その神聖なる両手に乗るものが、人の穢れた目には途端に「糞」に見えはじめるように…ね――すなわち神が神でなくなりさえすれば、その神を信奉する者は、俺以外にはいなくなるのである。
しかしきっと…それでもユンファさんは、お綺麗なままなのだろうね。…愛している…貴方の優しさが泣けてくるほどに嬉しい…それなのに、どうしてなのかな……どうも俺のこの穢れた蟲物 の両手で、この美しく優しい、清らかなる「男神」を――「人間」へと堕としてやりたくなるのだよ、俺は。
どうしても…この清らかなる慈愛 の微笑に――俺は嫉妬している。
「…でも、そんなに気を張らなくても大丈夫ですよ、カナイさん。…今夜が素敵な夜になるように努力をするのは、僕だけでいいんです。…カナイさんは今夜、特別何かをなさろうとしなくてもいいですからね。」
「…………」
俺の伏し目は、俺をゆるした貴方を呪っている――。
その清浄な愛に嫉妬している、その清浄を自分が持ち得ないために愛しているから。
その正常な精神を嫉視している、一つ になりたいほど愛し過ぎているから。
俺は貴方を人間のように堕としたい、憐 れに思えるほど愛おしいから。
俺は神聖なる貴方の全てを穢したい、俺の胸の蠱毒 が蠢 くほどに、あまりにも愛おし過ぎるから…――アガペーを人間に等しく注ぐ神はこの地上で、人間に愛餐として喰われると決まっているのだから――しかし、およそ俺がこの胸に秘めたる誑惑 の穢れ、この蠱惑的な激しい欲望など知る由 もないユンファさんは、やはり顔を傾けて俺の顔を覗き込んでいるままに、相変わらず優しげな慈しみの微笑を俺へ、惜しげもなく向けている。
「…今夜は僕が全部やらせていただきますし、僕がきちんと、カナイさんのことをリードしますから。ね…」
ユンファさんは繰り返し「大丈夫ですからね」と柔らかく言うと、下から俺の顔を覗き込んでいた頭をもたげて元の位置に正し、そして「大丈夫、大丈夫です」と優しく俺に言い聞かせながら、そっと俺の二の腕の側面を両方、優しく上下に繰り返し、ゆっくりと撫でさすってくれる。
「…大丈夫ですよ。カナイさんは今夜ただ自然体で、リラックスしていてくださいね。…それでいいんです、今の貴方の全部が、そのままでいいんです。…カナイさんはありのままでいい。…貴方は始まりから今まで…ずっと、僕に謝るべき過ちや間違いなんか、何一つとして犯していませんでしたし――ふふ…むしろ僕はカナイさんのこと、凄く格好良くて素敵な人だなって…ずっとそう思っていたくらいなんですよ」
「……、…」
ユンファさんは、今も俺の胸の中で蠢く穢れた醜悪な蟲 共を見ようとも、こうして「貴方はそのままでいいよ」と俺のことを、ゆるしてくださるのだろうか。――もうこれ以上は決して俺をゆるさないでほしいというのに、なぜだか彼なら、俺の何もかもをゆるしてくださるような気がしてしまう。
この酷いほどの優しさは、いっそのこと仕打ちである。
赦すべきではない俺、赦すべきではない人、ゆるすべきではない罪、赦されざる人々――きっとユンファさんは、人々の全てをゆるすことだろう。どのような人の穢れにも、どのような人にも彼という神は、等しく慈悲深い「ゆるし 」を与えることだろう。
俺はどうしてもそのような気がしてしまうのである。
だからだろうか、俺はにわかにこう思ってしまった――だ か ら ユンファさんはあのケグリに付け狙われ、挙げ句、あの男の性奴隷とされたんじゃないか、などと。
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