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                「…………」    俺に回答を迫られた(なかば脅された)ユンファさんは腕組みをし、難しいその表情を傾けている。凛々しい黒眉をいかめしくしているその真剣な顔はなお精悍(せいかん)と見える。   「…………」   「……、…――。」    俺はこれでもわかってはいる。  俺はこだわりすぎ、気にしすぎなのかもしれない。  ――しかし俺のこの身長差へのこだわりは、俺なりに意義深い理由があってのことなのである。    俺がユンファさんよりも背が高い男になりたいその理由とは――「あの日」に俺が得たコンプレックスのせいであった。    それは十一年前のあの日――十三歳の身長159センチの俺が、その俺よりほとんど二十センチも背の高い十六歳身長176センチのユンファさんに、完全に見くびられていたせいである。    まあ、ユンファさんより頭一個分も小さな十三歳の少年を男として見なかった彼はよっぽど正常ではあるのだが、とはいえ、我ながら十三歳の少年とはちょうど自我の内の「男」というところを育成しつつある年齢であった。――平易にいえば、あのとき俺は()()()()()()()()()を傷付けられたのである。    男としてのプライド……ちなみにだが。  脳科学的にも「精神の性別」は認められつつあるそうだ。――実はヒトの脳には分界条床核(ぶんかいじょうしょうかく)という性自認をつかさどる部位があるそうで、俺たちはここで「自分は男だ(女だ)」と認識しているのだという(なお俗な「男脳女脳」とはもちろん違う)。    つまり、まず脳にも性別が存在している。  するとトランスジェンダーの人々――心と身体の性別が一致しない人々――は、そのように体の性とは違う性の脳をもって生まれたということなのであろう。    しばしば世の人に彼らは「心の性別など存在しない、根拠がない」と糾弾されているが、その根拠がそれである。――そもそも社会的性別の役割自体、生物学的なオスとメスではなく、男性と女性(プラス属性)で分かれているのだから、彼らが脳の性別に基づかない扱いを受けて苦痛を覚えるのは当然である。人からの扱いで傷付くのは「肉体」ではなく「心」であるからだ。  もちろんトランスジェンダーだからといって何でもかんでも受け入れるべきだとか、それというだけで彼らを性善説的に捉えるべきだとか、そう言っているのではない。クリアすべき課題は多かろうが、少なくとも「心の性別」はあるようだ。  さて――話が逸れてしまったけれど……。    そう…俺は十一年前のあの日――十三歳の頃、むしろその年頃の俺はちょうど「男としての」自我、アイデンティティといわれるもの、プライド、自恃の念が育ちつつあった。しかし育ちつつある新芽というのは、それこそ一番やわらかく敏感なものである。    十三歳の俺は自分のそれらを十一年前、俺のユン…十六歳のユンファさんにズタズタに切り刻まれた。  あのときの彼は俺のことを「少年(小さい男の子)」とは見ていても、決して「一人の男」として見てはくれなかった。    そして、あの日の十三歳の俺に向けられたユンファさんのその(あなど)りの精神においてもそうだったが、何より、俺は目に見えて彼よりも小さい自分の体が、あの日、あの長身骨太のユンファさんの体と比較されてあまりにも惨めだった。  自分の手がユンファさんの手より小さかったこともそうだが、子供なりに好きな人よりも自分の背が低い、肩幅もせまい、細い、要するに好きな人よりも子供――彼の性対象になり得ない少年――である自分の体が気に食わなかったのである。    悔しかった。見返してやりたかった。  十一年前のあの日に俺はコンプレックスを得た。あるいは俺のユンファに与えられたコンプレックス……低い背、高い声、小さい細い手、貧弱な体格、……    しかし十三歳の俺にはいみじくも「のびしろ」があった。ユンファさんよりも背が高くなれれば、彼よりも体格が男らしくなれれば、あるいは彼もいつか俺のことを「男」として見てくれるのではないか。  認められたかったのである――(性的な意味で)男として、俺はユンファさんに認められたかった。    だから俺はあの日以来、必死にトレーニングに励んだ。元より九条ヲク家の者として肉体の美を磨くことを強いられてはきたが、俺はそれ以上にユンファさんのことを想ってトレーニングに励んできたのである。    牛乳をたくさん飲んだ……肉や魚は骨まで喰らった……太陽光を浴びながら毎日走り込んだ……夜は基本的に必ず九時から翌朝六時までたっぷりと寝た(浴室にいるとき以外)……背が伸びると噂のバスケなわとびバレー水泳競歩、なんでもやった……俺がそうして得たものがこの186センチの身長と、この引き締まった剛健(ごうけん)な筋肉である。    これはひょっとすると、ユンファさんもまた俺と同じ男であるからこそ生まれた、爆発的な反発力だったのかもしれない。彼が同性、すなわち男という俺と同じ土俵にいるからこそである。――俺は男として、同じ男であるユンファさんよりも(まさ)るところを一つでも得たかった。    なお今ではそのコンプレックスを俺に与えてくださったユンファさんには感謝している。彼が俺にお与えくださるものは何一つとして無駄にはならない。その刺激あってこそ俺は今こうして186センチの長身、それと男らしい理想的な筋肉まで得られたからである。    しかし……すっかりそのコンプレックスを解消したと、…そう、思っていた。――だが、     「……はぁ…――。」   「わかりました」    やがて何かひらめいたユンファさんが、澄明な顔つきで俺を見てそう言う。   「…あの、僕――。」    と彼はにこっと目を細めてわらうと、手堅い確信からうんと一度力強く頷いた。           「正直、どうでもいいです。」           「……は…?」    俺はにわかに神経を逆なでされた。  しかしユンファさんは笑顔のままこうつづける。   「…結局身長差なんてどうでもいいんです。…それこそ男性より背の高い女性がいても、女性より背の低い男性がいてもいいじゃないですか。――僕はもともとそう考えていたんです。…例えば男性は背が高くなければ魅力的ではないなんてこともないですし、逆に、女性だから男性より背が低くなければ魅力的ではない、なんてこともない。」   「…………」    もちろん俺もユンファさんのその意見に異論はない。なるほどその通りだ――といつもならば全く同感だと、即座に納得したことであろう。  彼はふっと目を下げるが、そのぷっくりと愛らしくふくらんだ桃色の唇の端は上がったままである。   「勿論好みは人それぞれでいいとは思うんですが、少なくとも、だから僕は、貴方との八センチ差も正直どうでもいいです。…その身長差があるからこそ貴方が魅力的に見えているわけでもないですし…むしろ、その身長差がなければ貴方が魅力的に見えないだなんて、そんなことは有り得ない。」    また俺の目を聡明な薄紫色の瞳で見るユンファさんは微笑んだまま、   「…そうでしょう。ですから、正直僕たちの八センチの身長差なんてどうでも……」    と言いかけるが俺はこう低い声でさえぎる。   「どうでもいいわけないでしょう。……、…」    いけない。――俺は不機嫌まるだしの低い声でそう断じてしまってからハッとした。  要するに俺は抱えているコンプレックスの解消の兆しを見ていない、いや見失ってしまった今、よりにもよって一番「どうでもよい」と言われたくない相手のユンファさんにそう言われたことで、またムカッときてしまったのである。    

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