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                 俺は先ほどベッドヘッドの棚のさらに奥、上からのスポットライトに照らされている月と太陽の彫刻のサイド、八の字にたわんでかけられていた真紅の遮光カーテンも閉ざした。暗いほうがよく眠れるからである。  それによっていよいよこの広大なベッドのなかは――天蓋の遮光カーテンがぴっちりと閉め切られたこのベッドのなかは――真っ暗な空間となった。  ……とはいえ、ちょうど俺たちの肩あたりをぼんやりと(だいだい)の蜜色の光で照らすように、天蓋裏にはその甘い月明かりをはなつ月の模型が半球形に埋め込まれており、またその天蓋裏やカーテンの内側には細やかな星々がゆっくりと回りながら輝いている。…その星々はもちろん棚の上に置かれているプラネタリウムが投影しているものである。    そのまるで神秘的な宇宙空間のような暗闇のなか、俺は肘枕をしたままに、傍らで仰向けで眠っているユンファさんの黒髪をゆっくりと撫でながら、その人の安らかな美しい寝顔を眺めている。   「……ふふ……、……」    ちなみにユンファさんのその寝顔は、蜜月の月光のみならず、俺の二つの水色の瞳がはなつ青白い光にも薄ぼんやりと照らされている。――まるで自発的に発光しているかのような俺のこの目の光は、人間はアルファ属のみが眼底にもつ「タペタム」という器官によるものである。  暗闇のなかにも存在するわずかな光を眼底のタペタムで反射させ、瞳孔からその反射した光を放っているので、結果として目が光るのである。    このタペタムがあると暗闇のなかでも物体が鮮明に見えるのだ。  なおタペタムの原理としてはまず通常どおり網膜で光を受け、それを眼底まで通過させる。  そして眼底にあるタペタムでその光を反射させ、一度通過した網膜に光をもどす(はね返す)ことによって(自発的に目を光らせることによって)、暗闇のなかでも物体を鮮明に捉えることが可能となる、というわけである。――ちなみに、たとえば犬や狼や猫など夜行性動物の目が、暗闇のなかでギラリと光るのはこのタペタムのせいである。    さて――。   「……ユンファさんは…本当に綺麗だね…、……」    ユンファさんの寝顔はあいかわらず美しい――。  ……しかし俺の瞳の青白い光が薄ぼんやりとその顔に映っているせいもあるだろうが、十一年前のあの日の彼と比べると、今の彼の顔色はとても健康的とはいえないほど青ざめている。    真っ白とさえいって過言ではない。  青味がかった恐ろしくなるほどに血の気のないその白皙(はくせき)の顔、また、あの日よりも痩せてしまっているその小さい生白い細面(ほそおもて)は、骨の凹凸(おうとつ)や筋肉の筋が見てとれるほど、ほとんど脂肪がないせいであの日よりも彫りが深くなっている。  しかしあの日と変わらず、やはり誰が見てもユンファさんは美貌の男である。    俺はあの日よりも伸びたユンファさんの前髪、彼のつった目尻から白い頬に少しかかっているその(からす)の濡れ羽色の髪を指先でつまみ、横に避ける。  瀟洒(しょうしゃ)な印象の高い鼻に、彼の凛々しい黒い秀眉(しゅうび)はいま力が抜けていても、その艶のある深い黒さから明敏(めいびん)な洗練された印象が保たれたままである。――また、目玉のかたちが浮くほどに痩せた切れ長のまぶたは今完全に閉ざされ、そのまぶたの(ふち)に密生した黒い長いまつ毛はあの日と変わらず、今もなお伏せられた黒い(おうぎ)のようで、その黒には艶々としたかすかな上品な艶が宿っている。    さらに目を下げれば……顔色ばかりか、あの日には血をその肉厚な唇に塗ったのかというほど赤々としていた彼の唇は今、青味がかった桃色とその赤味が後退している。――なおその形のよい肉厚な唇は今、ゆるく力なく合わせられている。  ……そしてすっきりとしたシャープな顎の下、やや逸れ気味の美しい流れるような真っ白な首筋、…しかしその首には、あの日にはなかった赤い革の肉厚な首輪――忌々しい金の南京錠付きの首輪――が巻かれている。   「……、…」    絶対に外さなければね……とはいえ、今は…――俺はあえて今はその原色に近い下劣な赤から目を上げ、ユンファさんの伏せられている黒い長いまつ毛に目をやった。  ……胸の中で焦げつくような怒りを感じたからである。俺は今その汚らしい赤を正視しつづけたなら、今にも癇癪を起こしてしまいそうだった。    ――ユンファさんの眉根が険しく寄る。   「……ん…、…――ぁ…、…ぁ…、ぁ……」   「……、…」    苦しげな喘ぎ声をもらしている彼の目は開いていない。彼は目を閉ざしたまま更にぎゅっと眉をひそめる。   「…うぅ…ぁ…ごめ…なさ……ごめ…、ごしゅじ…さま…」   「……、ユンファさん」    ユンファさんは今どうやら悪夢を見ている。  恐らくはあのケグリに犯されている夢だろう。  ――それこそ俺は朝まで彼が眠っていても構わない、むしろ彼にはこの機にたっぷり眠っておいてほしいとまで考えていた。……しかし、せっかく久しぶりにゆっくりと彼を眠らせてあげられるこの機会に、俺としては非常に残念なのだが、今は起こしてあげたほうがよいかもしれない。   「ぅぅぅ…おゆるし…くださ……」   「ユンファさん、ユンファさん…」    俺はユンファさんの肩をつかみ何度か揺さぶる。   「ユンファさん、それは夢です、ユンファさん…」    そうして俺が声をかけると――夢を見ているときの人の眠りはもとより浅いため、彼はパッとその両目を開けた。…は、とわずかな吐息を薄くあけた唇からもらし、彼は恐る恐る目を上げて俺の目を見上げる。   「……ぁ…、……」   「…夢だよ…。大丈夫…今此処に貴方のご主人様は居ない。――今のは全部、貴方が見ていた悪夢だ…」    と俺は暗闇の中でユンファさんに微笑みかけた。  彼の黒紫の瞳の表面に、俺の水色の瞳の青白い光が極小さい欠片となって映っている。――ユンファさんは、今しがたまで見ていた悪夢のせいでかすかに怯えたような表情をしてはいるが、その寝ぼけ眼でぼんやりと俺の発光している瞳に見入っている。  ――『綺麗……目…? 目が…光って、る……?』と彼の黒紫いろの瞳が呟く。   「………ゆめ…、――あっ…!」    しかしハッとしたユンファさんは早急にガバリと飛び起き、肘枕をしている俺のほう――斜め下――へ、慌てた顔を向けてくる。   「あっあのっごめんなさい、僕、本当に眠って…!」   「……はは…俺は貴方に、眠っていいよと言ったでしょう…? それも朝までぐっすりどうぞ、とね…。ですから、これで貴方が謝られるようなことは何もありませんよ…」    俺は言いながらむくりとおもむろに上体を起こし、隣のユンファさんに仮面の下で微笑みかける。   「今に関しても…ユンファさんが悪夢を見られているようだったので、起こしただけですしね…。さあどうぞ、寝直して……?」    と俺がユンファさんの肩を押して寝かしなおそうとすると、   「…ぃ、いえ、…そ、そういうわけには……」    とユンファさんが背筋を硬くして抵抗しつつ、俺の目を見てふるふるとその慌てた顔を横に振る。   「…どうぞ遠慮なさらず…、……」    ところで…なるほど。  俺の発光している両目をじっと見てくるユンファさんの黒紫の瞳は、この暗闇のなか、およそ今は俺の発光しているこの両目しか見えていないようだ(アルファ属の血が濃いとはいえ、オメガ属として生まれた以上はタペタムを持たない彼ではあくまでも当然だが)。   「あのえっ遠慮、とかではなくて、…」   「……そう…。じゃあまた眠くなられましたら、どうぞ貴方のお好きなときに眠って…。……」    俺は言いながら顔を伏せ、今は邪魔くさいこの仮面を外そうと、後ろ頭にかかっているゴムを外してゆく。   「あ…あの、そんなことより、僕、ぁ…貴方と、…」   「…ふっ…セックスをしなければ、ならないと…?」    俺は外したばかりの仮面にそう、ゆっくりとしたささやき声を吐きかける。べき、ねば、か――だんだん彼のその「(ユエ)(かせ)」も(うと)ましくなってきたな。   「そ…そう、というか…、ぁ…あの、で、でも…あ…ぁ……」    するとユンファさんはまた混乱しはじめ、何とも言えないでしどもどしている。俺はつーと瞳を垂れたまなじりと目頭に寄せ、彼の黒紫の瞳を見やる。  ――彼は仕事として俺とセックスをしなければならない、と考えている。  しかし彼はすぐに、先ほど「性奴隷のユンファ」としての醜態を俺に晒した手前、ああして俺を手ひどく裏切ったばかりか、もう自分のような醜く浅ましい薄汚い性奴隷を、そしてそのような性奴隷の体を求めるような人はいない、と思い当たった。  そもそも俺にはすっかり幻滅されていることだろうし、まさか俺が自分にそそられてくれるはずもなく、しかし俺とのセックスは決して安くない料金を俺に支払われている以上しなければならないが、かといって、もう俺のほうが自分なんかには触れたくないことだろう。――と、彼はどうも勘違いをしている。   「……ふふ…そりゃあ俺だって、今すぐにでもユンファさんのことは抱きたいですけれど…――しかし今は仕事ですとか、()()()()()()はどうぞお忘れください。…俺たちは今、“本当の恋人同士”なのですから……」   「……、あ…あの…、でも僕、あんなに最低な…」    と言うユンファさんは、自分に()()()()()をされてもなお、俺が今夜自分と「本当の恋人同士」でいつづけようとしていることに、なぜあそこまでのことをされておいて俺はそう思えるのか、といぶかしがっている。   「じゃあ愛を()って(ゆる)します。貴方の全てをね」    しかしあんなのはユンファさんの罪ではない。  あれは彼がケグリにやらされたことである。要するにあれは「ケグリの罪」だ。――ユンファさんは何も悪くないのだから、ケグリに対してならばまだしも(絶対に赦さないけれど)、本当なら俺が彼を「赦す」も何もない。  ……しかしこれでまた俺が「貴方は何も悪くない」だとか、そういった彼の無辜の真実を彼に伝えてしまえば、彼はまたパニックになってしまうかもしれない。――それだから俺は「赦す」と言ったのである。   「……、…え……」    しかしユンファさんがにわかには信じがたいと聞き返す。――俺はおもむろに隣の彼のほうへ顔を向けた。そしてその人のいぶかしがっている黒紫の瞳を見据える。   「…まあ始めから俺は怒ってはいませんでしたけれどね…。あの件でもし貴方が俺に赦されたいとお考えならば、…いえ、もし貴方が決して自分は赦されないとお考えであったとしても…俺は幾らでも貴方に“赦し”を与えます。――それは…俺が貴方を、心から愛しているからです。」   「……、…、…」    ユンファさんは瞳を小刻みに揺らして俺の目を見ている。彼は「どうして…」と儚い小さな声でいう。   「貴方は何故…何故、そんなにお優しいんですか…」    彼の内面の動揺が反映されて小刻みに揺れている黒紫の瞳に、『きっと彼は』と彼のたどたどしい思考が映っている。――『誰に対しても、こうして優しいんだろうが…彼はもともと…愛して…? 心から…有り得ない…いや、彼はもともと…根っからのお人好しというほど、優しい人なんだろうが…それにしても彼は…どうしてこんな僕なんかを、赦せるのだろう……』   「…俺は特別優しい男というわけではないのです。…むしろ…俺は割とエゴイストなほうですよ。」    俺は決して優しい男というわけではない。  誰に対しても優しい? とんでもないことである。  俺にはどう見られようと、どう思われようと構わない、と見限る範疇の人間のほうがよっぽど多い。その範疇の人間が不幸になろうが幸福になろうが俺には関係ない。――俺が愛する、愛すべき範疇に囲われている人々が幸福であればよい。  また俺が憎む、憎むべき者どもが不幸になればそれでよい。――その他はどうでもよい。    そしてその愛の範疇も彼、月下(ツキシタ)夜伽(ヤガキ)曇華(ユンファ)はその真ん中にいる。――俺がなぜユンファさんに対して優しいか?    俺は愛するユンファさんを幸せにしたいというのみならず、彼に愛を伝えたい、彼に好かれたい、愛されたい、だから彼に優しくしたい。理由はそれだけだ。    俺の優しさなど所詮エゴイスティックなものである。――神が無数の愛し子に注ぐ無償の愛、俺のそれの根源にあるものとは決してそのアガペーなどではない。…仮にアガペーだったとしても、俺は人類すべてに「貴方は愛されるべき存在」だと微笑んでいるわけではなく――むしろ憎い人間がいる俺はその全員が愛されるべき存在だなんぞとは少しも思えないので――、俺はユンファさんに対してのみそのように微笑んでいるだけである。  俺のこれはどちらかといえばエロス(性愛)に基づくものである。――よって俺は優しい男というよりか、俺の愛する美男子に「恋をしている男」、というほうがよっぽど正しかろう。   「…でも…幻滅…されなかったんですか…」    とユンファさんが虚ろな表情を浮かべつつも、不安そうな目色で言う。俺はこう即答する。   「いいえ、ちっとも。」   「でも…あんなに、あんなに醜い…」   「貴方はどうあってもお綺麗ですよ。ふふ…」    俺が優しく断言するように言うと、ユンファさんは虚ろな凍り付いた微笑――無表情――となり、ふと少し顎を引きながら目を伏せる。  ……それであっても彼の背は凛とまっすぐに伸びている。どうなろうとも芯の曲がらない彼のそのしゃんとした品の良い姿勢に、俺はあのツキシタ夫妻の愛の影を見て少し悲しくなった。   「…貴方は…」とうつむいたままのユンファさんが、か細い、しかし冷静な声で言う。   「…何故僕のような醜い性奴隷にまで…どうしてそこまで、優しくできるんですか……」   「……それは俺が貴方に、“本当の恋”をしているからです。」   「……、ごめんなさい」    彼は淡々とした声で謝った。  それは俺の愛を拒むためのものではない。  その人の静かな無表情の片頬に、つー…と涙がゆっくりと伝ってゆく――彼は自分のその涙に謝ったのである。   「……ごめんなさい…」    その涙を隠そうと深くうつむいた彼の両目から、ぽた…ぽた…と涙が落ちてゆく先、その人の下半身にかかっている白い羽毛ぶとんに、小さな丸い薄灰のシミが次々と浮かんでゆく。  ……しかし彼はこの深い暗闇のなか、(彼らからすれば異質に発光しているとはいえ)俺の目が見えているとは確信していない。自分と目が合っているので見えているんじゃないか、とまでは思っているようだが、彼は仮にも自分のその涙が俺に見えていた場合のために謝ってきたのである。    もちろん涙を流したことを謝る必要などないが。  ……ユンファさんは自分の涙をまであのケグリに責められているのである。――俺が視聴した動画のいくつかにも、そのようなむごたらしい場面があった。    たとえばある動画では、ケグリの足下に土下座させられたその人が泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい、お許しください」とゆるしを乞うているさなか、ケグリは彼の後ろ頭を踏みつけて「まぁた泣くのかユンファ…、女ならばまだしも、お前が泣いてもちっとも可愛くない。女みたいに泣けば許されるとでも思ってるのか? すぐにメソメソ泣きおって、お前はやっぱり男じゃない、お前は本当に情けないメス奴隷だ」などと、彼の涙をその頭とともに踏みにじっていた。    そもそもとしてあの男の女に対する蔑視もまあかなり酷いものだが、男は泣いてはならない、男は泣くべきではない、というのが浸透していた過去に固陋(ころう)しているその価値観は、今の時代ではまったく批判されるべき男性蔑視である。――男が泣くことは恥ずかしいことだ。男は泣くべきではない。  男は頼られるべき存在であり、誰かに頼ってはならない。男は弱いところを持っていてはならないし、もちろん他者にその弱味を見せてはならない。  忌々しいことである。    ――人間には、男だ女だはもちろん何も関係なくみなに喜怒哀楽の感情がある。そして人間はみな弱いところをもっているものだ。  男が泣けば情けない。女が泣けば可愛こぶっている。人の涙には、そんな性別によって区分される他者からの印象など不必要である。    ――悲しみとは自然だ。人工物ではない。    たしかに人は悲しみを創り出すことはできるが、それは自然をスケッチしているのに他ならない。    隠されるべき自然がないように、隠されるべき悲しみというものも存在しない。  ――人がそれを勝手にジャッジして隠すだけだ。    悲しみとは自然なのである。  人はしばしば他人や自分の悲しみを、まるで芸術批評でもしているかのようにジャッジするものだが、本来悲しみとはジャッジされるべきものではない。  自然界に存在する動物は、そこにある木々や草花を醜いか美しいかとはジャッジしない。――悲しみを含めた感情というものは、消えるべきだとも、有るべきだともジャッジしなくてよい。    ――感情はただ生まれ、ただそこにあるだけだ。  そして悲しみもまたそこでただ生き、やがては癒えてただ死に、ただ消えゆくものだ。    かえって今のユンファさんが悲しまず、泣かないほうがよっぽどおかしいのだ。  ……俺は俯いているユンファさんの、その濡れている頬を片手で包み込み、親指の腹でその涙に触れた。  はた、と彼が俺に振り返る。彼の潤んだ紫の瞳は虚ろに俺の目を見た。――ここでやっと、やはり俺はこの暗闇のなかでも自分が、自分の涙が見えているのかと思いいたったユンファさんは、   「ごめんなさい…――何故か涙が止まらないんです」    と改めて言ってから、「大丈夫です」と相変わらず凍り付いた微笑のまま、俺を見ているその目、片目からまたほろ…と涙のしずくをこぼす。 「別に今は何ともないんですが、これ、実は割と最近はよくあることで…僕、さっき泣いてしまったから……何故か一度泣いてしまうと、たまにこうして…悲しくもないのに、涙が止まらなくなってしまうんです…――ごめんなさい、でも…いつもは一人のときにこうなることが多かったんですが…、今は何故でしょうね……」    そして彼はまた俯くと、自分の濡れている頬を長い指で撫でるようにしてぬぐう。   「…とにかく、ご心配には及びません…。いつもしばらくすると落ち着いて、涙も止まりますから。……」   「……、…」    ユンファさんは普段どおり、ただ一人で涙が止まることをじっと待つつもりのようだ。(はな)から俺に頼ろうという気もなく――頼り方さえわからず、ましてやこの涙をきっかけに、俺に甘えようなどとは(つゆ)ほども考えず――、彼はただその美しい横顔を伏せている。  ……その人のその端整な横顔は、まるで美しい微笑を(たた)えている球体関節人形が、その透きとおった紫の瞳からほろほろと涙を溢しているかのようである。   「…貴方、わかっていますか。…それ…異常ですよ」    と俺は深刻な低い声で言った。   「……、…え……?」    するとややあって、ふと目を丸くしたユンファさんが俺に振り返る。  やけに落ち着き払っていたユンファさんは、大して自分のこの涙を異常だとも何とも思っていないのである。――彼はこの涙を原因不明の慢性的な、しかし、たとえば季節の変わり目に起こる頭痛程度の発作だとでも軽んじて考えている。  ……俺はスウェットパンツのポケットに忍ばせていたハンカチを取り出し、彼の濡れた頬をやさしく拭う。   「貴方はもう限界なんだ。――この涙は…貴方の心や体からの、“SOSサイン”です。」   「……え…いえ、別に僕は……」    とユンファさんは本心で平気だと首を横に振っているが――しかし、彼は事実もうほとんど壊れかけている。    涙を流すという行為は本来、人間の自己防衛本能に基づく生理反応であるとされる。  人は深い悲しみや辛い状況下にあるとき、ストレスホルモンであるコルチゾールが大量に分泌される。そして一説によると涙は、そのストレスホルモンを体外に逃がす目的で出るともいわれている。また警戒状態である交感神経優位の状態から、泣くことによって、リラックス状態の副交感神経優位の状態に切り替わるのだという。  つまり人間は自分の心を守るためにストレスを発散・軽減させるべく泣くらしいということで、強いストレスがかかっている状況下において涙が出てくる、泣くということは、いわば人間の自然治癒力による生理反応の一つだということである。    したがって本当ならば、人は泣けるときに素直に泣いてしまったほうがよい。もちろん人目が気になるだとか、そういった更なるストレスがかかりそうなときは致し方ないにしても、自分の心理的な抑圧(泣くなんて悔しい、情けない)においては多少無視をして、素直に涙を流してしまったほうが自分のためによいのである。――本来泣くということは自然なことでなんら恥ずべきことではなく、いわば抗いきれない一つの本能の働きによるものなのだ。    しかし――ユンファさんは泣くたびにケグリから「男の癖に泣くな」という言葉をかけられ続けたせいで、その自分の心理的抑圧が強くなってしまっている。    そして――今は悲しくもないのに涙が出る。    もはやいつストレスを感じているかもわからないほど、常にプレッシャーを受けている現状において、いま彼の心身は絶え間なく降りかかるストレスの(やり)の雨の(もと)に雨ざらしになり続けてしまっている。――ましてや泣いて当然の状況下でさえケグリに涙を責められ、それの発散を許されずに抑圧されてきてしまった彼は、その自己防衛本能、生理反応のコントロールをつかさどる自律神経、もはやその部分のコントロールが狂ってしまっているのではないか。    ――ユンファさんは壊れかけている。  なお壊れ()()()()()というのは、それでもまだユンファさんは泣くことができ、廃人とまではなっていないからである。――いや、それでも壊れているというべきかもわからないか。ましてや、あるいは俗に言う「微笑み(うつ)」というやつで、彼が表向き平気な気でいるだけの可能性もあるが――鬱病患者は症状が悪化すると、いよいよ泣くこともできない無感情状態になってしまうものなのだ。    よってユンファさんにその自覚はないようだが、今ユンファさんの心身は壊れかけている、としか言いようがない。――まあ自覚していないというよりか、やはり微笑み鬱というやつなのか、彼にはそれを自覚してはならないという心のブロックがあるのだろう。…自分で自分の心身の限界に気がついてしまえば、彼は愛する両親のためにケグリの性奴隷として働けなくなってしまうからである。    ましてや自分の限界に気がついてしまったなり、ともすれば――愛する両親を見捨てるように、自分は死を選んでしまうかもしれない、と思うからである。     「…あの大丈夫です、僕…」    ユンファさんはほろ、とまた俺を見る片目から涙をこぼしながらも、俺を安心させようと微笑する。   「最近は本当によくあることなんです。今は別に悲しいわけではなくて、…いや多分、今はゴミか何かが目に入って……」    しかし俺は深刻な調子を変えずに、彼のそれを「いいえ」と断ずる。   「今だけは自分のその“SOSサイン”から目を背けないでください。ユンファさん…――貴方、もう壊れかけているのです。」   「…いえ僕…僕が壊れかけているだなんて、ちょっと大袈裟ですよ…――まあ、確かに……」    とユンファさんがふと目を伏せる。するとまたほろ、ほろほろ、と涙が下の白いかけ布団へ落ちてゆく。   「さっきのように、自分が正気じゃないかもしれないと思うときも無くはないんですが、…今は本当に全然……」   「大丈夫だなんて、泣きながら言わないでください」  俺は低い声でそうユンファさんを(いさ)めた。……しかし彼は本当にその自覚がないので、「ですが…」と俺を見て困った顔をする。   「今は本当に僕、別に何ともないんです…。あの、今は凄く冷静ですし…――とにかく、しばらくすれば治まりますので、ご心配をおかけし…っ」    俺はユンファさんをやや強引に押し倒した。     「…すみません……俺は、貴方が思われている何倍もエゴイスティックで…かなり我儘な男なのです。」          

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