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                     俺はユンファさんの肩を抱き、あのミニバーへ向けて歩き出した。  歩きながら――俺の水色の瞳はつと垂れたまなじりへ寄り、俺の隣でともに歩いているユンファさんの様子を(うかが)う。   「…………」 「……ふ…、……」    やはり緊張しているのだろう。ユンファさんは俺に抱かれたその広い肩をすこし(せば)めて俺の隣を歩いているが、彼のその物憂げな横顔はいまだうす赤く、彼は伏し目がちに顎を引いて、この部屋の紺とオレンジのダイヤ模様の床をただ見下ろしている。  ――なお俺はもちろんユンファさんの歩度に合わせて歩いているが、とはいえ、彼の歩む速度はそう気取ったのんびりとしたものではない。けっして急ぎ足でもないが、あたかも男の並の歩調だ。  その長い脚の動きは、俺に肩を抱かれているわりに情緒的なものではなく、楽しい寄り道をする気などまったくない、まっすぐ目的地に辿り着こうというだけの機械的なものである。    この淡々と繰り返されるだけの男らしい歩きぶりはまあ、ユンファさんが男であれば当然ではあるが――ましてや彼は並の男よりも脚が長いので、必然的にその歩みが速くなることは俺にも理解には及ぶが――とはいえ、あの壁沿いにあるステンドグラスにほど近いソファ(談話ゾーン)から、対面の壁沿いにあるミニバーまで行くにはそう…何せこの広いスイートルームである、男の歩調でもそれなりに歩かねばあそこまではたどり着けない。   「…………」   「……、…」  と、しても…だ。俺としてはぜひ、さすがに牛歩(ぎゅうほ)とまで鈍臭(のろくさ)い歩度は求めないにしても、ここは緩歩(かんぽ)程度の()()()()()はあえて求めたい。  ユンファさんのこの目的地以上の目的がない、悪い意味で無駄のない歩み――は、寂しすぎる――俺はむしろ、もう少し二人で共に歩むこの時間を楽しみたいのだ。せっかくユンファさんと身を寄せ合って歩いているのだから、星空の下、白鳥の泳ぐ(みずうみ)のほとりを二人で歩いているとまでは求めないにせよ、俺としてはもう少し情緒的な、優雅な、ロマンチックな、ゆったりとした散歩を彼と楽しみたい。  ……ということで俺は、ユンファさんの肩をぐっと掴み、自ら歩調をゆるめる。   「…………」   「……、…」    するとユンファさんの歩みも俺に合わせてゆるまる。ところが彼は俺を見ない。あいかわらず床を見下ろしているばかりか、彼はその横顔に張り付いている俺の視線にさえ気が付かないでいる。    ユンファさんは何か考え事をしているようだ。  ……その伏せられた長いまつ毛の下――緊張に強ばったユンファさんの深い紺色の瞳は、このようなことを思っている。    ――『変な気分だ……まるで夢でも見ているかのような、本当に変な気分…。まるでふわふわとした雲の上を歩いているようで、頭がぼうっとする……』     「…………」   「……ふふ…、……」    いや。俺が思っていたよりか、ユンファさんもまたずっとロマンチックな気持ちになってくれていたらしい。かえってその意識が夢見心地にぽうっとしているばかりに、むしろ体の動きが無意識下の機械的なものになっていたのか。  しかし――『僕なんかを、大切な宝物のように大事に扱いたい…?』と、ユンファさんの伏せられた紺色の瞳に憂いた翳りが差す。    ――『何て優しい人だろう…。わかってはいるつもりなんだが、…要するに彼のあの言葉は、きっと彼が夜を共にする誰しもに言っているようなものだと、僕にだけ言っているわけではなく、今夜は僕が隣にいるから、だから僕なんかにも言ってくれたロマンチックな言葉なのだと、つまり決して特別な意味なんか何もないんだと、…僕はキャストという立場からしても、きちんとそれをわかっていなければならないんだが……。  ……なぜそれくらいのこともわからないんだろう、どうしてこう僕は馬鹿なんだろう…』――馬鹿、ね…と俺は、冷静な怒りを感じた。     「……、…」    俺はいま仮面の下でわずかにムッとしている。  あのケグリが「お前は馬鹿だ、愚図だ、のろまだ」と()り込んだせいで、何とユンファさんがご自分のことを愚鈍(ぐどん)だと思いこんでいるからだ。――本当の愚か者は誰なのか?  ……ところが今のユンファさんの目は盲目的だ。あのケグリが彼をものにするために、彼の慧眼(けいがん)をこうして曇らせているからである。    ――『誰も僕みたいな奴を愛するはずがないじゃないか。…有り得ないことだ。顔も不細工だし、図体ばっかりデカくて、見た目も中身も可愛げもないし、馬鹿でとろくて、愚図で……誰かに愛してもらえるだけの何かなんか、僕は何一つとして持っていない。』    貴方は嘘吐きだ。  ユンファさんは何もかもをもう既に持っている。彼はあたかも完璧だ。ところが彼は、そのことにまるで気がついていない。――自分の本当の姿が、今のユンファさんの目には見えていない。  今の彼の曇り眼に見えているもの、それは――あの悪魔(ケグリ)が彼に見せている幻想――醜悪で愚鈍な性奴隷の自分、その弱々しい化け物のような姿なのである。    ケグリは化け物だ。  むしろ自分が醜悪で愚鈍な弱々しい化け物だからこそ、惚れた美しい月下美人を手に入れるために、彼に歪んだ自己投影(写し鏡)を強いているのである。――人は往々にして自分と同じレベルの者としか連れ合わない。いや、連れ合えない。  ……まあ、あれだけユンファさん(王子様)にキスをされてもなお()()()()()()()のだから、もうあのドブガエルは一生あのままだろうね。   「…………」   「…………」    しかし例えばそう…横から見るとなお、ユンファさんの目と目のあいだにある鼻骨の高さがよくわかる。鼻根からなだらかに少しへこみ、そのカーブは鼻先へむけて上がってゆく。  彼はまつ毛が長いほうだが、その高い鼻骨からまつ毛の先ははみ出さない。またその物憂げな秀眉(しゅうび)の下、彼のすっきりとした切れ長のまぶたは今伏せられている。そのまぶたの(きわ)に自然な毛束をもって抜けなく生えそろった黒いまつ毛もまた、横から見ればなお長いとわかる。  そして高い鼻先の下、紙を咥えているほどに薄く開かれた彼の桃色の唇は、横から見てもぷっくりとしていてとても愛らしい上に、とても色っぽい。   「…………」   「……ふふ…、……」    ほらね…貴方はとても美しいじゃないか。  この端整としかいえない横顔まで、いや、やはりユンファさんはどの角度から見ても完璧な美貌をもっている。――ケグリのみならず、この完璧な美男子を嘘でも「不細工だ」と言える、あの男の店に集うサディストどもの神経が知れないね。SMプレイでそういった優越感を得たいというのは結構だが、それは当然マゾヒストが悦ぶ場合に限る。   「…お綺麗ですね」   「……、……え…?」    ユンファさんがふと立ち止まりながら目を上げ、その薄紫色の瞳とともに俺に振り返る。考え事をしていた彼は単純に聞き取れなかったのだ。  もちろんもう一度愛を囁くことは俺にとって何らやぶさかではない。何度だって何万回だってやぶさかではない。――むしろ先ほどよりもより良い形で――今度は彼のその薄紫色の瞳を見つめながら、俺はこう彼に微笑みかけた。   「…貴方は本当にお綺麗だ。…そのお顔はもちろん、そのスタイルの良いお体も…そして心優しく誠実なそのお心も…貴方は何もかもが本当にとてもお美しい…――だからこそ俺は、貴方に恋をしたのです。貴方がお美しいからこそ…俺は貴方に恋をしたのです…。」   「……、…、…」    ユンファさんは驚いた顔をした。  ……しかし彼はふと目を伏せ、ふるふると顔を横に振る。   「いいえ…」   「……、…」    俺は根気強くあらねばならない。  ユンファさんは今、ある意味ではまともではないのだ。今の彼にとっての真実を映し出す魔法の鏡は、あのケグリなのである。――俺はユンファさんの肩を軽く掴んでいる手の指先を、すり、と動かした。するとその人の白いカッターシャツの乾いた布がシャリと音を立てる。   「…貴方は綺麗だ。本当に、お綺麗だ…」   「いえ僕は…」   「誰が何と言おうと、貴方は綺麗だよ」   「……、…、…」    ユンファさんの伏せられた長いまつ毛の下で、彼の紺色に染まった瞳がじわりと潤む。…するとその瞳の中に、桃色の光の欠片(かけら)がチラと見えた。  ――『してはいけないのに』と彼の瞳が青く暗くなる。    しかし彼の瞳の中で、桃色の光の欠片がチラリと光る。――『してはいけないのに……こんなにもドキドキ、してしまうなんて……』     「…ふふ…それに、貴方はお綺麗なだけではなくて…とても可愛い…、……」    むしろ可愛すぎる。ドキドキですって?  もっとドキドキさせたい……俺の手は、ユンファさんの肩からその人の肩甲骨を撫でさげる。――サラサラとしたポリエステルの薄い布の下にあるその肩甲骨は、硬く山のように骨の凹凸(おうとつ)がしっかりとしている。   「……ぁ…、んん……」    極わずかな声をもらしながら、ユンファさんがきゅっと目をつむる。その伏せられた長く黒いまつ毛が色っぽい。ぞくぞく…と震えながら、じゅわ…とその白い頬を桃色に染めながら、…俺に背中を撫でられただけで、彼はどうも感じたらしい。  ゴクリと俺は生唾を飲み込む。   「…初めてエスコートをされた気分はどうです…?」    その紳士ぶった物言いにして――俺の手はさらりとユンファさんの腰を抱いた。硬い、薄い。…細い……このエロい腰を鷲掴み、上下か前後か……いけない。   「……え…?」    と薄く目を開けたユンファさんは伏し目がちに、   「……あぁ、どうでしょうか…。ごめんなさい、自分でもよくわからない……――ただ、凄くドキドキしていて……頭が、その…ぼーっとしているんです、ずっと……」   「…んふ…ふふ…、そう……」  可愛いなぁ…――と俺はふと何の気なし、ユンファさんの横顔から目を下げた。  すると俺の目に入ってきた光景は、ユンファさんの腰を抱いている俺の肩と彼の肩の段差である。  彼の肩の裏にまわっている俺の肩は、彼の腰を抱いているのでほぼ水平にある。    要するにこの段差は約八センチ分……。  その眺めとはまるで黒い山の下にある、その山より八センチほど低い白い山だ――。      八センチ。八センチ。八センチ。八センチ。      ――八センチ!     「……、…ははは…――。」    俺はあまりの喜びにむしろ力なく笑った。  俺の目はその高低差のある白黒の二つの山に釘付けだ。――なお突然笑いはじめた俺に異変を感じたのであろう、ユンファさんははたと目を見張って俺に振り返った。 「……? どうかしました?」   「……いや…、……」    とは言いながら、俺はまじまじとその八センチの段差を眺める。   「……あは、あははははは……」    なるほどね…、なるほど……なるほどなるほど、なるほど…――嬉しい。      つくづく――俺、ユンファさんより背が高くなっている。    なるほど、こうして密に並ぶと俺の黒パーカをまとう肩から八センチ分下に、ユンファさんの白いカッターシャツをまとう肩がある。――八センチ。   「……? あ、あの……?」   「……んふ、…んふふふふ……」    まあ今更といえば今更なのだけれど、これまでさんざん向かい合っては八センチ分下にあるユンファさんの目線に密かにグッときていたしね…、俺はしばしば初恋の人ユンファさんより八センチも背が高くなれたことを感じてはいたのだ。…だけれど、だけれど…この身長差は…――あぁすっごく嬉しい……。    嬉しい嬉しい嬉しい!    今ユンファさんの身長は何センチか?  そう――約178.7センチだ。    そして今の俺の身長は何センチか?  以前、十一年前、「あの日」、(その後のリサーチによると)十六歳にして既に176センチにもなっていたユンファさんの前で、一方、十三歳の少年であった俺は(男にしては)たったの159センチ、すると俺と彼との身長差は十七センチほどもあった、とにかくあの頃の俺は全くちんちくりんだった――。    しかし、それが今や――。  俺の身長は今なんと――186センチだ。    そう…「あの日」には俺のほうが十七センチほどもユンファさんより背が低かった。ほぼ二十センチ、それはほとんど頭一個分ともなる身長差である。    しかし俺は念願叶って、今や初恋の人月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)よりも八センチほど高い背を手に入れられたというわけである――。       「あぁ八センチ…、この喜びたるや…んっふふ……」   「……へ…八センチって、八センチって何ですか…? な、何のことですか……?」   「…あっははははははは…――っ!」      俺は天井へ向けて笑い声をあげた。  ――嗚呼(ああ)歓びの八センチ!         ×××   ×××      いつもお読みいただきありがとうございますっ♡  「鍵」のほうでも言ったのですが、リアクションにて応援くださる女神えん男神の天上人(天上神?)のみなさまも、まじでほんとにチョベリグありがとうございます!!  ありがとうございますのありがとうございますを宇宙までぶち越えまくったありがとうございますです!!(???)  この僕のめちょめちょハッピーをエネルギーに変えて、少しでもちょっとでもみなさまにお楽しみハッピーになっていただける作品をがんばって書きたい、おれのシェアハピ受け取ってくれぇ〜〜ジョジョ〜〜! という感じで励み〜〜!  ……ますので、引き続きこの強欲鹿の応援、よろしければぜひよろしくお願いいたしますっ!  強欲の鹿。      

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