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「…………」
ところで俺はある懸念をしている。
……ベッドの縁 に腰かけ、大きくひらいた両ひざの上に両ひじをのせてうなだれている俺は、鼻の穴両方に丸めたティシューを詰め込んだまま…――ふと思いいたったある懸念に恐怖をおぼえている。
――ともすれば俺は今、ユンファさんに……。
「……俺、童貞でありませんからね…。くれぐれもそのような勘違いはなさいませんよう……」
童貞――。
……俺という男は、その人の神々しい肉体を目にしたというただそれだけで鼻血を垂らし、それも悪いことに、彼のそのまばゆいほど白い胸板に真紅の血の雫をいくつか落としてしまった。――今になれば後悔しているが、あのときは俺の顔を見ないようにと目をつむっていたユンファさんであったので、彼の胸にしたたり落ちるまえに俺がその鼻血をぬぐってさえいれば、彼は俺が鼻血を出したということに気がつかないままだったことだろう。
そしてその場合ならばあのまま、何事もなかったかのようにスムーズに、かつスマートに事が進んでいったに違いない……。
ところが――俺自身が「それは俺の鼻血です」と明言してしまったにせよ――俺はすっかりユンファさんに、俺が鼻血を出したということに気が付かれてしまった。
俺は今になって後悔しているのだった。
そもそもその前にも俺の愛する美男子が、俺を官能的な褥 へ導いてゆきたいその意図を察していた俺は、その時点であのような目も当てられないほどの狼狽をしていた――その上であ れ である。
ではいざその俺の愛する美男子を抱こう、というその折に鼻血を垂らしてしまった俺という男は、あえてユンファさんの目線に立って見てみたとき、ともすれば初めて誰かの肌を見、その不慣れない ざ の緊張と、い ざ の興奮のあまりに鼻血を出した――童貞。
違う、言い訳がしたくてたまらない……俺は間違っても先ほどは、我が月の男神のその人ならぬほどに美しい肉体に驚嘆したあまり、その奇蹟を肉眼で見た興奮から鼻血を出してしまったのである。
俺は間違っても童貞ではない。むしろ俺の経験人数は世の男よりも多いほうだ。
しかしこの鼻から垂れたその鼻血のせいで、ともすれば俺はユンファさんに――悪いことに、童貞だとでも勘違いをされてしまったのではないか……?
「…え、童貞…?」
と俺の背後のベッドのうえ、不思議そうにユンファさんが聞きかえす。彼は今おそらくベッドにすわり、俺の鼻血がついた自分の胸をティシューでぬぐっていた(カサカサというその音がしていた)。
「……? 童貞…いえ、別にそんな勘違いは……」
「まあ経験人数はそうですね…、ざっと百人以上は抱いてきましたでしょうか…?」
……こう言う俺は今冷や汗をかいている。
まさかこの俺が、こうした言い訳じみた情けない予防線を張る羽目になろうとはね…――実際その経験人数百人以上というのは俺の虚勢ではない。事実である、が――俺は「童貞ではありません」などという予防線を生まれて初めて張った。
悔しくなってきた。これは自分でも思ってもみないことであった。――というのも俺は、生まれてこの方二十四年あまり、まず人から童貞と思われたためしがない。すると当然、これまではそのような予防線とて張る必要もなかったのである。
「…百人…あぁ……、…それは、…凄いですね……」
「……、…」
しまった。彼のその「あぁ……」は、「でも…」につながるニュアンスが聞き取れるものである。
……これは、かえって俺の予防線が悪い結果を生み出そうとしているかもわからない。――ここはこの目をつかってその真意を確かめなければ、…しかし俺は今素顔である。
もちろん俺としてはユンファさんに素顔を見られることとて何らやぶさかではないが、しかしそれは残念ながら俺だけのことである。…彼はまだ俺の顔を見るという覚悟はない。――すなわちこれでふり返ったところで、きっと彼には目をつむられてしまう。
すると結局は、俺はこの目を使ってユンファさんの真意を確かめることができない。
――やはり今の俺には仮面が必要だ。
「…すみません、仮面を取っていただけますか」
……というのも、さすがにこの件は曖昧でもいいか、とは男として思えないからだ。
俺は先ほど仮面を枕もとに置いていた。
――ユンファさんはすぐに「あ、はい」と快 くこたえると、後ろから俺の片ももの上にそっと仮面を置いてくれた。…俺はすぐさまそれを顔にかぶせる(ちなみに鼻のティシューは床に捨てた、多分もう大丈夫だろう)。
そして俺は腰をひねり、ベッドに乗りあがりながらユンファさんに振り返る。――あっヤバい、駄目、
「あの、そんなことより大丈夫ですか…? もしかして、体調がお悪いんじゃ……」
「……、…」
……俺はもう早速目をつむっていた。
――セクシーすぎる……。
今俺のことをしとやかな心配げな表情で見ていたユンファさんは、ベッドの枕元ちかくに座っていた。
膝を曲げた両脚を同じ方向に倒している、いわゆる横座りで片手をベッドに着き、そして黒いスラックスを穿いた腿の上にある彼のもう片手は丸まったティシューを握っていた。――また彼の背後にはまるでその人の後光のように、ベッドヘッドの棚のさらに上、たわんだ八の字にかけられた真紅のカーテンのあいだ、上から照度のしぼられた暖色の照明で照らされている玉ねぎ型の金メッキの、黄金の太陽と月の彫刻が輝いていた。
そしてもちろん彼の着る白いカッターシャツの前は全解放されたまま、彼の白皙の引き締まった上半身とその銀のニップルピアスがついた薄桃色の乳首はなんら隠されることもなく、その白い布は彼の上半身の側面ばかりしか隠していない状態であった。なおその白い胸板にはもう俺の(鼻)血は残っていなかった。
――それも座っていてなお、なんら贅肉のないそのひらたい腹筋の形あきらかなお腹、…ユ ン フ ァ フ ェ チ のうえにゲイの俺には全く目の毒である。
「…いえ体調が悪いわけではないのです…。貴方のお体があまりにも美しく官能的すぎたせいで、俺は鼻血を出してしまっただけなのです…――そう…あくまでも童貞だから、ということではなく……」
いけないいけない――今こそ見ないでどうする――ふと目を開けた俺は、ユンファさんのその瞳を凝視する。…それすなわち彼の肉体を見ないように(ティシューという栓もない今、これで見れば更なる鼻血まみれの末路が見えているため)という自分への強迫がゆえに。
この薄暗い場所ではいささか赤味が増したユンファさんの瞳は、いまくすんだ薄桃色と見える。
ユンファさんは俺の弁明をきょとんとした顔で聞いていたが、「あぁ…」と優しい笑みを浮かべる。
「…えっと…僕は、そもそもお客様が未経験の方なのかどうかというのは、正直余り気にしたことがないんです。――ですが…とはいっても僕は、貴方が未経験の方だとは少しも思っていませんよ」
「……、…、…」
あ、終わった…………。
ユンファさんのやさしげな薄桃の瞳がこう言っている。――『いや、僕は彼のこの弁解を聞くまで別に、今までは本当に、彼が童貞かどうかというのは考えてもいなかったし…まして、あれだけロマンチックで洗練された立ち振る舞いをしていた彼が、まさか童貞であるはずがない』――彼はそのやさしげな綺麗な微笑をわずかに傾け、このように言う。
「…はは、ただ…正直、その…童貞であることや、未経験であることは……少なくとも僕は、決して恥ずかしいことではないと思っています。だから僕は気にしたことがなかったんです。」
というユンファさんのこの声には明らかに俺を慰めよう、励まそうという優しさが含まれている。
彼は内心こう思っているのだ。
――『まさか彼のようにスマートで完璧な男性が、童貞であるはずがない……と 僕 は 思 っ て は い た が 、しかしよくよく考えてみれば、…僕の裸(それも上半身だけ)を見て鼻血を出すだとか、それこそ始めからここまで、時折彼がしていたあの激しい動揺だとかは、むしろ「彼が童貞だったから」といったほうが説明がつく。何か腑に落ちたようだ。
それこそ僕が綺麗すぎてだとか美しすぎてだとか、彼が言っているそういうセリフよりも、むしろ慣れていないからこそ(初めてだからこそ)興奮や緊張をしてしまって、ああしてしどもどしてしまったり、鼻血を出してしまった……と考えるほうが、よっぽど信ぴょう性がある。
……ましてやこのシチュエーションでの、「自分は童貞ではないんです」というような弁解のセリフは、むしろ童貞でもなければ言わないことだろう。』
「……、…、…」
――逆に「童貞じゃないんです」などと俺が予防線を張ってしまったことが不幸の呼び水となり、なんと俺はどうやらユンファさんに『あぁ彼、童貞なんだな』と勘違いをされてしまったようである。
……いやしかし、確かに思えば、そのセリフを言うのは確かに童貞くらいのものだね…――そうした見え透いた虚勢を張ってでも、自分が童貞であることを隠したがる男は多い――。
ただしユンファさんは今、たとえば「三十にもなって童貞? キモ(笑) ていうか言い訳して虚勢張るとかダサ(笑)」というような侮 りや嘲笑の感情は微塵も抱えていない。むしろ今彼のうちを占めている感情のほとんどは、「恥ずかしい気持ちはわかりますよ、だが未経験というのは恥ずかしいことではないですから、大丈夫ですからね」という俺への慰めや励ましといった清いやさしい感情ばかりである。
――それはユンファさんが俺と同じ男であるからか、あるいは風俗店のキャストであると童貞を相手取る機会もしばしばあるからなのか、そのあたりは何ともいえないが。
つまりユンファさんは今、俺の男としての誇りを傷つけないようにと「(本当は童貞かもと思ってはいるが)僕は貴方のことを童貞だとは少しも思っていません」と、いわば「(童貞にとっては感涙するほど有り難い)優しい嘘」をついてくれたわけである。
いやしかし、…違う違う違う違う……。
勘違いをしないでくださいユンファさん、俺は本当に、断じて童貞ではない…――これでも俺は本当に百人以上のあらゆる属性別の人を抱いてきた、たしかにその「百人以上」というのは一般からして現実味のない数に聞こえてしまったかもしれないが嘘ではない、俺は本当に童貞ではないどころかプレイボーイなほうである――ただ十一年間想いつづけてきた初恋の美男子、それもこれほど神々しい美しい月の男神の前で舞い上がらない男、もはや人間など居ない。
……この百戦錬磨の俺でもさすがに、惚れ込んだ美しい貴方という神の前でだけはどうしても、初心 なチェリー・ボーイとなってしまうというだけのことなのだ。
「あの俺、本当に童貞ではないのです…――その、むしろ実は俺、色 男 の 星 を持って生まれていて……」
――本当だ。
俺は以前友人の占い師に「あなた本当に顔も端整でスタイルも良くてねぇ、本当につくづく色男だけれど、実は持って生まれた星にも“桃花殺 ”があるのよ」と言われたことがある――。
ちなみにこれは四柱推命 という占いの話である。
そしてその「桃花殺」というのは何かというと、まあものすごくそれを平易に言うならば――「爆モテイケメン色男の星」といったところか。
ただその桃花殺は一応「凶星」とはされているが(四柱推命における「殺」はすなわち「凶」を意味する)、…というのもその桃花殺、「桃の花の香りで虫をみだりに引き寄せる」という意味を持っている。
つまり読んで字のごとく、桃花の甘い香りのような魅力で、有象無象の人々をふくめたあらゆる人を無差別的に惹きつける星――さらにいってこの桃花殺、もって生まれたなら他人の機微にも敏感になるのだという。
それをもっといえば、相手が「言ってほしいこと、してほしいこと」や、相手が「魅力的だと思う立ち振る舞い、相手の弱点 」が直感的にわかっているともいえるので――この「凶星」を持って生まれた俺はなるほど、たしかに相手の求めている言動を作 意 的 に 取ることがたやすい。
まあ要するにこの桃花殺という星は、俺みずから動かずとも放たれる俺の男の色気で人々を惹きつけ、多くの人々を寄せあつめたその後にはそう…――俺の悪い魅力で人を縛りつけて離れがたくする、という、我ながら納得な魔性の魅力を俺に与えている星だということである。
なお桃花殺を生まれ星にもつ者は、潜在意識か顕在意識かは人それぞれながら、自分のもっている魅力をしっかりと自覚できている者が多いとされる(つまり自分の魅力を遺憾なく発揮する方法を知っており、なかば意図的に、それをそのまま周囲にアピールしている者が多いということである)。
ちなみに(勝手に)ユンファさんの生まれ星も占ってもらったところ、なんと彼も彼で「紅艶殺 」という「モテモテ美男子星」を持っていた。
まあネーミング的には、俺の持つ桃花殺のほうが桃フレーバーの彼に何となしマッチしているように思えるところだが、この紅艶殺は「自然と放たれる色気で、無自覚に善人悪人問わず多くの人を惹き付けてしまう星」とのことである。
……と聞くと俺のもつ桃花殺に似ているようだが、ただし紅艶殺の桃花殺と違うところはそう…自 分 の た だ な ら ぬ 魅 力 を 自 覚 し て い な い ことが多いところだ。
そして桃花殺とは違い、紅艶殺がその魅力を放つや人のツボを突くやにおいては意図的ではないところである。――いわば桃花殺の優しさにはしばしば相手に好かれたいという打算があるが、紅艶殺の優しさには純然な親切心しかない、といったところだろうか(もちろん人にはよるだろうが)。
そして、紅艶殺をもって生まれた者はチャーミングで人懐っこい、何ともいえぬ色気をもってはいるが決して気取ってはいない、いわば恋愛というところに留まらない範囲で誰しもに愛される魅力があることが多い。それもあまりにも周りから愛されすぎるあまりに、他者からの好意に鈍感になることもある、とされている……なるほど、ど う り で ね …。
しかし俺のように自分のもちうる色気や魅力を熟知し、遺憾なくその魔性の魅力を発揮し、そしてその魅力に寄せあつめられた人々を作意的に魅了してほくそ笑んでいる桃花殺と――はたまたユンファさんのように、無自覚にはなたれる色気や魅力で人を引きよせ、そして無自覚に人のツボを突き、自分が気づかぬうちに多くの人に恋心をいだかれていながらも頭に「?」をうかべている紅艶殺、……いや人によっても違うだろうからあえていうなれば俺とユンファ、果たしてどちらのほうがタチの悪い男なのでしょうね……?
なおその「殺」のとおり、その紅艶殺においても「凶星」とされている。
……なぜ「凶星」かといえば、桃花殺においてもそうであるが、もちろん色恋のトラブルに発展しやすいためである。なるほどなるほど、ど う り で ……。
それにしても占いとは意外にも侮れないもので、この俺がモテモテとは確かにその通りである。
俺は身長186センチ股下90センチ九頭身の上に顔も甘ければ声も甘い、しかも頭脳明晰の才気煥発 な天才…まず俺がモッテモテCoolでSmartな色男であることには間違いがない。
――いやこれは何も俺が粋がっているわけではないのだ、事実俺はどこに行っても声をかけられるくらいにはモッテモテなのである。
「…その星のせいか…逆ナンとかされることもまあその、多いですし……?」
本当である。
俺は本当に立っているだけで女にも男にも声をかけられ、しばしば連絡先を聞かれ、お茶に誘われ、そしてホテルに誘われる(実はそれが宗教の勧誘であることもままあるが)。
「…あぁ色男の星かぁ…わかりますよ。そりゃあそうですよ、だって股下90センチもあるんですし」
とユンファさんが微笑して納得だとうんうん頷く。
――『それはわかる。そうだよな…色男の星か、ちょっと羨ましいくらいだが…』いやそれは貴方も持ってんだよ(似たような星だけれど)。
「ということで…俺は本当に童貞ではなく、ただ単に貴方があまりにもお美しかったために鼻血を……」
「それは……あの、ですが、正直なかなか信じ難 いことなんですが……」
と苦々しく笑うユンファさんを、
「……っ!」
俺は飛びかかるようにして押し倒した。「うぁ、…」と俺に力強く組みしかれた彼は、目を丸くして俺を見上げてくる。
「…では是非…俺が童貞か否かの判断は、どうぞ貴方のそのお体でご判断ください…」
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