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ユンファさんは今日、一体どんな気持ちで自分の体を隈 なく撫でていたのだろう。――俺には浴室の中で、自分の細長い白い脚を撫でているユンファさんが目に浮かぶようだった。
俺のことを想いながら、もしかするとうっすらと微笑みながら、彼は自分の体を磨き――ソンジュは喜んでくれるだろうか、気が付いてくれるだろうか、少しでも触っていて気持ちいい肌だとか、綺麗な肌だとか、そう思ってくれるだろうか――その不安と期待とときめきの綯 い交 ぜになった愛らしい甘い思いを、それでなくとも輝くように美しい自分の白い肌に塗っていったのだろうか。
なら、先ほどはガッカリさせてしまったことだろう。ユンファさんは待っていたはずだ――俺に触れられることを、俺の唇がその甘い肌に触れることを、俺が『今日はなんだかいつもより甘いね』と笑うことを、彼はずっと待っていたはずだ。
……俺はまた済まなく思ったが、交際してから今に至るまで彼にこうした好意的なことを言われた、されたことのほとんどなかった俺は、熱い涙が目にのぼってくるほどこれを喜んだ。
今夜はとびきり甘くユンファさんを抱きたい…俺はちゅっと彼の耳にキスをした。
『…はは…ユンファさん、ありがとう…俺、本当に嬉しいよ…、…貴方がこんなに…』
そう囁きながら俺の手は、彼のもう片方の耳の裏から首筋をまったりと愛撫する。しかし、
『言わないで…。柄にもないことして、ごめん…』
とユンファさんは俺から顔を横へそむけた。
俺の喜びに深まった声を落ち込んだように遮ったユンファさんに、俺は驚いた。
『え…? …、……』
今しがたの俺の反応ばかりは、何も彼に思い違いをされるような態度ではなかったはずである。
ユンファさんの健気な身ごしらえに、先ほどの俺は柔らかく腹の底から浮かれたような声でありがとう、と微笑んだ。あれは完全に彼の想いを受け取った、申し分のない態度だったといって過言ではないはずである。――しかし、なぜかユンファさんは落ち込んでしまったようだった。
俺の片手はユンファさんの熱い頬をゆっくりと官能的に撫でまわし、そして俺の唇はその人の片耳にかすかに触れている。『何故…』と俺は、なぜ謝るのと聞こうとしたが、彼はそれすらも聞きたくなさそうに冷ややかに笑った。
『…どうせらしくないって思ってるんだろ…。僕がこんなことしたって可愛くないのはわかっているから…もう何も言わないで』
『…ユンファさん…俺はそんな…』
と俺は頭を上げてユンファさんを見た。彼はその横顔をうす赤く染めていたが、むすっとしている。
『貴方は可愛いよ…、貴方は…』
『やめて、煩 い』
俺に振り返らないユンファさんの眉が顰められる。
『いや、本当に嬉しかったですよ、凄く嬉しいサプライズだった…――俺のこと、貴方もきちんと愛してくれているのだなと、俺は…』
『いや、もういいから…! もう何も言うなよ』
ぎゅっと目をつむったユンファさんは、もう何も聞きたくないというように、そううざったそうに俺を制した。――あるいはそれは彼自身の「恐れ」のせいかもしれなかった。
……なお、それは先ほどの「なぜか」にも関係している。今に思えばユンファさんは、本当に恥ずかしがっていたというのもあれど――「恐れ」からこのように落ち込んでしまったのである。それは自己卑下だった。
夫の俺にも、いや、夫の俺相手であるからこそ彼はひた隠しにしているが――ユンファさんは「あること」を恐れていた。
彼はその「恐れ」のせいで、俺に頼ったり甘えたり、またこうして俺のために何かをする、俺に好意を示す、…いうなれば――ユンファさんは真っ向から俺を愛することを恐れ、俺に愛されることを恐れ、俺へ抱いている自分の愛情、愛着、そして俺のそれらをも恐れていたので、俺に対してそういった愛情表現を素直にしたくともできないでいるのである。
……しかし、当然このときの俺は、ユンファさんが恐れている「それ」を知らなかった。
『…………』
『……、…』
何も知らない俺はユンファさんに唐突に、また一方的に拒まれたように感じたが、しかしなぜ彼に拒まれたかもわからないのでただ困惑していた。
――ただこのときの俺は、すぐにこう落としどころをつけた。……彼はプライドが高い人なので、俺のために体を磨き立ててくれたことは間違いないとしても、自分のその健気さというのが何か彼自身には受け入れがたい、彼にとってはやはり面映 い想いだったのかもしれない。
また普段は取り澄ましてあくまでも俺に対してにべもない態度をとってきた自分の、その健気な照れくさい想いをめずらしく俺に伝えてみたばかりか、彼の想定よりそれに大喜びする俺を見ていたらいよいよ恥ずかしくなったのかもしれない。
確かに羞恥心でいっぱいいっぱいになっている人は、その状態で更なる追求をされつづけると、余計にその熟れた羞恥心を小突き回されているように感じ、おちょくられていると悪く捉えてしまうこともあるものだ。
ましてや近ごろは特に気の短いユンファさんである。俺の追求に苛立ったのは――結局のところ、可愛い羞恥心のせいか。
もちろんこのときの俺も、ユンファさんのそういったところですら愛おしかった。
……俺の丹田 (へその下)に溜まってなおも増えゆく熱い蠢くような愛が、この喉仏を志してゆっくりと臍 の下を通過し、そのじんわりと痺れるような熱は俺の腹の下を、みぞおちの下を、胸の中央をゆっくりと上ってきては――愛しい人の耳へその熱情を注ぐように、俺にこう囁かせた。
『愛してる、ユンファ…貴方は本当に可愛いよ…』
『……ッん、♡ ……、…、…』
ビクッとユンファさんは肩をすくめ、おそるおそると俺の胸板を両手で押し上げる。ベッドに片肘から下の腕を着いている俺は、楽々と彼の思うとおりにゆっくりと胸の位置を上昇させた。
俺を涙目で見上げてくるユンファさんは、俺に片頬を撫でまわされながら、困ったような顔を愛らしく赤らめた。可愛い…俺はユンファさんのパーカのジッパーの金具をつまみながら、すぐ彼の物言いたげに薄くひらかれた赤い唇へ、傾けつつある自分の唇をそっと着地させようと沈めていく――が、
『ソンジュ、ちょっと待って…。……』
と目を伏せたユンファさんは、言いながら着ているパーカのポケットへ片手を突っ込んだらしかった。
プチ、と音がした。そして彼のその手が出てくると、その白い指先がつまんでいる何かが俺の唇にふ に とあてがわれた。それはどうもひと粒の錠剤らしいのである。
『これ飲んで…』
彼は俺を見て笑っていたが、その笑顔は傷付いているように悲しげにも見えた。
俺はその笑顔にもまして、なぜユンファさんが俺に何かもわからない薬を飲ませようとしているのか、そもそもこの薬は何なのかと、そうした疑念とともに何か嫌な予感がした。
『……え…何これは、何の薬…?』
『いいから…いいから飲んで…』
しかしユンファさんは質問にこたえず俺に服薬を強いてきた。やや無理にも俺の唇の中へそれを押し込もうとする彼に、俺はわずかに顔を背けてそれを嫌がる。当然だろう。
『…ごめん流石に飲めないよ、何、それ何の薬?』
普段ユンファさんに従順な俺でも、さすがに何かもわからない薬を飲むことはできなかった。――何より俺は、ユンファさんのその悲しげな笑顔とこの正体不明の薬が紐帯して、ともすればこれは劇薬なのではないか、彼は俺を殺そうとしているのではないかと、いささか悲劇的すぎる暗い妄想をしていた。――そうして俺に拒まれると、ユンファさんは眉尻を下げて笑った。
『…何って、媚薬 …』
『えっびや、…媚薬?』
ドキッと重々しい胸の痛みを皮切りに、俺の胸の中は不穏な動悸でいっぱいになった。「媚薬」と聞いてもなお安心となれない、むしろ余計に俺が不安になった理由は、もしかすると言うまでもないことかもしれないが、一口に媚薬といっても違法性のある危険薬物から眉唾ものの効果の不確かな市販品、そして合法的かつ医師の処方する医療用医薬品までと、その幅が広いからである。――またもちろん「媚薬」と騙して、彼が俺に劇薬を飲ませようとしている可能性もなくはなかった。
しかしそれが本当に媚薬だったとしても、まさかさすがに医療用医薬品ではなかろう。
そして、仮にユンファさんが危険薬物を入手していたとして(それを俺にこうして勧めていたとして)、その危険薬物の入手経路というのは俺にも容易に想像がついた。――彼のセフレの男たちのいずれかだ。
あの男らはやけに暴力的な行為を好んでいるので、偏見かもしれないが、俺にはあの男らがそうした薬物を持っていてもおかしくはないと思われた。
それもいわゆる「キメセク」は、異性愛者よりか比較的同性愛者のほうが手を出してしまいやすい行為なのである。――どの国でも同性愛者は苛烈な差別的な蔑視を向けられていたので、過去は人目のないアンダーグラウンドにしか居場所がなかったせいだ。…ましてユンファさんはゲイ専門風俗店に務めていたために、相手取るさまざまな客の中にはそのような行為を勧めてくる男もきっといたことだろう。
俺の絶えない重苦しい動悸の原因は、今まさにユンファさんが俺にその薬物を勧めているのではないか、というのの他に――ともすれば彼はもう既に過去その「キメセク」を経験しており、今もなおあの男らの誰かと「キメセク」をしているのではないか、そういった危惧からの動悸でもあった。
『ねえ、飲んで…、大丈夫だから…』
とユンファさんは寂しげに微笑みながら、再度俺の唇にその薬を押し付けてきた。俺は『いや』とそれを避ける。
ユンファさんが俺に飲ませようとしている薬が医薬ではないとして、眉唾ものの医薬部外品とすらならない市販品ならばまだよかったが、これがいわゆるセックスドラッグ、ラブドラッグと呼ばれる危険な薬物かもしれないと考えると、俺はやはり『悪いけど飲めない』と首を横に振った。
『……はは…まさか君、これがヤバい薬だとでも思っているのか…?』
すると俺の警戒の態度を呆れたように笑ったユンファさんの、その切れ長のまぶたが伏せられる。
『信用ないんだな…、ふっ…まあそりゃそうか。確かにキメセクしたことはあるけど、ウリ始めたばっかりのときに数回だけだよ…――というかそれも別に、僕がやりたくてやっていたわけじゃないし…、……』
とユンファさんは言いながら錠剤をもう片手に持ちかえると、空いた片手を再びパーカのポケットに入れ、そしてまた何かを取り出した。
『ほら、ちゃんと病院でもらってきたやつ』
『…………』
彼が自分の鼻の前にかざした銀色の薬のシート、それは二錠分に小さく切り取られた銀のシートだったが、一つの丸いでっぱりは既にへこんでいた。彼が先ほど一錠取り出したからである。そしてそれには、確かに彼の言う「媚薬」というのが嘘ではない薬名が書かれていた。
むしろ「媚薬」というのは俗に言えばという話で、俺の予想外にもそれは本当に医療用医薬品に該当する薬、いわゆるED治療薬であった。
『この前避妊薬と抑制薬もらうときに、ついでに相談してもらってきた。何なら薬の説明書とか袋とかもちゃんと家にあるよ。…ねえ、本当に別にヤバい薬じゃないって……』
『…な、何故そんな……』
しかしそれが劇薬でも危険薬物でもないことがわかったからといって、俺の疑念が晴れるようなことはなかったし、むしろ今度は新たな疑念が生まれた。
そもそも俺は勃起不全障害(ED)の患者ではない。それこそ毎日のようにユンファさんを抱いている俺に、間違いなくその薬は必要なかった。
とはいえ、ユンファさんがその治療薬を入手することにおいては何も難しいことはない。
おそらくユンファさんは「自分が」その症状に悩んでいるので、というような言い訳をしてその薬を医師に処方してもらったのだろう。
……俺はまさかユンファさんがそこまでするわけがない、そこまでする必要はない、と考えていたため、まさか「医薬品ではないはずだ」と推測を立てていた。なぜなら俺にも彼にも、そのほぼ絶対的な効果がある医薬品は全く必要ないからである。もちろん危険薬物は以 ての外 だが、医薬品も「遊び」にしてはやりすぎだ。
ただ、ことオメガ属男性のユンファさんはその薬を手に入れやすいのだ。――なぜなら、子宮と卵巣をもつオメガ属男性はホルモンバランスの関係かEDに悩むことが多いため、(不妊治療などの目的がなければ保険適用外だが)むしろ他属性よりその治療薬を処方されやすいのだという。
勃起不全の状態は男性としての(あるいはアルファ女性なら陰茎をもつ者としての)健康的な自尊心を損なうためという判断からである。
また、医師は陰茎と膣の両方をもつオメガ男性およびアルファ女性に対してはこと、「パートナーに挿入するかしないか(挿入を受け入れるセックスをしているか否か)」というような問診はハラスメントに該当する可能性があるため、よほど診断や診療に必要不可欠でもない限りは聞かないそうだ。
……そもそもボトム(ウケ)かつオメガのゲイだからといって、陰茎が不必要ということはない。
ヘテロ 的にセックスを考えてしまえば用無しと思えても、外側から見ると擬似的にその格好のセックスに見えるというだけのことであって、基本的にはボトムをイコール女性、あるいは女性のポジションと考えるほうが間違いなのだ。ゲイにしてみたら挿入するしないに関わらず用有りであるし、いずれにしても男はみな自分の陰茎を愛しているものである。
しかし、そうした入手の経緯においては納得したとはいえ、少なくとも俺にその治療薬は必要のないものであることには違いなかった。――このときの俺は勃起していたからなおそう思えた。それこそユンファさんの体が整いさえすればこの時点でも挿入可能というほどに、間違いなく俺にその治療薬は不必要だったのである。
『いや、俺にその薬は必要ないと思うけれど…』
と訝る俺を見上げていたユンファさんは、『大丈夫だから…』と俺をなだめるように微笑む。
『そんな大した理由があるわけじゃないよ…楽しむため。それだけだから、はは…』
『…でも…楽しむって……』
ユンファさんは複数回俺と「楽しみたい」のだろうか? それとも俺の勃起に不満があるのか? 中折れした試しもなく持久力は我ながらあるほうだと思っているが、硬度も我ながらあるほうだと思っているが、彼のいう「楽しむ」というのは一体、どういった意味の言葉なのだろうか――?
俺は男の誇りを軽く引っ掻かれたような気分であった。深く傷ついたというよりかは疑問のほうがまさっていたが、かすり傷程度には傷ついていたかもしれない。
しかしユンファさんは悲しげに眉を翳 らせ、こう微笑むのである。
『…飲んで』
『……いや…』
『飲んでよ、頼むから…』
ユンファさんは今にも泣きそうなのではないかと思える悲しげな顔でまた笑った。
彼はそれほど切実に、俺にその薬を飲んでほしそうだった。…俺はユンファさんに「頼むから」とまで言われると、少なくとも過去彼にそう言われた記憶がなかったことも手伝って、結局『わかった』と折れ、ついにそれを飲んでしまったのである。
――しかし今に思えば、これは間違いであった。
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