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「…では、改めてお聞きしますけれど…――貴方の、理想のカップルの身長差は…?」
と俺が屈託なく微笑みながら首をかしげると、ユンファさんはうんざりとした半目で俺を眺めながら、低声 でこう答える。
「…あぁ、8.1センチです…」
「…おやそうですか…? いやはや奇遇ですね――まさか俺と貴方の身長差、それとぴったり合った身長差の理想を貴方が持たれているとは…、やはりこれは運命です……」
「…ええ、まあ…はい…」
ユンファさんの半分ほどしか見えていない薄紫色の瞳が、じっとりと俺をながめながら『何が「奇遇ですね」だ、何が「運命です」だ、…貴方がなかば強制的に僕にそう言わせてるんだろ、全く……』と呆れている――まあ彼は本意なげではあるけれど、いずれはその言葉が俺を引き下がらせる嘘ではなく、ユンファさんにとっての真実になる……これはその良いスタートが切れたということで、今回ばかりはひとまずこれで満足しておいてあげましょう。
「――では、行きましょうか…?」
さて俺は、あらためてユンファさんの隣に並ぼうと体を傾けながら片足を踏み出し――たが、それを阻止するように、ひんやりとしたユンファさんの硬い指先が、俺のぬくもりの濃い首の側面をするりと撫でてくる。
「……っ?」
俺はその思いのほか冷たい彼の指先にビクッとしてしまった。俺の首まわりは着ているこの黒いパーカのフードが、もとより俺の高めの体温をそこに篭 もらせて保温していたので、彼の指先の冷たさがあまりにもよく伝わってきたのである。
「…カナエ君の首…あったかいですね」
とユンファさんが、陽だまりの幸福にひたる猫のように目を細めて微笑む。――なるほど、俺 は な ぜ か 突 然 ユ ン フ ァ さ ん に 誘 わ れ て い る ようだ。
……そう、誘われているようだ……誘われている……初恋の美男子、俺は初恋の美男子、月下 ・夜伽 ・曇華 に誘われて……――。
「っそ、凄く寒かった、からね、…そ、外が…っ!」
「……?」
ユンファさんが俺のセリフにきょとんとする。彼の薄紫色の瞳は『どういう…? 僕は彼の首が温かいと言ったのに、なぜそれで外が寒かったから、になったんだ…?』と不思議がっている――それはにわかに動揺してしまった俺の言葉足らずのせいである。
「あっいやほら、あ、貴方の指が冷たかったものですから、…外が寒かったからかなと…それで、俺の首の体温が温かく感じられたのかと思って…」
「……あぁ、なるほど」とユンファさんは俺の補足に納得し、そ…と俺の首もとから両手を引くと、俺の顔を澄明な薄紫色の瞳でながめながら美しい上品な微笑みをたたえる。
「…それもあるんですが、最近僕、実はちょっと冷え症気味で……冷たかったですよね、すみません…。最近、何だか指先が凄く冷えてしまって……」
とユンファさんは色っぽく目を伏せながら、自分の手の甲をこすりこすり言うのだ。――誘われている。
つまり……俺はここで「そうなの、じゃあ俺が温めてもいい?」と応えるのがベターだということだ。
例えばここでユンファさんの手を取り、冷えてしまっているその手を俺があたため、そのまま…――あるいは彼がいうその「温める」の定義とは、ユ ン フ ァ さ ん の 手 に 留 ま ら な い のかもわからない…――ときめいてしまうね、何と素敵なロマンチックなシチュエーションだ、………とは思うが、残念ながら俺の手は今かなり手汗がすごいことになってしまっているので、申し訳ない。
――この甘い言葉だけでお許しください。
「そんなとんでもない、むしろお美しい貴方が俺で温まってくださるのならば、大変光栄なくらいです…」
と俺のこのセリフだが、ユンファさんは何も言わずにふ…と目を細めた綺麗な微笑で躱 したあと、「それにしても…」と話を逸らす。
「…今夜も外は凄く寒いですよね。昼間は暖かかったのに……最近はまだ、夜になると凄く冷え込みますから…――カナエ君は、きちんと暖かい格好をして来ましたか…?」
とユンファさんが俺の目をじっと見つめながら、その美しい微笑をやや傾ける。――その人のやや暗くなった群青色の瞳のなかに、赤紫の情欲の欠片がチラチラと瞬いている。……要するにいよいよ俺は初恋の美男子を抱、……。
「っええもちろん、ははは…いやーもう寒くて寒くて、コートもマフラーも耳当ても手袋も何もかも家にあるものは全部着込んできました、…」
――嘘だ。
俺はこの黒ずくめスウェットセットアップの上に黒いチェスターコート一枚で此処まで来た。
……あきらかに緊張のあまり平常心を保てていない俺の前、一方のユンファさんは余裕のあるセクシーな美青年の微笑で俺をながめている。
「ふふ…そんなにですか…? 寒がりなんですか」
「えっええ、まあ、…寒がりなほうかもわからないですが……」
――嘘だ。
寒がりどころか俺はむしろ暑がりなほうである(筋肉量のせいか基礎体温からして普通より少し高いのだ)。
「へぇそうなんだ…」とユンファさんが笑みを深め、その切れ長の目を柔らかく細める。
「じゃあ同じですね。実は僕も寒がりなんです」
「…へえ……」
ユンファさんは寒がりか……寒がり、ね。
なるほど――俺は暑がりの基礎体温高め、そして貴方は寒がりさん――冬場はぜひベッドの中、裸で抱き締めてあたためて差し上げたい…など、ありとあらゆる夢のある彼の冷たい体のあたため方が無限に思い付くね。…やはり足りないものを補い合う陰陽、運命、俺とユンファさんが二人そろってやっと一つ……。
「…でも…」とユンファさんが色っぽく目を伏せ――ぷつ、ぷつ、とその白いカッターシャツのボタンを一つ一つ開けてゆく。こう言いながら。
「この部屋は暖かいから…少し、暑くなってきたかもしれません……」
「……、…、…」
俺は仮面の下で口をあんぐり開けながら、その綺麗な胸元につい目が釘付けである。――もとより立て襟のそのカッターシャツは、ユンファさんの生白い胸板の上部までV型に覗いていたわけだが…――そのV下から外されてゆくボタンに、みるみるその谷は深くなってゆく。――ユンファさんの薄い胸筋のほの白い影、みぞおち、縦割れのひらたい硬そうなお腹、丸いおへそ……。
「…あぁ゛……」
呻 いたゾンビのような変な声が出てしまった。
これは大変、…鼻の粘膜までもが脈打つほど俺の心臓が力強く脈打ち、全身の血管という血管が脈打っているかのような凄まじい興奮の感覚がする。
「……、…そんなにじっと見られると…――」
と斜に顎を引いているユンファさんが嬌羞 の表情を浮かべ、ちらり…その艶めかしい群青色の瞳だけを斜め上――俺のほうに向ける。
「…恥ずかしいし、緊張してしまうけど…――ムラムラしちゃいます…。へへ……」
「んだぁ゛………」
んだあ…――とは何か?
……さあ…? 残念ながら俺にもまるでわからない。そのはにかんだ笑顔、100点満点である。
ただ、なぜか俺のよくわからないうめき声が功を奏した。――ユンファさんがははは、と目を細めて、心からそれを面白がって笑ってくれたのである。
「…はは…ふふふ、――緊張、しちゃいますか…?」
「……そ……」
そうですね――と、俺は正直に答えようとした。
「………うでもない、かな……」
しかし俺のプライド――もっといえば、好きな人を前にした男のプライドがそれを(無駄に)咎めた。
……なおユンファさんはプロであった。あきらかに彼は俺の緊張を見透かしているが、優しい笑顔で俺を見ながらこう言ってくれる。
「…凄いな、流石ですね。…僕は…緊張しています」
彼は「ほら、こんなに…」と俺の震えて赤らんだ片手を取り、そして自分の左胸へとおもむろに、この手を優しく導いた。――ただし俺の手は今ユンファさんのしっとりと手に吸いついてくるような、なめらかな、あたたかいその左胸の肌に触れている。彼のまだやわらかい乳首についた、リングのニップルピアスも生あたたかい。
……カッターシャツのポリエステルの薄い布の上から、ユンファさんの手のひらが俺のその手の甲に重なる。と、と、と、と、と、…確かに速くなっているユンファさんの心音が、彼のしっとりとした胸板を通じて俺の手のひらに伝わってくる。
まるでユンファさんの心臓のあたりにキツツキでもいて、トントントントンと中からその胸板をつついているかのような愛らしい鼓動である。
「……どうでしょう…伝わっていますか…?」
「……つっ………、…、…、…」
伝わっているというより――伝わり過ぎている。
伝わり、過ぎている。これは大変伝わり過ぎている。……つまり俺が今触れているこのしっとりとしたあたたかい肌、この胸、乳首は――俺が十一年間もの間つとに触れたくて触れたくてたまらなかった、宿望 の――俺の初恋の美男子、月下 ・夜伽 ・曇華 のおっp…………。
「…カナエ君の手、あたたかくて気持ちいいな…」
「……、…、…、…、…、…」
俺も気持ちいい…――想像 していた何千倍きもちいいはだ――頭がまっしろ……。
おそらく畏 れ多くも神様に触れたせいである。
なぜかこの素晴らしすぎる男神の肉体に触れたなり俺の(下)心が洗われて浄化され、その結果逆に煩悩 がなくなってしまった俺は、今なんと「無」である。これぞ真理を得た悟りというやつですね……輪廻転生からの解脱手前の境地である。
……いやということは彼、仏さまだったのか……?
まあ別に神仏習合ということにしておけばよいか……?
しかし――煩悩のない人生など味気ない。
「――っぃやめてください、俺には煩悩が必要なのです…!」
「……は…? ぼ、煩悩…?」
俺は怪訝な顔をした月の男神のその清廉 なエネルギーに当てられ、泣訴 っぽくこう言いながらその胸もとから手を引いてゆく。
「どうかお願い、俺から煩悩を奪っていかないでください、…」
「……ぁ…っ!♡」
とユンファさんがビクッとし、色っぽく眉をひそめる。……手を抜いてゆくさなかに、うっかり俺の爪先がユンファさんの乳首の先端を引っかいてしまったのである。
「……、…」
斜に顔を伏せているユンファさんが、伏し目がちにじわ…と白い頬を薄桃色に染めてゆく。――『声、出ちゃった…』と彼は、どうやら自分がなまめかしい小声を出してしまったことに動揺している。
……しかし俺は俺でかなり動揺している。本当にわざとしたことではなかったのだ。
「……ごめん、なさい、…今のはう、うっかりだったのです、…その、間違ってもセクハラでは……!」
「え…セ、クハラ…?」
ユンファさんが目を丸くして俺に顔を向けた。
そして彼は、はたと俺と目が合うなり――あはは、と破顔して思いきり笑った。
瞳がほとんど見えなくなるほど細まった切れ長の目や、ぐっと口角があがって横に引き伸ばされたその桃色の唇や、その半月型の唇のなかで輝いている白い端正な歯列、こと尖った犬歯がなんとも愛らしい笑顔である。
「セクハラって、何ですかそれ? いやそんなわけないでしょう、このシチュエーションでセクハラだとか訴える人なんか居ませんよ、…ははは…っ」
肩を揺らして笑っているユンファさんが、自分の下まぶたを人差し指の背でぬぐう。
「……、そう、だね…はは……」
俺は仮面の下でつられて笑顔を浮かべている。
……今の俺には自分の馬鹿さなど、自分の決まり悪さなどどうでもよかった。――凍りついた、まるで人形のような綺麗すぎる顔をしてばかりの今のユンファさんが、……こんなに楽しそうに笑っている。
……ユンファさんが人らしく笑ってくれた。情けないが、俺の目には涙が滲んでいる。
「…はは、笑ってくれて嬉しいな…」
「……、……」
ユンファさんがはたと少し驚いた顔をする。彼は随分ひさしぶりに、自分が心から面白がって笑っていたことに気が付いたのである。
……やがて彼は少し「笑いすぎたか」と反省した。
「すみません、可笑 しくてつい……」
「…どうか謝らないで。俺はむしろもっと貴方に笑ってほしいくらいなのです」
「……ふふ……」
しかし俺のこのセリフは――ユンファさんのふっという困り笑顔だけで済まされてしまった。
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