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94 ※微モブ×モブ

               ひさびさに楽しかった夕食を終えたあと、俺はユンファさんとソファに並んで座り、また久しぶりにのんびりと過ごした。    俺たちは夜のバラエティー番組を観ていた。  深夜帯の番組は二人で観ることも多いが、この時間帯の番組は久々に観る。夕飯時のそれよりもう少しディープな内容の番組である。その番組では、最近よく見る売れっ子の進行役のお笑い芸人が、赤裸々(せきらら)に自分の過去の恋愛を語る女優を茶化して笑いを取っている。  ……ところが――夕食のときはあれほど機嫌の良かったユンファさんが、この頃になると途端にその口数を減らしていた。   『…………』   『…………』    俺はふと隣を見た。  ユンファさんは相変わらず背をしゃんと伸ばしてはいたが、少しだけソファの背もたれにその背の上部を預けている。  彼の目は、テレビの中でやいのやいのと騒ぐタレントたちをぼーっと眺めている。その青白い無表情の横顔には、パッパと色が変わるカラフルなテレビ画面からの光がすこし映っていた。  端的にいえば、彼はつまらなさそうだった。   『番組変える?』    と俺はユンファさんにそう尋ねたが、   『…………』    彼はぼうっとしていて返事もなく、俺に振り返ることもない。   『……、ココアでも()れてこようか…――。』    俺はユンファさんの返事を待たずして腰を上げた。彼はココアが好きなので、()るも要らないも彼の返答は聞くまでもない。それはいつものことだったのである。――ところがハッと俺を見上げたユンファさんは、『ど、…』   『どこ、行くの…』    ……と、俺の腕を軽くつかみ、なぜか焦ったように俺を引き留めてきた。  俺は中腰のまま『え?』と少し驚いたが、   『はは、いや…貴方にココアでも、と思って…』   『…いい…要らない……』    何かそう言って俯いたユンファさんが、俺には落ち込んでいるように見えた。ましてや今日の彼は、何かずっとおかしいような気がしていた。  俺はゆっくりとソファに腰掛けなおすなり、彼に心配げにこう尋ねた。   『……どうかした、何かあったの…? それとも…――俺に何かしてほしいとか、俺への不満というか…そういうものがあるのなら、正直に何でも聞かせてください』   『……、……』    物思いの表情で俯いているユンファさんの、その赤い肉厚な唇がゆっくりと開かれた。が――。   『……別に、何も…、……』  そう言った彼の唇は再び合わさった。  彼は言いかけた言葉を()みこんでしまったのである。   『…ユンファさん。』    俺はそんなはずないだろうと彼の名を呼ぶ。  しかし『違う。』と苛立った神経質な声でユンファさんは、   『大丈夫、何もないよ。』    と色あせた真顔の横顔で断じる。  これはこれ以上詮索するなという俺への威嚇である。――しかし俺は、原因、あるいは理由こそわからないにしても、何かこの日のユンファさんは少しおかしいと確かに違和感を覚えていた。何か彼がいつも通りではないような気がしていたのである。    いや、俺は彼を心配していたというのもあれど、何より俺こそが不安だったのかもしれない。  例えば深刻に別れ話を切り出される予兆であるとか、…それならばまだよいが、ユンファさんが一人で命を絶とうとしているだとか、…とにかく俺には、この日の彼への違和感が何か悪いことの前兆のように思えて仕方なかったのである。   『いや…でも俺には、全然そうは見えなかったから…――ユンファさん…俺、そんなに頼りないですか。確かに俺は貴方より年下だけれど、それだって三歳くらいのものでしょう。…何より俺は貴方の夫…』   『安心して、別に、悩みとかそういうの本当に何もないから。』とユンファさんはまるで自分が平気だと示すように、またつまらなさそうな目でテレビ画面を眺めはじめた。   『いや、僕が悩むわけないじゃないか。…僕はソンジュと違って仕事をしているわけでもないんだし、日頃からぐーたらしてセックスばっかりしている僕が、一体何に悩む必要があるんだよ』   『…とはいえ、どんな人にだってその人なりの悩みや不安、不満というものは…』   『大丈夫だって。…何をそんなに心配する必要があるんだ。いつもそうだが、君は考え過ぎだよ。』    そう冷静な声で言うユンファさんの横顔は、少しだけ苛立ったような険しさが垣間見えていた。   『…そう…、ごめん……、……』    ――ユンファさんはいつもこうだった。  ユンファさんは俺と結婚してからというもの、以前よりも怒りっぽい神経質な性格になっていた。  そして、その原因というのはほとんど確定的に、結婚をした彼の配偶者である俺にあるはずだった。    しかし彼は自分の抱えている気持ちや悩み、不安、俺への不満というものを、俺には打ち明けてくれないのである。――いや、彼がなんでもないことで一方的に俺をそしるような場面は日ごろからしばしばあったが、それは彼の「根本的な不満」ではない、と俺は常々感じていた。    またその「何でもないこと」というのが俺にしてみれば何でもないことなのか、というと、どうも違う。例えばだが、俺がローテーブルの上に並べて置くと定位置が決まっているテレビのリモコンを取る。そしてすぐに番組を変えるかもしれない、と、俺はそれを自分の目の前あたりに置く。――するとユンファさんは『君は元の位置にも戻せないのか』と俺を睨む。    もちろん俺が悪いときもあるのだが、こういった些細な行き違いにさえ彼は怒り、これで俺が『いや、すぐに番組を変えるかもしれないと思って』と答えたならいよいよ、彼は目を吊り上げて烈火のように怒りながらまくし立てはじめる。    こうしたヒステリックな夫に一方的に攻撃されているもう一人の夫、という「外装」を見た人はともすると、俺に同情的になってしまうかもしれない。――まあドライな人ならば「それでもお前が勝手にそうした人と結婚したんだから、お前の自業自得じゃないか」というだろうが、もう少し共感的な人ならば、俺のことを「DV被害者」と見てもおかしくはなかった。    ところがそれというのは俺にとっての綺麗事でしかない。それら意見はどちらにしても、俺たち夫々の外装をしか見ていないからこそ言える言葉である。  俺が自分を被害者と定義したとき、必然的にユンファさんは加害者となる。しかし少なくとも俺たち夫々の関係性は、被害者・加害者という白と黒に分類できるような単純な構造をもっているわけではない。    俺は今でこそ確信している。  ユンファさんは俺が居なければ生きてゆけない。    しかし俺のこの言葉を、「あぁほら、DV被害者はみんなそう言うんだよ」という人は多かろう。ところが俺のほうも少なからず加害者の性質をもっている男だった。  ――俺はしばしば嫉妬から(とげ)のある嫌味を言い、それによって彼を傷つけて満足していたし、何より、でなければユンファさんに「鍵をかける」などというようなことはしなかっただろう。    家庭とか婚姻関係だとかの綺麗な外装に隣り合って包まれている夫々(ふうふ)という関係性には、どうしてもお互いの棘がお互いの肌を刺してしまうようなときも少なからずあるものである。  しかし外側から見ればその棘はあってはならないものとされて、だからこそ世の中のふうふは綺麗な外装にそれを隠してはいるのだが、その実誰もが棘をもっている。    真っ向から抱き合うとお互いの棘が刺さるので、お互いに棘が刺さらないようにと気を遣って、あるいは痛みを恐れて、遠慮がちに抱き合う。  すると密着できないのはもちろん、あちこちを浮かせたぎこちない無理な体勢で抱き合うことになる。そしてそうしながらも、お互いにお互いの棘を見てみぬふりをするようになる。そこに棘があるとわかっているからあちこち浮かせているというのに、あるいは自分の肌に刺さっているというのに、相手の棘を見ないようにするのである。――相手が自分の配偶者だからだ。    しかしその体勢はそう続くものではなかろう。見てみぬふりというのだって、痛みがあればそう長くは続けられない。――枯れる寸前とまで老いればその棘もいつかは丸くなるか落ちるかするのだろうが、このままではその時を迎える前に、俺たちの片足同士を一緒に結んでいるリボンが(ほど)けてしまう。    俺はもうユンファさんのために血を流すことを恐れない。…そして彼の白い肌に(あか)い色が滲むこととなっても、俺はもう遠慮をしないと決めたのである。    ――そもそもこの頃の俺であっても、ユンファさんのヒステリーをこのように分析していた。  ユンファさんはまず「根本的な不満」が解消されないばかりに、そうして日ごろから些細なことでも苛立ち、ともすれば八つ当たりとまで理不尽なことで俺を責め立てている。――それによって彼は、「根本的な不満」から生まれた鬱憤(うっぷん)を多少なりとでも晴らそうとしているのではないか。    しかしこの頃の俺は、ユンファさんのその「根本的な不満」をまだ知らなかった。彼が話してくれなかったからである。人は誰しもそうだろうが、誰かの気持ちを察するというのにも限界がある。  まして、たとえ俺が先ほどのように『話して』と求めても、彼は俺が自分の中に踏み込んでくることをああして拒んでしまう。これ以上はもう入ってこないで、迷惑だ、あっち行けよ、とでも言うように、彼は俺が一歩前に足を出すとそれで余計に心を閉ざしてしまうのである。――警戒といってもよいかもしれなかった。    逃げていると言ってもよいか、ユンファさんはそうして何かを恐れているのかもしれなかった。だからその何かを、ひたすらに俺から隠し通そうとしているのかもしれなかったが、しかし――。  ……原因がわからなければ打つ手もない。抜本的な問題解決こそが何よりも今の俺たちに必要だとわかってはいても、問題そのものが何なのかがわからなければ、解決の糸口も見えない。    このままでいいわけがなかった。  しかし、このときの俺には何ができるわけでもなかった。     『…………』   『……、……?』    ここで俺ははたと隣のユンファさんを見やった。  彼が突然、自分のスマートフォンでアダルト動画を観はじめたのである。あんあんと女の甲高い声がバラエティー番組の馬鹿騒ぎにまじって猥雑(わいざつ)とする。――俺は何を突然、とそれこそ訝しくてたまらなかったが、彼は横向きにしたスマホに目を下げたまま、『見て』と俺にその身を寄り添わせ、俺にその画面を見せてきた。    その横向きの長方形の画面の中では、言うまでもなく男女がまぐわっていた。いわゆる騎乗位の形で、その柳枝(りゅうし)の腰をくねらせている女優は、色白の童顔の美女だった。  ――男優の下半身にまたがり、桃色の乳首のついた絵画の女神のようなやや小ぶりな乳房に上下にゆらし、そして少女のようになよやかなあまい曲線の体をくねらせていたかと思えば、今度はそのお尻を激しく上下させてあんあんと愛らしい声であえぐ。  ……しかし俺はゲイであるので、男女の情交においてはどうも冷ややかな客観的な目線で見てしまう。    要するにこれで興奮するか否かと言われれば、人間同士のセックスということで見ればギリギリであり、俺の本能の性質で見れば不可能であった。――しかし、ユンファさんもそのことは知っているはずである。何なら彼だってゲイなのだ。   『気持ちよさそう…』    画面へ向けてユンファさんが妬ましそうに呟いた。  ――画面の中、女が男の両手と指を絡めてつなぎ、ぱちゅぱちゅとそのお尻を(つたな)初心(うぶ)な動きで上下させながら、あどけない顔で下の男へ微笑みかける。「すき…♡ すき…♡ 奥にいっぱい出してユウくん、♡ ミカのおまんこのナカにいっぱい出してぇ…っ♡ あぁ、ユウくんのおちんちんきもちいいよぉ…♡ …アぁイっちゃう、♡♡」    画面が切り替わり、男の顔が映る。さわやかなアイドルのような美男子だった。   「可愛い…綺麗だよミカ、…ねえ、イきながら僕のナマのおちんちん気持ちいいって言ってよ」    また女優の顔が映る。彼女ははにかんだ色っぽい顔をしている。   「…やあっ……♡ …き、きもちいいっ♡ きもちいいよ、ユウくん…♡ すき、♡ 〜〜〜っユウくんのナマのおちんち、っきもちいい、………イくっ♡」     『……?』    俺は首をかしげた。  ――ユンファさんはなぜ俺にこのようなアダルト動画を見せてきたのだろう、という疑問もそうだが、何かこの動画の内容が、彼の嗜好にも合っていないような気がしたのである。  確かにゲイであっても男女(ヘテロ)のアダルトコンテンツを鑑賞する人はいないこともないが(女優に感情移入できるだとか、男優が好みだからだとかで興奮できる人もいるんだそうである)、しかし、マゾヒストのユンファさんが視聴するアダルト動画の内容というのが、どちらかといえばSM寄りのものばかりなのではないかと俺は推測していたのだ。  ……ところがこのとき彼が俺に見せてきたこのアダルト動画は、女優にしても男優にしても顔の整った、どちらかといえば「いちゃラブ系」と呼ばれるようなものだった。   『…ソンジュも、こういうことしてくれたらいいのにな…』   『……え…?』    俺ははたとユンファさんを見た。  いつの間にか彼は俺の肩に頭をあずけ、完全に俺にもたれかかってきている。ドキッと俺の胸が歓喜した。その人の伏せられた黒いまつ毛が羨んだように震えている。   『……綺麗だね…』    そう甘く囁くように言った俺の中で、にわかに立ちのぼる情欲があった。  俺はするりとユンファさんの腰を抱いた――が、……あることを思い出し、それ以上は何もしない。…ユンファさんは腰が痛いと言っていた。疲れていると言っていた。このときの俺は安直であった。    朝から珍しく間男と寝なかったユンファさんである。彼が男の誘いを断るとはよっぽどのことだ。  ユンファさんはよっぽど疲れているのだろう、と俺は考えてしまったのである。    いや、アダルト動画を俺に見せてきたこと、セクシーな服装、俺を誘っているような言動――俺は頭のどこかではユンファさんの「本当の意図」をわかってはいたはずだが、それでも「まさか違うだろう」と俺は決めてしまった。    彼はしおらしく俺に触れられることを待っているような人ではない。何か愛らしい、悪くいえば回りくどい方法で俺を誘うような人ではない。彼は俺に求められることに悦を覚えるタイプで、まさか彼のほうから俺を求めるようなことはないだろう。  ――俺のこの思い込みは、それこそ近ごろになるまでそのままにされていたものである。     『……本当、この人綺麗だ…』    ユンファさんが寂しげにそう言う。  彼は俺が言った『綺麗だね』というセリフを、俺が共に観ているスマホの中の女優へ宛てたものと思っているらしかった。   『違うよ、俺はユンファさんに言ったんだ』   『…………』    しかし今度はうっとりとした眼差しで画面を見下ろして何も言わないユンファさんに、俺はムッとした。  画面の中で女優が「愛してる」と切実な声で言いながら目を伏せる。「ユウくん、愛してる…ユウくんの精子、ミカにちょうだい…っ」   『…“ユウくん愛してる…ユウくんの精子、ミカにちょうだい”…』    ユンファさんが画面を見下ろしたまま、ただ大人の真似をしただけの子どものような、そのセリフの意味をわかってもいないようなあどけない声で、そう口真似をした。――俺はこのとき画面内のイケメン男優に少し嫉妬したが、彼に間接的に「綺麗」と評されたこの女優にも嫉妬していた。  が…彼がすりと俺の肩にその良い匂いのする黒髪をすり寄せてきたので、俺のその嫉妬は甘いシャンプーの匂いの幻の中にたち迷い、やがてその匂いにまぎれて消え失せた。   『…ふふ…凄く綺麗だし、演技とはいえ可愛いこと言うね、この人…――君はどう思う……この人、可愛いと思う…?』   『……え…? いやどうかな…俺、女性にはあまり…』    俺が女に可愛いと思ったとて、俺のそれは性愛に紐帯(ちゅうたい)しない「可愛い」なのである。  人としてだとか、子犬や子猫のようだとか、表現として適切であるからだとか、いわば普遍的な「可愛い」なのである。――いや、よくよく思えば…俺はユンファさんに「可愛いね」と言われたこの女優にまた嫉妬をした。彼が俺の愛する男だからである。   『じゃあ…僕に、こういうことを言われたら…?』   『……それは…、……』    俺はふと目をテレビ画面に向けた。  再び俺の嫉妬は幻の中へ消え失せた――ユンファさんにあんなことを言われたら?  ――俺の上にまたがったユンファさんが、俺と両手の指を絡めたままに腰を上下させ、『愛してるソンジュ、…ソンジュの精子、僕にちょうだい…!』と切実げに綺麗に目を伏せる。    俺は『うん』と喉が低く鳴ったような小さい声を出した。まったく会話になっていないだろうが、俺は妄想をしたばかりの頭が火照って火照って、もはや正常な受けこたえを忘れてしまっていたのである。   『…ソンジュ…“うん”って、どういうこと…?』   『……、…、…』    何か言わなければと思った俺の喉に、何か丸いものがこみ上げてきた。俺は慌ててその空気の玉のようなものを飲みくだしたが、案の定なにかしら塊を誤って丸飲みにしてしまったかのように喉が痛み、普通に(つば)を飲み込むよりかゴキュッと大仰な音が鳴った。恐らく俺のその喉の音はユンファさんにも聞こえてしまったことだろう。   『…………』   『…………』    俺たちの間に気まずい空気が滞った。  ……そのときであった。   『…はは、まあそんなことどうでもいっか、…ねえソンジュ…?』 『……っ!』    俺はビクンッと体を跳ねさせた。思わずだった。  しかし俺のそれは大げさな反応かもしれなかった。というのも、俺がこのとき隣のユンファさんにされたこと、それというのは――。  ……俺の肩に頭を(もた)れさせたまま、何も言わずにユンファさんは、俺の片腕をぎゅっとその胸に抱いてきた。ただそれだけのことだったのだ。――しかし俺の胸はそれだけのことで、ドクドクと思いがけない至福に驚悸(きょうき)している。   『…ね、…ね、ねえ…――さっき、せ…セクシー、とか言っていた…いや、言ってくれていたけど、…ほ、本当は……』   『……、…、…』    こんなことをしてくれた――俺に甘えてくれ、て、いる。あのユンファさんが、俺に甘えてくれている?    その疑問符付きの歓びに頭の中がいっぱいになった俺は、却ってそうした彼に何もしてあげられなかった。――俺の腿に置かれた俺の手の甲に、そ…とユンファさんの手のひらが重なる。彼の手のひらはぬくかったが、その指先は冷たかった。  ……ユンファさんはスマホをソファに伏せて置いたらしい。依然として女の甘えた可愛らしい調子の嬌声やセリフが聞こえ、ときおり男の女を甘く愛するような、しかしややサディスティックな、いやサディスティックというよりかは「ドS」な甘いセリフが聞こえてくる。――しかしその音も徐々に遠くなってゆく。   『……、ねえ、聞いてる…?』   『……はぁ、…は…、…は……』    俺は息を乱していた。緊張と興奮のせいだ。  あえて変顔をしているお笑い芸人がテレビ画面いっぱいに映っている。しかし俺はテレビから聞こえてくるはずの音声が、まるで音量自体を最小ボリュームにしたかのようにかすかな音としか聞こえなくなっていた。緊張のあまりにである。――もはやこのときの俺の耳に聞こえていた音といえば、自分のバクバクと忙しない全速力の心音と、俺たちの間でわずかに鳴る布ずれの音ばかりであった。   『……、…』   『…………』    どれほどそうしていたかわからないが、  ……ユンファさんはローテーブルの上のリモコンを取ると、にわかにテレビの電源を落とした。唐突にプツンと暗闇に染まった画面に驚いた俺は、またハッとユンファさんへ振り返る。   『……ねえ、ソンジュ…』    彼は頭を上げ、するりと俺の片腕から離れてゆくと、俺に寂しそうに微笑んだ。   『もう寝よっか…』   『……えっあ、…も、もう、寝るの…?』   『……うん…もう疲れちゃったから…――。』    目を伏せてそう言ったユンファさんの、その「もう疲れちゃったから」――俺は今になって後悔している。      

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