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                  「ぁ、あの…? どうした…んですか…? 八センチ…? 何に笑って……?」   「……いや、…いや、いやいやいや……」    これはともすると俺の糠喜(ぬかよろこ)びか――。  ――世の中では俗にカップルの理想の身長差、それすなわち十五センチ差だというが……。  いや、いくらユンファさんが小数点込みでいえばほぼ179センチであろう――彼の大学時代の健康診断結果によると、彼の背丈は正確には178.7センチである(なお日によって多少の前後はあろう)――が、(俺は最近は身長など測ってはいないにせよ)俺のほうもぴったり186センチではなく、たしか186.8だか7だかといったところだったので、少なくとも確実に俺たちには八センチ程度の身長差はある。    しかし、もしやそれでは身長差が足りない…?  いや――まあ世の中の「理想の身長差」など、俺ははっきりいってどうでもいい。  世の人の基準で俺とユンファさんという理想的なカップルを理想的か否かジャッジされる筋合いはない、というのもあるが、何よりその「理想」とやらは男女カップルの「理想」であって、間違っても男同士の俺たちの理想ではない……はず、なのだが…――。      目を伏せた俺は、引いた仮面の顎を人差し指と親指でつまみ、その立てた腕の肘はもう片方の手の甲の指のつけ根で支え、すこし顔を傾ける。   「……、どう…思われます…?」   「……え…な、何がですか…?」    ユンファさんのその反問した声には笑みが含まれていながら、しかし誰が聞いても困惑しているとわかる揺れがある。…それにしても彼、今日はなぜかやけに困惑されてばかりですね、お可哀想に…――さて。  俺は目を伏せたまま、確かに質問内容を言っていなかったとこのように答える。 「…世の中では俗に、カップルの理想の身長差はおよそ十五センチから十二センチほどとされているのですが……貴方はそれについて、どう思われます…?」   「……あぁ、へーそうなんですか、それは知りませんでした。…で、えぇっと、理想の身長差……?」    ユンファさんは本当にその情報を知らなかったらしい。ふと見れば彼もまた目を伏せ、今自分が述べるべき意見を頭の中に探している。が、   「……? 別に…いいと思いますよ、僕は……」    とユンファさんは俺を見ないまま、眉尻を下げて薄笑いを浮かべた。  ……彼はこう思っている。世の中の理想の身長差など、恋人がいないという以前に恋愛をしようとも思っていない自分にとっては、どうも関心をもてない他人事でしかない。――ましてや、かねてより考えをもっていた事柄ならばまだしも、今初めて聞かされたその「理想」とやらにはなお、自分は大した意見など持ちえない。   「…なるほど。……」    俺だって世の中の「理想の身長差」などどうでもよい。俺にとって何よりも重要であるのは、ユンファさんの思い描く「理想の身長差」である。…つまり彼が俺に求める身長である。――それだから俺は、ともすると八センチ差程度では大して彼もときめかないのでは、と思ったのだ。  あるいは彼も世の中の理想を理想としている可能性がある、とそう考えた俺は「(八センチ差では)足りないか」と少し悲観はしたが、しかし、どうやらそれに関しては杞憂だったようである。   「…では…貴方の理想は」    俺が低い真面目な声で問うなり、意表を突かれたように俺へ振り返ったユンファさんは「え…」と低い声で戸惑う。彼は目を泳がせて「僕…ですか?」と、自分に確認するように言うなり、また目を伏せる。   「……あぁ…、……」    ユンファさんはやや顎を引きながら少し首をかしげた。――『理想の身長差…、つまり僕が理想とする恋人の身長、ってことだろう。…いや考えたこともなかったな…、というか正直、別に人の身長なんてどうでも……いや、はっきりそう言ってしまうのはさすがに失礼だろう。…まあここは、安牌(あんぱい)を取っておこうか…』    とユンファさんがそこで俺を見る。彼は俺を見て少し笑った。   「…でも、確かに十五センチくらい身長差があったら素敵ですよね。僕の理想もそれくらいかな」   「……、…」    ムッとしたが俺はわかっている。  これはユンファさんの「安牌」、要するに特に良いとも何とも思ってはいないが、世の中の理想にとりあえず合わせておけば間違いないという、当たり障りないつもりの彼の嘘である。――しかしだとしても納得がいかない俺は、ユンファさんの隣で軽くつま先立ちになってみた。  要するに元の八センチ差にプラス七センチで十五センチ差であるから、「これくらい」と俺の隣のユンファさんに示したのである。  ……俺は顔をかなり下げてユンファさんを見下ろす。   「十五センチ差というと大体これくらいですが」   「……、おー…」    と俺を見上げたユンファさんがきょとんとする。   「あぁ結構ありますね、十五センチ差って」    といって俺を見上げる彼の薄紫色の瞳の中には特にだからどう思う、というような、特筆すべき思いが映っているわけではない。その「結構ありますね」と彼の思考はシンプルに一致しているということだ。   「どうです。どう思われます、十五センチ差。本当に理想的?」   「……はは…、えぇとその、…あはは…」    笑って誤魔化そうとしているユンファさんは、内心焦っている。――『な、なんでだろうか、その理由は正直わからないが、…どうやら僕は安牌を取ったつもりで、思いっきり回答を間違えたらしいな……彼、なんでこんなに意地になっているんだ…?』    俺はストンと踵をおろした。   「十五センチ差もあっては、上目遣いなんてしたら白目を剥いているようであっても…?」   「……へ?」    ユンファさんが目を丸くして驚き、彼はその顔をふるふると横に振る。   「いや、多分…というか、いえそんなことはないかと…実際僕の両親は、実は大体それくらいの身長差があるんですが、別に母は父を見上げるときも白目を剥いては…、というかだとしても、別に顔ごと上げたらいいだけの……」   「見下ろすほうはよっぽど引き締まってでもいない限り二重顎になるとしてもですか…?」    俺はずいっとユンファさんに迫る。   「…へ…あは、いやでも、別に今も貴方は二重顎には見えなかっ…ぁ、…」    ずっ! と更に俺が迫るとユンファさんはビクッと怯え、いよいよ俺から顔を背ける。   「キスもしにくいハグもしにくい。背の低い方は並べばいよいよ脚が短く見える……としても、ですか」   「……そ…そんな…、少なくとも僕の両親はそうは見えませんでした、けど……まあ、キスをしている姿は見たことがないが…――えっと、そう…なんですか…? 僕にはちょっとよくわかりませんが……」    目を伏せた困り顔――『圧が、凄い、…』――しかし憎らしいほどに美しい。  というか…ユンファさんにとってもっとも身近なカップル、すなわちご両親であるツキシタ夫妻がおよそ十五センチ差の、世の中でいうところの「理想的な身長差」をもっている――ということは、……俺はすーー……と意気消沈してユンファさんから離れる。   「…じゃあ貴方は…俺のことを背が低い男だと思われていることでしょうね…、……」    目を伏せた俺は鼻からすーーと吸った空気を、ふぅー…と鼻からのゆるやかな静かなため息にする。  八センチに浮かれたが、…八センチに落とされた。   「……は、…はェぇ゛……ッ?!」    ユンファさんは妙な声を上げるほどぎょっとしているらしい。ちらと見れば、誰がどう見ても愕然(がくぜん)とした表情を浮かべている彼のほの白い(すみれ)色の瞳は、『な、何でそうなるんだ…!?』とやはり驚倒(きょうとう)している。   「まっまさか、…むしろ高いほうだと……」   「……はぁぁーー…、……」    俺は大息(たいそく)をつきながら落胆してまた目を伏せる。  ……世間でも八センチ差とは「所詮(しょせん)八センチ差」であるという。そしてその「所詮八センチ差」というのは、結局のところユンファさんもそう思っているに違いない。――なぜなら、彼は自分の理想の身長差など(今のところは)なく、またその「理想」の存在自体いまに知ったにせよ、彼の一番身近なカップルであるツキシタ夫妻がまったく憎らしいことに、なんとそのカップルの理想の身長差「十五センチ差(くらい)」だというからである。    例えば俺のように両親を嫌っているならまだしも、ユンファさんはツキシタ夫妻を愛している。  それは当然であろう。彼らとユンファさんには血の繋がりはないにせよ、彼らはユンファさんのことを実の息子のように有り余るほどの愛をもって育てあげ、そしてユンファさんもまた、むしろ愛する彼らのために今この苦境に耐えているほど彼らを愛している。    彼らは間違いなくユンファさんの両親なのである。しかもツキシタ夫妻は確かに美男美女、それもいささかお人好しが過ぎるほどの人格者、彼らは世の中の目から見ても「理想的なカップル」というに相応しい夫婦である。    とどのつまり――今でこそ具体的な「理想」など無いユンファさんであろうとも、ツキシタ夫妻という理想的な夫婦と仲睦まじく過ごした二十数年のあいだに自然と彼の中に根付いているはずの、彼の「理想的なカップル」のロールモデルともいえるその理想の基準とはほとんど間違いなくあのツキシタ夫妻、すると、彼の潜在的なカップルの理想の身長差もまたどうせ……十五センチ差だということだよ……。    ――もっといえば、八センチ差くらいじゃ俺はユンファさんに格好良い男だとは思ってもらえない、ということ……。  俺は目を伏せたまま肩を落とす。   「…もう少し身長が欲しかったな……」 「…はあ…っ!? ぁッいやごめんなさ、…な、何で、何でですか、…何故これ以上、こんなに背が高いのに何故、…あのよく言われませんか、背が高いねとか……?」   「……まあ…言われるよ、言われるけれど……」    ――背が高いと言われたこと?  ……ゴマンとあるに決まっているだろう。  そもそも世の基準となっているベータ属のその男性でさえ平均身長171センチのこの国で、この186センチの背丈で闊歩して暮らしていれば、それこそ俺が男女にかかわらず「背が高いね」と言われる機会などいくらでもある。  実際俺は日常的にほとんどの人を見下ろすようであるし、ちなみに世の中にあるもののほとんどがベータ属基準であるせいで、これほどの身長があるといささか難儀する場面も多い(例えばカフェなどの飲食店でも俺にとっては少し座席が(せま)く感じられるだとか、タクシーの客席があまりにも狭いだとか、それの乗り降りにもいちいち深く体を折りたたまねばならないだとか、あちこちの建物のドアが低いだとか、市販の衣服はほとんどサイズが合わないだとか、意外と背が高いは高いで不便はあるのだ)。   「…で、…すよね…?」    とユンファさんが当惑しながら言い、更にこうつづける。   「…そりゃあそうだ…そりゃあ背が高いと言われますよね…、しかもしょっちゅう言われないですか…? 正直、もう十分なんじゃ……」   「……だって…頻繁にそう言われたとしても、それは()()()()()なんですもの……」    俺は目を伏せたまま悲観している。  ……ユンファさん以外の誰に「背が高いですね」と言われたところでそれは単に事実を述べられただけであって、俺がそのセリフに喜ぶにはまず月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)の色っぽいふくよかな唇と、その人の甘く(さわ)やかな低い声がどうしても必要なのである。  もっといえばその“タンザナイトの瞳”に俺が映り、そして彼のその美しい瞳に『背が高くて格好良い♡』というハートマークが映っていればなお申し分ない。      ……まあ「所詮八センチ差」では、ユンファさんにそう見られることもないのだろうけれど――。     「じ、事実…、まあ、はい…そうですね…。それなのにもっと身長が欲しいんですか…? 何でそんな……」   「…俺だって“狼化”したならこの程度ではないのです……」    とはいえ、俺だってさすがに“狼化”したら……そう、そうだ…俺にはまだ“狼化”が残っていた。そうだったよかった――俺は“狼化”した際、「人狼型」ともなると身長206センチにもなれるのだった(耳は除くが必然的なつま先立ちは込み)。  すると178センチのユンファさんとはほぼ三十センチ差ともなれるわけである。178センチのユンファさんでさえすっぽりと俺の体に包み込めてしまう…と。   「……そう…俺だってこれでも、“狼化”をしたら二メートル六センチほどの身長にもなれるのです……」    その三十センチの高低差があってはさすがのユンファさんであっても、俺のことを「背が高い、格好良い」と思ってくださるに違いな……、     「………………まあ…一週間だけですけれど………」      ――いやそれ一週間ばかりのことではないか……。     「……、はあ……あぁえっと、いや、別にその……」    とユンファさんは困惑をしつつも、目を伏せている俺の顔を下から覗き込んできた。   「…貴方はもう十分背が高いじゃないですか。」    ユンファさんが俺の目を見ている切れ長の目を細め、ふと優しげに微笑む。   「…それとも…あれですか。アルファ属の方にしては、背が低かったりするんですか?」   「……いいえ…」    ちなみにこの国のアルファ属男性の平均身長は180センチほどである。もちろん上には上がいる(人によっては“狼化”せずして200センチ越えの者もいる)が、要するに俺はその平均よりも六センチばかり背が高い。   「…()()1()8()6()()()()()()()()()()()()()、アルファ属男性の平均身長180センチよりも六センチは高いです…」   「……へへ…、……?」    ユンファさんが笑いながら眉尻を下げる。  ――『じゃあ何故…? めちゃくちゃだ…というかそれ、もはや嫌味にしか聞こえないんだが……』  そして彼は背を正し、「うーん…」とどうも俺の苦悩が理解できないと返答に困っている。なるほど俺は、もう少しこの苦悩の内容について言及をすべきだったようだ。   「いや、厳密に言えば身長がもっと欲しいのではなく、俺はもっと身長差が欲しいのです……」   「……身長差、ですか…? いやでも…それこそ貴方くらいの背があったら、よっぽどスタイルの良い人でもない限りはその……――多分、それこそヤマトのベータ属男性の平均身長であっても、十五センチ…くらいは違うんじゃ……」   「……ええ、まあ……」    その「よっぽどスタイルの良い人」が俺の愛する人――貴方なのだよ。だから悩んでいるのに、今貴方の隣に立って改めて…ね。      

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