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                   ユンファさんの精神は今もなお誇り高く、また穢れもせず、あまりにもこの俗世でまで神聖なるままに――彼は憐れなほど、およそ儚いほどに「綺麗なまま」であった。  まさに「受肉」の人――人のために、人の痛みを知り、人の罪を償う贖罪を果たすために、人と同じ肉体を得てして地上に生まれた神――とさえ思われる。    しかしケグリや俺のような「悪」に限らずとも、どれだけ多くの人が、ユンファさんのこの神聖なる優しさに心を打たれてきたことだろう。    今とて、例えば利己的な思惑ありきの優しさならば――もちろん幾らかは風俗店のキャストとしてのリップサービスはあったが、ただそれだけ、客である俺のご機嫌を取っているというだけなら――まだしも、ユンファさんは今心から落ち込んでいる俺を励まし、彼は今俺に「ゆるし」を与え、そして俺の心の強ばりを少しでもほぐそうと、真摯な心を尽くしてくれた。  そればかりか、いま俺に惜しげもなく注いでくださったその慈悲深い真心には「初対面」や「客の男」といったような、冷ややかな隔たりなど欠片もなかった。――それも、今ユンファさんが俺に与えた「優しさ」というものは、彼にとって心からの「優しさ」ではありながらも、彼にとっては何ら「大したもの」ではなかった。『落ち込んでいる彼に何かをしてあげたいが、僕なんかにできることは、これしかないから……』そう思ってのことだった。  とてもじゃないが、俺にはわからない。――しかしだからこそ俺は、ユンファさんのその慈愛の精神におよそ人間らしい打算がないと、もはや聖なる神の「アガペー」にも近しいものがある、と。  泣けてきたのであった――彼はあまりにもお綺麗だと、この俗世ではむしろ綺麗すぎると、あまりにも尊く神聖すぎると――俺は、彼が憐れにすら思えたのであった。    貴方は人間という存在に、幾度も幾度も酷薄に裏切られてきたはずだ。貴方は今も尚、その神聖なる心身を人間に冒涜され、おかされ、利用をされ、搾取をされているはずだ。  それどころか欲深な人間どもは、神なる貴方を服従させるべく、美しい神の貴方に「奴隷の首輪」を取り付けた。…貴方は此処に来るまでにもきっと、何もかもを見捨てようと思われるほどの、凄惨なる虐待行為をされてきたはずだ。    何故それでも貴方は人を見限らず、人を「ゆるす(愛する)」のか――?    俺は俯きながら薄目を開けた――そうした俺の視界に映ったものは、俺がこの両手で挟み込むようにして握っている、ユンファさんの真っ白な片手である。  ユンファさんの白い片手のその四本指の関節は、なかば、やわく俺の片手を握り返すような形でゆるやかに曲がっており、俺の目には特に彼のその長い指の先、指先を覆う、大きな細長いかたちの薄桃の爪が四つ、印象的に映る。  血の気の感じられない雪白の指に、せめてもの薄桃といった可憐な色付きが見えているからだろう。   「…凡俗なる俺にはとてもじゃないが、よくわからないのです…――そもそも貴方はなかば無理やりにも、()()()()()を強いられているというのに……」    俯きながらこう言う俺の「こんな仕事」とは何も、こうした風俗店のキャストなど、セックスワーキング全体を指して言っていることではない。  ユンファさんはこの『DONKEY』においても事実上、全くの「無報酬」で働かされている――彼がこの店で身を粉にして働いた分の、およそ「高給取り」とさえいわれて差し支えないだろう高額な報酬は、全てあのモウラやケグリに搾取されている――。  ……またもちろんそれは『DONKEY』のみならず、あのケグリの店においてもそうだといえるだろう。  あのドブガエル男、「一日一万円(の返済)」と例の下らない契約書に書いていたようである。すなわち、ユンファさんがどれほど過酷にその身を犯されようと、どれほど残酷にその精神の隷属を強いられようと、そうして昼夜問わず、馬車馬のように働かされても――ユンファさんが与えられる報酬とは何とその実、「日給一万円」ということになる。    ――もはや明らかに違法である。  まだパートタイマーたちのほうが、よっぽどまともに稼いでいるとさえいえる。こんな酷い労働環境では、いっそ「仕事」というのさえ違うかもしれない。  いうなれば今のユンファさんは、ほとんど「本物の奴隷」といってよいほどである。それは、彼が正当な報酬を与えられていないという点においてもそうだが、何より彼を犯す「客」どもの扱いからしても、全くユンファさんの尊厳など顧みていない者ばかりと見える。  すなわち扱いからして全く「奴隷」として扱われ、その残酷な扱いを受けて稼いだ金は全てケグリたちのものとなり、その奴隷同然の過酷労働をしている張本人の彼自身はというと、何とほぼ「無報酬」でのことである――それを「こんな仕事」と言わずして、何と言おうか――。    そのような「奴隷労働」を強いられていて、なぜユンファさんは腐りもせず、それでもまだ人に、ひいては客の俺に優しくしようと思えるのか。   「…何故それでも貴方は、人に優しくしようと思えるのか…俺にはわからない……わからないのです…、貴方は何故、貴方を救わないこの世の中を…――世の人々を恨み、憎まないのですか…?」    ユンファさんはもっと恨み、憎んだらよい。  彼はこの世や人にもっと冷ややかになればよい。  彼ならこの世の全てを恨み、この世の全ての人間に嫌悪したところで、天にさえゆるされるに決まっている。――むしろこの俗世ではそうあるべきではないか。ユンファさんは一向そうでなければならない。  そうもでなければ、ただひたすらにその崇高なる慈心を裏切られ、ただただ欲深な人間に、その清く尊い神聖性を(おか)されるだけではないか。    なぜ醜い人間どもにおかされていても尚、ユンファさんは人を、この世を恨み、憎まないのか――俺にはまるでわからないのである。…なぜなら俺は、俺こそがこれまで人を、この世を恨み、憎んできたからだ。      今もなおこの俺こそが、この世の全てを恨み、憎んでいるからだ――。   「……、…――カナイさん…?」   「……、…」    心配そうにユンファさんは、そっと俺の体を抱き締めてきた。――何もかもを強欲な人間に奪われていては、もう人に与えられるものなど自分にはないと惜しめばよいものを、彼は今もまた俺に「与えた」のである。  そしてユンファさんは抱き締めた俺の背中を、ゆっくりと優しい手つきで、上下に撫でさする。   「……はは…正直僕にも、よくわからないんです…。優しくしようと思って…いるのか、自分がそう思っているのか、どうかも……僕馬鹿だから…正直、よくわかっていないんです」   「……、…」    馬鹿だから…――俺はそっとユンファさんを抱き締め返した。…これほど思慮深く聡明な人が、「馬鹿」…?  貴方は「馬鹿」ではない。――「綺麗」なだけだ。   「…いや、ただ僕にも、物凄く憎い、殺したいほど恨んでいる人はいますよ。――でもその人と他の人は違うし、もちろんカナイさんとも何も関係がありません。…だから僕は…なんというか…関係のない人たちまで恨むだとか憎むだとか、そんなのは違うと思っています。」    とそう断言をしたユンファさんの声は、しかし優しげに柔らかく、俺はあたかも梔子(くちなし)色の月明かりをこの耳の奥で感じているかのよう――そして目を瞑ると、俺の耳の奥に灯ったやわくもあたたかなその月光が、この目にもぼんやりと見えてくるような気がしてくるのである。   「まあ確かにこのお仕事をしていると、お客様にちょっと嫌な気持ちにさせられることって、正直あるんです。…いや、もちろんこのお仕事に限ったことではないかと思いますが……でも当たり前ですけど、そうして僕に嫌な思いをさせた人と、カナイさんは全く違う人ですよね。…」   「…………」    ユンファさんは光だ――俺の月明かりである。  ……この光を辿って歩む人生ほど、俺が求めている、幸福なる人生もないな…――。   「例えばカナイさんは僕に何も悪いことはしていないのに、他の人が僕にしてきたことを“謝れ”と言われても、正直意味わからないでしょう? はは、個人的にはそういうことかなと、僕はそう思っています。」   「……、…」    やはりどれほど強欲なる人間にその身を切り裂かれようと、切り刻まれたその血肉を好き勝手貪られようともユンファさんは、なぜか「綺麗なまま」なのである。――とてもじゃないが「綺麗」ではいられなかった俺にしてみれば、いっそ不思議なくらいだ。   「…それと…僕にも自分が不幸だなと感じたときに、この世の中や、世の人たちを憎む気持ちはわかりますし――きっと僕も、本当に辛そうな人が目の前にいて、その人の気持ちを楽にするためなら……“世の中が不条理なんだよ、貴方は何も悪くないんだよ”って、そう励ますと思うな。…だから僕、カナイさんのお気持ちはとても嬉しかったです。ありがとうございます」   「…………」    呆れるよ……ユンファさんは、たとえ彼を強欲なまでに求める人間に何を奪われどこをおかされても、それでもこの世の全てを、この世の人の全てを憎んではいないのだ。  これでは全く、とんでもない馬鹿なお人好しだと――ユンファさんのことをそう、悪く言う人もいることだろう。…人間とはみな穢れているからである。  彼のように綺麗な人が騙され、利用され、搾取される世の中では全くおかしい。――なぜ世の人は誰もユンファさんを助けないのか。…俺のときと(おんな)じだ。    誰も助けやしないのである。  助けたら自分たちの都合が悪くなるから。  自分が損をするから。自分にメリットが無いから。   「ただ…自分が不幸であることの原因が、世の中や、世の人たちに有ると考えるのは、正直凄く簡単なことです。もちろん実際に世の中や、誰かのせいで不幸になられてしまった方も、きっとこの世界には多くいらっしゃることでしょう…――でも僕の不幸はそうではありませんし、僕は……」    とそう、俺の耳元で優しくも快活なユンファさんの声が言う。   「…僕は世の中や、世の人たちを恨み、憎むことはできません。――これまで僕に良くしてくれた人を、僕はたくさん知っているからです。…このお仕事でも、僕なんかにも優しくしてくださるお客様もいらっしゃるし。……はは、その人たちのことは僕、今でも大好きなんです。…」      ユンファさんは撫でさすっていた俺の背中を、ここできゅうっと確かに抱き締めた。       「――だから僕は…人もこの世も恨めないし、憎めないんです。…どこにだって良い人も、悪い人も…いるものだから。」       「……、――…っ」    俺はユンファさんを強く抱き締めた。  俺を抱き締める彼の両腕の力は、さながら俺の全身をふんわりと包み込むような、やわらかな毛布の重たさであるのだが――しかし一方の俺の両腕はこの愛おしさから不安げに、ユンファさんの肉体の物質を確かめるよう、彼を強く締め付けるような蛇性を帯びている。    要するに、こうして俺を抱き締め、包み込んでくださるユンファさんの(かいな)は神のそれである。  ユンファさんの、この無条件の優しい「神の愛(アガペー)」の全ては等しく、人ならば誰しもが受けられる恩寵なのである。  あまりにも愛おしいが――あまりにも不安だ。  ……これほどまでに穢れきった俺のような者が果たして、これほどまでに美しく清らかな月の男神の心を、本当に射止められるものだろうか?    貴方の優しさには、やっぱり「理由など無い」のだね。  誰かから自分が受けている迫害と、誰かに自分が与える「優しさ()」が、貴方の中では明確に区分化されている。人に酷いことをされたから自分も酷いことを仕返す、人に優しくしてもらったから自分も優しくしてあげる。根幹からして、そういったギブアンドテイクなんて俗っぽい感覚ではない。――「も」ではなく、貴方はどこまでも「は」の人だ。「他人はどうあれ、()()()、人に優しくする」というのでしょう。  人に「与える」ということは貴方にとって、どこまでも「当然のこと」なのでしょうね。      ――貴方こそが、神様だから。     「……わかったような気がします……」    俺はわかったような気がする。  貴方は世の中や世の人に、はじめから「救い」など求めてはいないのでしょう? だから誰にも救われずとも、それらを恨みも憎みもしないのでしょう。  ――自分の不幸は自分のせい。――自分の今は、因果応報。――全て自己責任であると、そういうのでしょう。   「貴方は誰よりも強い人だ。…だけれど貴方は――誰よりも危うく、儚い人だ……」    ユンファさんは、自分の肉体に巻き付いて締め付けてくる俺の両腕の応えるように、俺のことをもう少し強く抱き締めた。…彼の片手は俺の後ろ頭を押さえ、もう片手は俺の腰の裏を抱き寄せる。――隙間なく密着した俺たちの体は、何かしらお互いに少し強張っているようで硬く、何かしら強い力の重たさがある。  しかしこう続けるユンファさんの囁き声は、突然弱々しくなり、自嘲を含んでいるのである――。   「…はは…上手く…説明できたのかどうか……というか色々言いましたけど、結局…何より僕は、ただの臆病者なんですよ…。…この世の中や誰かを恨み、憎める人こそ凄く強くて逞しくて、凄く勇敢なんです。……だけど、弱い僕には…人を恨む勇気も強さも、何も無いから……――それに…恨むって、疲れませんか…? 全部諦めちゃったほうが、楽だったりしませんか…――。」   「……そうだね…、……」    ユンファさんの声には色濃い諦観があった。  儚い人である。――まるで蝶のように儚い人である。  わかるよ、その気持ち……だけれど俺は、もう諦めたりしないと決めたのだ。  更にユンファさんは、「はは…すみません、湿っぽい話をして…」と俺の機嫌をうかがうが、俺は「いや、この話を始めたのは俺だよ」と気楽に応える。――そして俺は、彼の体を強く抱き締めてはその人のほうへ顔を向け、その白い首筋に誓う。   「……だけれど、諦めなくてもいいとしたら…? 俺が貴方の夢を、全て叶えてあげる…――そのためにもまずは、俺が何もかもから貴方をお護りいたしましょう」    ――この神こそ俺が護らなければならない神だ。  神はこの俗世の中ではあまりにも綺麗すぎるのである。  敬虔なるこの信仰心があればこそ、俺は我が唯一神であるユンファさんを、我が生命を守るようにして、何が何でも護らなければならない。――ひいては俺の尊いSpirituality(スピリチュアリティ)を守るようにして、これよりは俺が、この我が唯一神を護ってゆくことをここに誓おう。    神の加護を与えられている信者は、同時にその神を護らなければならない。それが信者の務めである。――ましてや清く崇高なる神はそれであるからこそ、あまりにもこの貪婪(どんらん)な穢れ世では儚い存在なのである。    まるで神とは夢のよう――希望であり、救いであり、幸福であり、光である。  聖なる神の力はこの俗世において何よりも偉大であり、強大であり、何物にも勝る。しかし――それと同時に、残念ながら神という存在は、人間の欲深な現実にはとても勝てない。  信じられなければ存在しないも同然、聖書とて人間の欲のままに書き換えることも容易、「神の言葉」は人間の都合の良い解釈をされてもたちまち、それを「神のみ心」とされてしまう。――ある程度の人間の庇護なくして神は、人間の欲に求められるまま翻弄され、ただただ穢されてゆくのみの存在なのである。   「…え…? ……はは…ありがとうございます。…でも何だかそう言われると、カナイさんがイケメン過ぎてドキドキしちゃうな」   「……、…」    ユンファさんは笑った。今のこの状況、段階では無理もないことだが、彼は俺の「俺が貴方の夢を全て叶えてあげる、そして俺が貴方を護ります」という旨のセリフを、単なる「恋人プレイ」の一環だと勘違いしたのである。    しかし俺は本気である。  ましてやこの俺がユンファさんの傍らにいる限り、何も諦めることはない――復讐を。  俺はユンファさんのためならば悪魔にでも邪神にでも、阿修羅にでも鬼にでも、何にでもなってやる。  いや、たとえ貴方がそれを望まなくとも――俺は貴方を傷付け、悲しませるようなものはなんだって許さない、赦さない、ゆるさない、俺がゆるさない。    決して俺は、俺が、貴方を傷付けた全てをゆるさない。  優しい貴方が何をゆるそうとも――俺が何もゆるさない。  貴方が望むなら、この俺が全てを滅ぼしたっていい――貴方が望まざろうとも、俺が絶対にその復讐を遂げてやる。   「……ふふ…ところで、謹んでお尋ねいたしますが…例えば俺が貴方にとって、本当は憎むべき存在であったとしたら…――貴方はどうしますか…? 恨みますか、憎みますか…それともやはり、貴方は俺をゆるしてくださるのでしょうか…?」    主よ、神よ…穢れを知らない神聖なる貴方は、穢れ堕ち邪の者となった俺を――果たしてそれでも憎まないのでしょうか…? それでも貴方は俺を恨まず、むしろ俺にまた、慈悲深い「ゆるし」をお与えになってくださいますでしょうか。    貴方は俺のような者でも、愛してくださいますか――?   「…いえそんな、まさか憎みませんよ。はは…仮にそうだったとしても、僕はきっとカナイさんのことは恨みませんし、憎みません。…許す…とか、そう…まあきっと、うん、許しますしね。許しますよ――ふふ…それに、何より僕は…カナイさんのことも、大好きになりたいな……」 「……そう…身に余る光栄。とても安心いたしました、ありがとう…、……」  答えはYES! いよいよ()()である。  甘えたよう俺の首筋に擦り寄ってきたユンファさんのことを、俺はしかと抱き締め、目を瞑って薄い暗闇の中、陶酔をする。――ユンファさんのぬるいぬくもりは今にも息絶えそうなほど儚げだ。しかしこの硬く痩せた体は儚げではない。――しっかりと大きく男らしく、それだから骨と筋肉に硬い、しなやかな獣の体だ。  ……間違いなくユンファさんとて「狩り」ができる体を持っているのである。――彼もまた猛々しいところのある獣、すなわち狼……月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)という俺の唯一無二のつがい、彼は我が“銀狼(ぎんろう)”なのである。      貴方はいずれ、俺と共に闘うことになるだろう――。      ――決めた。  ユンファさんの傷は、血は、涙は、悲しみ、怒りは――すなわち――俺の傷であり、血であり、涙であり、悲しみであり、怒りである。      だから俺は――決してゆるさない。  そう固く、強く、確かに誓い、決めたのである。      そして俺は、今に入信をしたというほど新鮮な心持ちで、改めてこの信仰心を再確認した。  どだい宗教とは――信仰とは――間違っても人に制約を課し、金や時間や心身を搾取し、人を不幸にするためにあるのではない。その制約があって世の秩序が保たれた時代があり、一神教という統率によって作られた時代があり、塵も積もれば山となると心付け(献金やお賽銭やお布施等)を集めることによって、信仰に必要な資金を確保していたのである(なお俺は()()()()が違うものの、聖書にはそもそも『献金は決して強いてはならないし、たとえ少ない金額でも心があれば神は喜ぶ』とはっきり書かれている)。    人を不幸にする宗教なら無いほうがよいではないか。幸せなら神を信じるも信じないも自由でよいではないか。  ――「人」とはもちろん己にしても他者にしてもそうだが、そもそも人を不幸にする宗教に神も仏もいない。いるのは強欲な人間だけ……そんな馬鹿げた宗教モドキは呪われてしまえ。    間違っても宗教――信仰――というものは、人が「幸せになるため」にあるものなのである。…今自分が信じている神や仏が、果たして自分に「幸福」を与えてくれるのかどうか…人は己の幸せのためだけに、信じる神や仏を選ぶべきだ。    この世に宗教は数あれど、俺には信じたい神がある。  だから俺は、この「信仰」を選んだ――己が幸せになる、ただそのためだけにね。    この信仰の無い人生とはおよそ「盲目の常闇」である。  この信仰の無い日々とはおよそ、月明かりの途絶えた虚しい暁闇(ぎょうあん)を生き続けるような、朝も昼も夜も無い薄味の、薄い常闇の日々を彷徨い生きるようなものである。    月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)という美しい月の男神の無い、九条(クジョウ)(ヲク)松樹(ソンジュ)という一人の男の人生――すなわちユンファさんが傍らにいない俺の人生とは、あまりにも蠱毒(孤独)が蠢く「盲目の死」である。      ただユンファさんが俺の人生の傍らにいないというそれだけで、例えどのような瞬間においても、俺の人生には蠱毒(孤独)な「盲目の死」が(もたら)される。      なぜなら、月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)という我が月の唯一神が――何物にも替えがたい俺の「生命」、俺にとっての「生」、盲目の俺を導く「月光」、ひいては俺にとっての、「唯一無二の命綱」だからである。         

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