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                  「…ご存知ですか?」とユンファさんは爽やかな声で、落ち込んでいる隣の俺を励まそうとしてくる。 「…いやご存知だとは思いますが、ヤマトのベータ属女性の平均身長は158センチくらいなんだそうで、…つまり、それこそ女性が貴方と並んだら…まあ多分…三十センチくらい? の差は出来ると思いますし、もちろん男性とでも、十五センチくらいは差が出来るはずですよね。…」   「…………」    せっかく励ましてくださっているところ悪いが、俺の本音をいえば――だから何ですか。  女だろうが男だろうがユンファさん以外の者とどれだけの身長差があったところでどうでもいい。何の意味もない。彼以外の誰が三ミリだろうが三センチだろうが三メートルだろうがどうだってよいのだよ、俺の関心があるのはこの白と黒の八センチ差だけなのだ。   「それだけ身長差があれば十分じゃないですか。…はは、むしろ186センチも身長があったら、それこそみんなに憧れられていると思いますけど、貴方はスタイルが良くて脚も長いし…まるでモデルみたいですし」    ユンファさんは俺を励まそう励まそうと、また俺の顔を下からのぞき込んでやわらかく微笑む。   「…あの、それこそ女性ならきっと、みんな一目で格好良いと貴方に惚れてしまうくらい背が高くてスマートですし……男性でも、それこそ貴方の背の高さや、体型を羨ましいと思う人は沢山いるでしょうし…」    ユンファさんの微笑の眉尻が少し切なく下がる。   「……わからないですが、何なら男性でも貴方のことは格好良いと思って、…その…人によっては、男性でも貴方に惚れてしまうかもしれ……」   「じゃあ貴方も惚れてしまう…?」    と俺がすかさず質問すると、ユンファさんは苦々しい笑みを浮かべて背を正し、「まあとにかく…」とにごす。   「…男性として、もっと自信を持っていいと思いますよ。…」   「……自信、ね…、……」    俺はまた目を伏せた。  好きな人に男として見られない自分がここにいて、どうして男としての自信など持てるだろう。  むしろ自信など今しがた打ち砕かれたよ、必死に努力はしてきたが――憧れの人に追いつけない自分をありありと実感した俺は、もはやこの186センチに何の自恃(じじ)をも見いだせない。   「……はぁ……」   「……、…」    嘆息(たんそく)を吐いた俺の隣、ユンファさんが俺のことを心配そうに眺めている気配がする。ただ、ややあってから彼が「あっ」と何かをピンとひらめいた軽快な声を出した。   「…そういえば母が言っていましたよ。…背が高い男性に抱き締められると、何か凄く幸せな気分になれるんだそうです。…それって女性限定…なのかな、正直僕にはわからないが、…えっと確か、…溶けそうになる…? と言っていたかと…――あの、例えば煮込まれ過ぎて、消えかけているじゃがいもみたいにドロドロに溶けそ……いや、何かそれは違うな……」   「……、…」  俺は、このシチュエーションにしてあまりにも情緒のない表現を大真面目にしはじめたユンファさんが信じられず、ふっと彼に顔を向けた。彼は目を伏せて真剣に他の上手い例え話を探している。  いやしかし「違うか」と気がついていたのだから、まだマシ……彼はまた「あ」と笑顔で俺の目を見る。   「…とろけるオムライスってありますよね? あのお洒落なカフェとかにあるちょっと高いオムライスです。…あれの卵みたいにこうニュルニュルドロドr……いやというか、その半生の卵ではなく、…あのオムライスにかかっているデミグラスソースのような、こうよく煮込まれて何もかもドロドロというか…あ、ハヤシソースのほうがいいか…?」   「……、いや…そういう問題かな…? 俺が思うにまず…デミグラスソースでもハヤシソースでもどちらでも結構ですが、その場合ならばドロドロというよりかは、()()()()というほうが適切かもわからないですね……」    お可哀想に……お腹が空いているあまりに、こんなに妙な言葉選びしかできなくなっているだなんて……。  ユンファさんはハッとした顔で「あぁなるほど、とろとろか」と俺を見てコクコク頷く。   「……あじゃあ、スンドゥブチゲのあのボロボロ崩れる(もろ)い豆腐みたいな感じでしょうか。あれもとろとろですよね、美味しいし」   「たし、かに…はは…、……」    あの純豆腐(スンドゥブ)をボロボロ崩れる脆い豆腐と表現されるとは、正直論点がズレるが、もはやその表現は美味しそうでさえない。  しかし間違ってはいないからこそ指摘することも難しい。なぜそう濁点を付けたがるのだ貴方は、「ほろほろ」だとか「ぷるぷる」だとか、そして崩れるというか、口の中でほどけるようになめらかな柔らかい豆腐、だとか、そういった美味しそうと感じられる表現はいくらでもあるだろう。  ――まあ(身も蓋もない表現しかできないだけで)ユンファさんには悪意がないどころか、むしろ彼はこれで俺を慰めよう、励まそうとしてくれているのだけれども。   「…えっと、これじゃ伝わらないですよね…?」    とユンファさんが不安げな顔をして俺に聞いてくる。   「まあ(つた)…わらない、こともないですけれど……」    言いたいことはわかる…が。  要するにユンファさんは、あたたかい煮込み料理の包容力あるスープを背の高い男、そのスープに抱きこまれた具材を男に抱き締められた者として、そういった男に全身を包み込まれるように抱擁(ほうよう)をされると、その男の腕の中にいる者は時間を忘れて(とろ)けてしまうほど幸せになれる――それはまるで、その煮込み料理の良い匂いを部屋に充満させながらも、いつの間にか過ぎてゆく煮込み時間のように――。  ……といったように、彼は背の高い男に抱き締められた者の状態や心情を、「まるでいつの間にか煮込みすぎた料理の、消え入りそうなほどとろけた具材のようだ」と表現したいのである。…決して着眼点は悪くないのだ、むしろその点は素晴らしいとは思うのだけれど…。   「…すみません、上手く言えなくて…」    やっぱり僕って頭が悪いな、と目を伏せてしまったユンファさんだが、…いや貴方は頭は良いのだよ。ただ…語彙(ごい)か言葉のセレクトに問題があるかもわからないだけで……。   「…いえ、とても素敵な表現だと思いますよ。…それに…俺を励ましてくださったんですよね、ありがとうございます」    ……ただ別に難しく比喩表現をしようとせずとも、「とろとろに蕩けてしまうくらい幸せなんですって」と言えばよかっただけではと思わなくもないのだが、何にしても()()()()()()()()()()のそういったところすら愛おしい。  しかしユンファさんは俺が「俺のためにありがとう」と言うと、目を伏せたままはたと警戒したように苦笑する。   「…はは…とにかく…きっと、貴方に抱き締められたい人は多いんじゃないですか…。…その…、……」    ユンファさんの伏せられたまつ毛の下で、彼の紺色の瞳が小刻みに揺れる。――『彼に抱き締められたとき、僕も……』――しかし彼は思い浮かんだその感情を差し止め、無理な笑顔で俺を見る。   「…あのつまり何というか、…えっと、絶対貴方に抱き締められて幸せを感じる人は沢山いますから、だから自信を持ってくださいね、…僕も、僕も貴方の恋を応援しています、陰ながらですが、…あはは、もうこれっきり会えないですから、…」   「……八センチ…、八センチ…、八センチ……」    俺は目を伏せてそうぶつぶつ呟く。あえての無視である。もう会えないですって? そう思っているのは貴方だけ。   「では、八センチはどう思います…?」    俺がふとユンファさんを見てそう問うと、彼は目を見開いてびっくりする。   「いやはっ八センチの人なんているんですか、?」   「いやいませんよそんな人…」    いるわけないだろう。まあこれは俺も悪いか。  いま俺は「(八センチ)差」を省略して聞いてしまったのでまあ多少俺も悪いが、俺は身長差の話の流れで「八センチはどう思う?」と聞いている。すなわち()()()()()の話であって、俺は身長八センチの妖精の話など少しもしていない。   「……あぁよかった…そうですよね、はは、八センチの人は流石にいないよな……」   「……はい。それで…? 八センチ差は……いやしかし、…ここは逆転の発想で、やはり俺が今から十五センチ縮むか…、あるいは、あともう七センチ俺が背を伸ばすか……」    ――ところで当然だが、俺はユンファさんの身長178センチを忌々しく思っているのではない。要するに彼に対してもう少し縮めともなんとも思ってはいない。  むしろこの長身の抜群のスタイルはむしろ素晴らしいと、今宵彼と再会してみてもやはり尚そう思う。    隅から隅までその美貌は完璧だ。何一つ欠点がない。  この抜群のスタイルをもつ長身の美男子、それであるからこそユンファさんは、俺が追い求めてやまない高嶺の華だというわけだ。――しかしそれとこれとはまた別の話である。…俺がユンファさんの「理想の男」になるためには、俺は十五センチ縮むか、あるいはあと七センチほど背を伸ばすかしかない。   「……は…? えっと……そもそも何を基準にして言っていることなんですか、それ…?」    ユンファさんがきょとんとした顔をかたむける。   「……貴方。」   「…え?」    ユンファさんのその薄紫色の瞳が驚きに明るくなる。仮面の下で真顔を浮かべている俺はゆっくりとまばたきをしながら、彼のその白菫いろの瞳を眺める。   「…貴方が思い描くカップルの理想の身長差は十五センチなのでしょう。…そして貴方の身長は178.7センチ、俺の身長は186.8センチです。――よって俺が()()()()()()()となるためには、俺はあと十五センチほど縮むか、あるいはあと七センチは背を伸ばさなければならないかと…俺はそう思い悩んでいるのです」    ……と俺は、ユンファさんの白い肩と自分の黒い肩の段差を睨み下げる。八センチ。   「…えぇと…………、……と、いうことは……」    ユンファさんのこの間は、恐らく計算をしているのだろう。彼は文系である。また口頭で伝えられた数字というのもあり、少々計算に時間がかかったらしい。   「僕たち、八センチ…くらい、違うってことか…。あ、だから八センチ……。いや別に…あの僕、実はこれでもよく“背が高いね”って言われるんですが…――まあ、僕の場合はただ無駄に体がデカいだけなんですけど…――でも、貴方はその僕より八センチも背が高いんですよね…?」   「……ええ、八センチしか違わな……」   「とんでもないですよ。そんな…」  俺はバッとユンファさんに顔を振りむかせ、「では」とまた驚いている彼のことをその忌々しい八センチ分見下ろす。   「じゃあどうですか。ご自分よりも八センチほど背の高い男。」   「…どうって…あの、勿論貴方は、それこそ誰が見ても格好良いと……」      ユンファさんのその困った笑顔に俺はずいと迫る。     「…貴 方 は ど う 思 い ま す ――? 貴方のお答えが聞けるまで俺は三年でもずっと此処に居ます。…勿論、貴方と共にね……」    石の上に三年いるよりかはかなり贅沢な忍耐だ。      

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