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「……え…?」
とユンファさんは当惑した。
まあある意味では幸いといってよい。
――あからさまに不機嫌だとわかる低い声を出してしまった俺だったが、今他者の怒りをおそれているユンファさんも、今は怯えるというよりうろたえている。…彼なりに最適解を出したつもりだったからである。――いや、たしかにユンファさんのその「どうでもいい」という答えは、一見は投げやりなようでいて、よくよく聞けば俺のことを想っての優しい意味合いをもっていた。
要するに八センチという身長差があろうがなかろうが、俺の魅力とはその身長差、もっといえば俺の186センチの高身長にのみ起因しているものではない。
たとえば俺とユンファさんとにもっと身長差があろうが、逆にもっとその差がなかろうが、俺の魅力は何も変わらないと彼はいうのである。――だから「どうでもいい」、身長(差)なんて気にしなくとも十分貴方は魅力的ですよ、とユンファさんは俺にそう言ってくださったのである。
だが――俺はこの十一年間、血の滲むような努力に努力をかさねてこの屈強な肉体と186センチの高身長を得ている。…それも全てはユンファさんに魅力的だ、ひいては魅力的な男、魅力的な男の肉体だ、とそう思われたいがためにである。
……十一年間絶え間なくつづけてきた俺の努力を、よりにもよって一心不乱に目指してきた、いわば俺の目標たる月に「どうでもいい」などと言われてはたまったものではない。――ユンファさんの言いたい真意こそ十分にわかっている俺だが、その真意ではとてもじゃないが溜飲は下がらない。
「貴方は身長に悩む男のその苦悩を甘く見過ぎている」
と俺は目を丸くしているユンファさんと向かいあい、ず、と彼に細目で迫った。彼は目を丸くしたまま顎を引き、やや上目遣いに俺の目を見ながら、その丸みをおびた切れ長のまぶたをしばたたかせる。
「そ…それは、…ご気分を害されたなら申し訳…」
「八センチ差。――貴方は178.7センチ、そしてこの俺は186.8センチ……厳密に言えば8.1センチ差です。…どうでもいい筈 がない。身長差などどうでもよいと思っている男が、詳細な小数点をまで把握していると思いますか」
俺は言いながら、自分の頭頂部からユンファさんの頭上、すなわち8.1センチぶんの段差を示すために手のひらをスライドして行き来させる。
――彼は「え…?」とチラリ、ふっと自分の頭上でスカスカ動いている俺の手のひらを見上げる。
「……あぁ…、……?」
ユンファさんは俺の手のひらを見上げたまま、はたと怪訝 な顔を少し傾げた。――『というか…今更、だろうが』と彼の澄んだ薄紫色の瞳がある疑問に行きつく。
――『そもそも彼、ど う し て 僕 の 身 長 を 小 数 点 ま で 知 っ て い る んだ…? それもまだ178センチまでならわかるんだが……というのも、178センチという僕の身長の情報は、「DONKEY」の公式サイトに掲載された僕のプロフィールにも載っていることだからだ。』
「……?」
ユンファさんの綺麗な白い眉間が、いぶかったその黒い秀眉 によって僅 かにせばまる。――『だが、当人の僕でさえ忘れていたような僕の身長の小数点までを、なぜ彼が知っている…? 確かに大学の健康診断では、まあ何となくそれくらいあったようななかったような…という感じで、僕でさえその記憶が曖昧だというのに……何なら今彼に言われて、何より僕自身があぁそうだった(かも)と思わされたくらいだ……、この人、一体何者だ…?』
「……、…」
……しまった。
俺はユンファさんの頭上にかざしていた手を下げ、自分の顎を人差し指と親指でつまみ、この水色の瞳を真横に向ける。――俺はこの場を切り抜ける嘘を考えている。
「あの…」とユンファさんが俺を見た気配に、俺は横に向けていた瞳を彼のその薄紫色の瞳にもどす。怪訝な表情で俺を見ている彼はその件追及するつもりだ。
「…そもそも疑問なんですが…貴方はどうして僕の身長を、そこまで詳しく把握されているんですか…?」
「……、あぁ、驚かせてしまいましたか…? すみません…――俺は何せ、タトゥーアーティストなものですから…、つ い 職 業 病 で ね ……?」
まあ失敗はしてしまったけれど、ここは適当にそれらしい嘘をついて煙に巻いておこう。
「というと…?」
とユンファさんが、俺を追及する聡明な薄紫色の瞳で見てくる。俺はその瞳を見つめながら悠然と首をかしげる。
「…まずタトゥーアーティストというものは、お客様の体にご依頼通りのタトゥーを彫る職業でしょう…?」
「……、…」
ユンファさんが俺の目を眺めながらうんうんとうなずく。俺はさらにこうそれらしい風の嘘を続ける。
「しかし勿論タトゥーというのは、お客様の肉体に末永く残るものですから、我々彫る側の者の失敗は決して許されません。…それこそ…たった一ミリ間違えてしまっただけでも、大きな問題となり得る…――そのためタトゥーアーティストは、お客様のご希望に適 うよう、タトゥーを精密なミリ単位の緊張感でもって、丁寧に丁寧に…慎重に彫ってゆくのです。」
「…なるほど…」
ともうなかば納得しかかっているユンファさんがまたうんうんと頷くので、俺はこの嘘をこう締めくくった。
「ええ。よって…そのミリ単位の精密な幅に慣れている俺の目は、貴方の身長もまたミリ単位に及ぶまで、大体は把握出来るのですよ。」
「……はぁ凄い、そうなんですか、凄いですね…! へぇ…なるほど、そうなんだ……」
「……ふっ…、……」
彼、なんて可愛いのだろう。すっかり俺の嘘を信じこんでしまったユンファさんが、感心した純粋な目をしてまたうんうんと頷いている。
「……ということで…、……」
まあ実際そうなのかどうかは知らないけれど。と俺は仮面の下でほくそ笑む。
……というか、確かにミリ単位の精密な作業というところまでは合っていたとしても、さすがにその作業に慣れているタトゥーアーティストとて、きちんと定規くらい使うのではないか?
そもそもタトゥーの絵柄のミリ単位に目が慣れていたとして、人の身長のミリ単位まで目測でわかるかといったら、それはまた別の話だろう。
まあいい。上手いこと納得してくださったのでね。
「……さて、話を戻しますけれど…――実直に言って…」
と俺はユンファさんの目を見つめながら、彼の腿の横に下がっているその両手を取る。そして自分の胸の前、彼のその両方の手を俺は両手で包み込む。
するとただならぬ重々しい俺の雰囲気を察して、彼はこう緊張した顔をする。
「…は、はい…何でしょうか……」
「……自分より八センチ背の高い男…、……」
俺は真剣に、誠実な愛の告白をするように、息を呑んだユンファさんのその薄紫色の瞳をしっかりと見つめる。
「――つまりこ の 俺 を 、貴 方 の 理 想 の 男 に し て く だ さ い 。」
「……、……はあ゛…、……」
ユンファさんが呆れた顔をしてふと目を伏せる。
なおそれは俺の目から目を背けたのではない。どうやら彼は考え事をするときや、何かしらを思い返す、思い起こす、思い出す際に目を伏せる癖があるらしい。つまりユンファさんは頭を使うときに伏し目になる癖があるようだ。
「……り、理想にして…ですか…、……」
ちなみに彼はその伏せられたまぶたの下、呆れ乾いたその群青色の瞳でこう考えている。
――『り、理想にして…? いや理想ってす る ものではないし、人に「して」と言われてそうできるものでもないだろ……。
理想というのは、たとえば“こうだったらいいな”と夢見るものというか、一人で自分の希望を思い描くものであって、……彼は確かに背も高いし、脚も長くてスタイルはいいと思うが、――それこそ、彼のそのスタイルの良さを「理想的だ」という人はいくらでもいるとは思うが、――そもそも僕には、恋人の理想の身長だの理想の身長差だの元からそういう理想はない、無いものは無いんだ、…「俺を貴方の理想の男にして」とかそんな無茶な、…いや…そうか、僕はさっき……』
「……、…」
ユンファさんは目を伏せたまま、さり気なく俺の両手の中からその両手を抜きとり、自分の脇の下にはさんで(俺にもう手を握られないようガードしながら)、「あの…」と困惑気味に切り出す。
「……ごめんなさい…。さっき…確かに僕は貴方に、“十五センチくらいが理想の身長差だ”とは言ってしまったんですが…――あれはその、実はその場のノリだったというか…、…いや、正直に言えば、あれは僕の嘘だったんです……」
「…嘘…?」
俺はとぼけておく。
……ユンファさんは目を伏せたままこくと頷き、きまり悪そうにこう続ける。
「そもそも、なんですが…――もしかしたら、貴方ならわかっていただける感覚かもしれないんですけど……」
と前置きしたユンファさんは伏し目のまま、伏せ気味の難しい顔を傾ける。
「これまで僕が出会ってきた人は正直…大概、僕よりも背が低かったんです…。あるいは僕より背が高い人であったとしても、せいぜい数センチ高いというくらいの差で…――ですからその…僕はそれに慣れてしまっているというか……」
「……なるほど…? ……」
なるほど――いや、これはまた、どこか鈍感なところのあるユンファさんらしい感覚ではあるだろうが、彼のそれにはまずこういった事実が前提にある。
そもそもユンファさんの身長は178.7センチだ。
要するに小数点を含めれば、彼はほぼ179センチほどもある高身長の青年である。――またその数値にもまして、彼は長身と見られやすい体格をしてもいる。
それこそ痩せ型で手脚が細長く、それでいて顔は小さく、くわえて肩幅も広い、首も長め――とスタイルが良いユンファさんは、それこそ傍目から見て、常に目測180〜182、3センチほどのスタイルの良い長身の美男子と見られてきたはずである。
また人口の大多数を占めているベータ属の平均身長は女性で158センチほど、男性でも171センチほどであるため、彼のその手脚の長いスタイル抜群の長身はもはや目立つといってよいほど際だっている。――そして身長180センチ越えの者もこの国には少なくはないにしろ、彼の(少なく見積もっても)178センチより十センチも二十センチも背が高い者など、それこそ極わずかな少数派である(もちろんどだいアルファ属というだけで少数派の、平均身長180センチのアルファ属男性も含め)。
するとまずユンファさんもまた、およそ俺と同じように「背が高いね」と言われることに慣れている。
それこそ俺たちのように高身長であると、あるいは初対面の人にさえほどほどのタイミングで「背が高いですね」と、(もちろん褒め言葉として)その背の高さを指摘されることも少なくはない。――そしてそれらの事実を踏まえた上で、ユンファさんは「だから…」と目を伏せたままこう続ける。
「…実はその、いやな、慣れてしまっているというとちょっと違ったかもしれないんですが、…例えばですけど、僕より背が低い人たちの中には、僕の家族や親戚、友人たちなんかもいるわけですし…、つまりその…恋愛対象に入らない人たちもまた、大体は僕よりも背が低いというか…――何というか、あくまでも僕にとってはそれが普通のことで、…僕はそれに、特に何を思うわけでもないというか……」
そしてユンファさんは、何か理解しがたいものを見下ろしているかのような伏し目で、更にこう言う。
「…何なら…正直に言いますが、僕はその…そもそも身長が高いとか低いとかが、恋愛においてどんな効果を齎 しているものなのか、それも正直よくわかっていません…――例えばよく言われる、男は背が高いほうがモテる…とかいうのも…、僕もよく“背が高いね”とは言われましたが……別に僕、過去も今も特にモテてはいないんで……」
はは…と目を伏せたまま、そこでユンファさんが苦い乾いた笑いをもらす。
「まあでも…それは別に、わざわざ言われなくてもわかることか、すみません…そもそも僕、昔から陰キャでしたし……」
「……、…」
俺は仮面の下で静かに口をあんぐり開けている。
恐縮ながら――貴方、もしや記憶喪失にでもなっていらっしゃるの…?
過去三桁に到達せんばかりの数の愛の告白をされていてなお「別に僕は過去モテていなかった」ですって…? もはや常套句と化したガチ恋客を拒むためのあらゆるカードを得ておいて、…「別に今も僕はモテていない」ですって……?
……いやそうだった…ユンファさんにしてみれば、「好きです付き合ってください」以外は愛の告白ではないのだった(もはやガチ恋客に関しては何ともわからないが)。…つくづく恐ろしい人……。
「…なんなら別に…」
と冷静な伏し目のまま、脇の下にはさんでいた両手をおもむろにおろし、彼は片手の手首をもう片手でつかみながら、ふと斜へ顎を引く。
「…“背が高いね”という言葉自体、恋愛対象にだけ言う言葉でもありませんから…。むしろそれって、単なる容姿の特徴を述べているだけといいますか……」
「……、まあ…一理は…ある、けれど…」
要するにユンファさんは、そもそもその「背が高いね」という言葉自体、そう言った相手の恋愛対象に自分が入っていたから言われたことではなく、単に容姿の特徴を指摘されただけである。と、そう言いたいのだろう。
……が――確かにそれは恋愛対象にだけ言う言葉ではないにせよ――少なくとも「単に容姿の特徴を述べただけ」というよりかは、誰にしても大概は褒め言葉として言うようなセリフである。
ましてや、これまで彼にたいして人が言ってきた「背が高いね」という言葉には、人よっては確実に「(男として)格好良いね」というほのかな恋心的な意味合いも含まれていたことだろうし、何ならそれによってユンファさんにドキッとしてほしい、自分を恋愛対象として意識してほしい、というちょっとした可愛い恋愛戦略的な言葉だったかもわからない。
だというのに……彼はそれによってドキッとしたこともなければ、相手を意識したこともない。なぜならそれは、単に容姿の特徴を述べられただけであるから。
……これぞ鈍感男たる所以 である。
「…それに…例えば、ですけど…」とユンファさんが俺の目をその澄んだ薄紫色の瞳でまともに見て…いや、俺の目を八センチ分見上げて、不思議そうに首をかしげる。
「僕が友人をちょっと見上げたときもそうですが、友人に見上げられても、別に僕はドキッとしたり、その…ときめくといいますか、そういう恋心を感じたことが全くないんです。…」
「……な、なる、ほど…? ……」
やけに綺麗な透き通った薄紫色の瞳で目を見上げられながらそれはグサッとくる……。
要するにユンファさんはこう考えている。
――自分よりうんと相手の目線が低かろうが、あるいは自分が数センチ目線を上げねばならない相手だろうが、そもそも別段恋愛対象とも見ていない人々がそうである以上、自分には身長や身長差というところに、いわば「ときめくか否か」の基準などない。
もし仮に――自分に身長差というところに恋心の触角があったなら、少なくとも自分は友達の誰かしらにはときめいたはずである。
しかし、自分はただの一度も友達にときめいた試しがない。――なぜなら彼ら彼女らは、あくまでも自分の友達だからである。
……というよりか、そもそも自分は男女や関係性を問わずして、誰かとの身長差に、慣れもあってかときめいた試しがない。むしろそれが「普通」であるから意識さえしたこともない。――そして将来の恋人の理想の身長、および自分との理想の身長差を思い描いてみたこともなかった。
……結局のところ、ユンファさんの結論を簡単にまとめると――「やっぱり、人の身長とか身長差とか僕はどうでもいい」……ということである。
「ですから、僕は正直…やっぱりその……」
とユンファさんはまた物憂げに目を伏せる。
「もともと身長差というものに、恋愛に纏 わる何かを感じたことがなかったので――申し訳無いんですが、僕は別に、貴方のその身長を理想的だとは全然思わないし…」
「……、…」
グサッ――へぇこれが目の前が真っ暗というやつなのですね、不思議と確かに何も見えません…(いや、あまりの胸の痛みに俺が目を瞑ったせいである)。
「勿論、貴方を僕の理想にも出来ないし……何なら…確かに貴方は素敵な人だとは思いますが、今まで僕は、貴方のような人と付き合いたいと思ったことも一度もありません……」
「…グッ……!」
グサッグサッ――いた、痛い…っ!
胸が痛い…! 助けてモグスさ……。
「…何より…今も尚、僕には恋人に求める身長だとか、身長差だとか、そういった、身長に関する理想というものはありませんし…――というか貴方は、もともと僕のタイプではないですし…タイプではない人を、無理に自分の理想の人にはとても出来ませんから。…だから、僕が貴方に恋をすることは絶対に有り得ません。…貴方が僕の好きな人になることも、僕が貴方の恋人になることも、絶対に有り得ません。」
「……、…、…」
死、――グサッグサッグサッグサッ…ねえ俺を殺す気、?
俺もう死んでしまうよ、死んでしまうから、もうやめてくださいユンファさん……!
「というか僕、理想だとか何だとか以前に、正直もう恋をする気はないですし、恋人ももう要らないんです。…ですから、申し訳ないんですが…貴方は僕の理想の男性ではありませんし、今後そうなることも有り得ません。ごめんなさい…」
「…ッグッうぅ…! まっ全く貴方というひ、人は、…俺、この俺を、またフッフるだ、フるだなんて、…何故、何故こんなに素晴らしい男をフ、……酷い人……っ!」
(今は無い)前髪を後ろに撫でつけながらカッと目を見開いた俺は涙目である。またフラれちゃった、…前代未聞だが、困った、早くも三度目である。
……ユンファさんは「ごめんなさい…」と俺に、眉尻を下げて微笑みかけてくる。その何とも言えない色っぽい愁眉 、その儚げな微笑がまた美しい……。
「……でも…素敵な貴方とお付き合い出来る方は、凄く幸せな方ですよね…――きっと優しい貴方に、物凄く幸せにしてもらえるんでしょうから。…僕も陰ながら応援していますね。貴方と、貴方の将来の恋人、そのお二人のお幸せを願って…」
「俺と付き合えば幸せになれるとわかっていらっしゃるのならば大人しくこの俺と付き合えばよいもn…」
「それはごめんなさい」
断固その綺麗な困り笑顔で俺の愛を拒んでくるユンファさんに、俺はすーっと息を吸い込んだ。
「……、…いえ…、わかった…――。」
いや、…いやしかしなるほど、ユンファさんの考えが聞けてよかった。と俺は目を伏せ、自分の顎をつまむ。
――この人を俺のものにするためにはまず、「形から入る」べきかもしれないね。
恋愛対象に入らない相手の身長なんてどうでもよい。恋愛対象に入らない相手の身長差なんて意識したこともない。そもそも人との高低差に慣れすぎてしまっていてときめくも何もない。だからどうでもよい――と彼はいうが、そもそも彼の「恋愛対象に入らない相手」の範囲が広すぎるというか、厳密すぎる。
それこそ例のケースにも見たように、ユンファさんは、たとえ自分に恋愛的な好意をもった人とデートをしようがしまいが――彼が好意はおろかデートとすら気が付いていなかったというのもあるにせよ――二人きりで過ごした男にも女にも、そういった恋愛的な意識をもつことは一切なかった。
……それというのは、思えばユンファさんの中に『この人は僕の友達だから(友達に恋愛的な目、ひいては性的な目を向けることは失礼だから)』という固定概念があったせいもあったのだろう。
要するに彼は「友人」というカテゴライズを誠実に遵守するあまり、それというだけで、まず恋愛対象から人を除外していた可能性があるのである。
すると俺が九条 ・玉 ・松樹 としてユンファさんを迎えに行った際、仮に俺とユンファさんがまずお 友 達 か ら スタートをした場合、俺の人生計画に彼のその固定概念(『この人はお友達だから』)という壁まで隔たりかねない。
……まあ昨今の人にしてはとんでもない純潔なブレーキ要素だが……それでなくとも俺たち、いや、今や俺の人生計画を邪魔する要素が多い現状では、一つでも壁は少ないほうがよいのは確かだろう。
したがって、まずは「形から入る」――。
……それこそリスキーではあるけれども、まずは手ならしに俺お得意の「恋人契約」――果てには「婚姻契約」をもって、ひとまずのところ、彼とはさっさと籍を入れてしまったほうが話は早そうである。
詰めるところは多いが、少なくとも今にもわかるメリットはいくつかある。例えば報酬のともなう「契約」の建て前があれば、少なくとも今のユンファさんでも交際に応じてくれる可能性は高い。…また契約とはいえ、恋人同士や夫々 という関係性であれば、彼は俺を常に男として意識している状態になる。
――そして俺のほうも、当然のようにこの真実の愛をユンファさんに遠慮なく伝えられるので、常に恋愛的な甘い雰囲気を保っていればあるいは彼も、そのうちに俺のことを愛してくれるかもしれない。
もちろん唐突にそんな酔狂な契約を持ちかける男、それも九条ヲク家の俺がそれを持ちかけるのでは、まずユンファさんには怪しまれ、警戒をされてしまうかもしれない。…ともすれば、それによって俺は彼の疑心を買う可能性もある。
またその「契約」という書面が邪魔をして、ユンファさんには俺の恋心を疑われてしまうかもしれない。
――ただそういったリスクを取ってでも、俺には月下 ・夜伽 ・曇華 をできる限り早く手に入れるべき理由がある。
「……、…」
……俺には時間がないんだ。
本当はユンファさん相手に「契約」なんて嫌だけれど、それも仕方がない――あとは野となれ山となれ。
「……、…わかった…! そうか…、んふふふ…――。」
それと俺は、他にももう一つ今にわ か っ た のである。
……ユンファさんの考えが聞けて本当によかった。
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