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 それでも見てほしい――見なければわからない。  目をふさいでいてはわからない。  ぜひその目で見て確かめてほしいのだ。  今目の前にある現実は、決して自分が恐れているようなものではない、ということを――。 「……、…」  しかしするり…俺とユンファさんとの胸板のあいだに隙間をもたせ、見えた彼の顔は――、 「……、…、…」  眉目に(しわ)が刻まれるほど固く目をつむり、カタカタと震えながら青ざめ、まるで何者かに『目を開けるな、見たら殺すぞ』とでもナイフを突きつけられ、脅されているかのような、――見ている俺が罪悪感をさえいだく、酷く恐怖した強ばった表情をうかべていた。 「…ふ、…貴方って本当…〝盲目的リアリスト〟なのですね…、……」  俺はそう苦い笑いを口辺にうかべ、目を伏せた。  ……勝てない。…勝てやしない…――ユンファさんの見ている現実に、俺は、彼は、どうやらまだ勝てない。…今宵の夢の中では、俺は現実にはなれない。  ならばいっそ無理やり(さら)ってしまおうか?  ――このまま俺の家に連れ帰ってしまえば、否が応でもユンファさんの目は覚めることだろう。  彼の目にも現実が見えることだろう。  彼の目にも、俺が見えることだろう。 「…いっそのこと…このまま無理やり貴方を拐ってしまおうかな……」 「……、…何処(どこ)へ……?」  ユンファさんのたち迷うような震えた片手がおそるおそる、――盲者のような手つきで――手さぐり、俺の胸にちょん…ちょんと触れ、…俺はつと目を上げた。  ユンファさんはやはり恐ろしそうに目をつむったままである。 「…俺の……家に…、……」  ユンファさんの手が俺の首に触れ、俺の顎に触れ…――やがて俺の片頬を見つけ、そこを震えながら包みこむその白い冷たい手は、その親指でこの唇にそっと触れてくる。 「貴方の……」とユンファさんは目をつむったまま、うっすらと微笑する。――まるで幸せな夢を見ている人の寝顔のように。 「そこでは…貴方と二人で…いられますか……?」 「…ええ、勿論、…」  俺は声を明るませながら、自分の頬にある彼の手の、その手首を優しく取り、ちゅ…とその爪に口づける。すると美しい白い指が、わずかにひくん、と関節を曲げる。  だがやがて、彼のその手はまるで俺が本当に現実なのかどうかを確かめるように、おもむろに、また俺の片頬にあてがわれた。  ……俺は彼のその手の甲をそっと片手でおさえる。 「ずっと一緒にいましょう…? 何も怖がる必要などないのです。…貴方が今背負っている借金も、また貴方のご両親を苦しめている金銭問題も、…ご存知の通り、俺には有り余るほどの財力があります。――ですから、俺ならば貴方を今縛り付け、苦しめているその全てを解決出来ます。」  と俺は頼もしい男の声を意識して、一語一語を丁寧に、整然と並べてゆくように話す。 「いえ…貴方が今抱えている問題のその一切を、神でさえ目を見張るほどの速さで解決してみせると、俺はこの場にいらっしゃる神に誓いましょう。…だから何も恐れることは…、……」  ……俺は絶句した。 「……、…」  ユンファさんのやわらかい、しかし冷たい唇が、俺の唇に押しつけられたのだ。――ややあってから彼はやさしく唇を離し、俺の唇に「行きたいです…」と悲しいささやき声を触れさせた。 「拐ってほしいくらいです、ふふ…、貴方は何て優しい夢なんだろう…――叶うなら僕も…優しい貴方と何処かへ…何処かへ逃げてしまいたい…」  しかし彼は「でも…」 「行けません、僕は……」 「……それは…どうして……」  ユンファさんは泣き出しそうに眉をひそめ、しかしこう笑うのだ。 「貴方にご迷惑はかけられない…。全て僕が勝手に選んだことなんです…――ご主人様の性奴隷になったのも、こうして風俗店で働いているのも…――全部僕が選んだことで、全部…いわば自業自得です…。だからその責任は、僕自身が取るしかありません…」 「そんなことは、…たとえ貴方の選択によってのことであっても、誰かに頼ることは決して…」  悪いことではない。むしろ誰かの力を借りねば解決されない問題も多くある。――俺はそう言いたかったが、ユンファさんは困り笑顔のまま「いいえ」と、優しく俺の言葉を、…俺を、拒んだ。  そして彼は目をつむったまま、「正直…」と怯えた顔をうつむかせる。 「正直な話をすると…、…ごめんなさい…、僕は正直、貴方を信じ切れません……」 「……、…」  それは……無理もない、話だ。  どうして信じきれるだろう。――ユンファさんにとって俺は、得体の知れない初対面の男なのである。  ましてや助けてあげる、何とかしてあげるとモウラにも俺と同じようなことを言われ、彼はそれを信じて…――そして、残酷な形で裏切られている。 「……、…はぁ……」  俺のことなど信じられるはずがない。  わかってはいたのだが…――俺は落胆のあまり眉をひそめつつ、…しかしユンファさんには微笑を含ませた声で、「当然ですね」 「…当然でしょうね…、…どうぞ謝らないで。これでも俺は、無理を承知で貴方に……」 「違うんです…」しかしユンファさんは沈痛な面持ちでうつむいたまま、そう静かにさえぎる。 「貴方はきっと…本当に良い人なんだとは、僕もそう思うんです…。でも――僕はもうどうなっても構わないが、…両親は…、……両親のことだけは……」 「…この俺ならば、貴方のご両親のことも救える、守れる…、いいえ、必ずや救い、守ってみせると…――そうは繰り返し言えども…、今の貴方は、それこそがとても信じられないのですよね。…いえ、それはあくまでも当然でしょう。ですからどうぞ…お気を楽に。ふふ…」 「……、…」  ユンファさんはつらそうに眉をひそめた。  そして彼はか細い――何者かの耳をはばかっているような――小声でこういうのだ。 「ご主人様は、きっと恐れているんです…――僕が貴方と逃げてしまうことを…、駆け落ち…というか…――そして…ご主人様の報復は、貴方や、僕の両親にまで及びかねない…。僕はそれが一番恐ろしいんです……」 「いえ、そう仰言るのならば、…それだって俺なら…、そうだ、ご両親が心配なら、まずは二人でユンファさんのご実家に、」  ツキシタ夫妻の安全を確保してから――しかしユンファさんは泣きそうに顔をしかめ、声を張った。 「っもう会えないんです、」 「……、…」  ユンファさんはそのうつむかせた泣き顔を、何度も、何度も横に振る。 「もう、もう会えません、…どうして、…どうして会えるでしょう、――こんな体にされて、…乳首にピアスを開けられ、鍵付きの首輪をされ、…下腹部にいやらしいタトゥーまで入れられて、――もうとても会えません、…っ僕が両親を愛しているからこそ、…両親が、僕を愛してくれているからこそ、――もう二度と会えないんです、…」 「…ごめんなさい…、貴方のお気持ちも考えず、浅慮なことを…」 「いえ、」――ユンファさんは泣きながらも笑い、首を横に振った。 「…貴方のお気持ちは、とても…、…でも、両親のことを想うと、不安で、とても恐ろしくて、僕、――とても、…っとても貴方と一緒には行けない、…僕はもうどうなってもいい、でも、――でも、両親だけは、…」 「……だからこそ貴方には、俺を見てほしいのです。」  俺はエゴイストだ。  それでも食い下がってしまう。 「俺の顔を見れば、あるいはユンファさんのその不安は立ちどころに解消されるかもしれません。…だから俺を見てほしいのです。…俺を見て…、どうかこの俺を、貴方の美しいその瞳に…――これからはもう、どうかこの俺だけを…――貴方の貴石のようなその美しい瞳に、どうかこの俺の目だけでも映してください……」  アクアマリンの瞳…――しかし、俺はあえて自分の本当の名はまだ名乗らない。  名乗っても今のユンファさんには嘘になってしまう。――だからまずは俺の顔を見てほしいのだ。 「俺の本当の顔を、その目でしかと見て……」 「……、…、…」  しかし打てど響かず…――ユンファさんの力んだまぶたが開かれる気配はない。  ……俺は彼の頬にちゅっとキスをした。 「……っ!」  するとビクンッと彼の体が怯えたように跳ねる。  俺はふるふると震えているユンファさんの力んだ唇に、この唇をそっと寄せた。 「貴方が好きだ、ユンファさん…――貴方が一番大好きだよ、俺は……」 「……っ、…」  そうして俺の囁き声が唇にかかると、またぴくんっとしたユンファさんは、眉根に険しく力を込める。 「ふふ…」俺は困って笑う。 「貴方は一体何に怯えているのやら……、世にも美しい俺の王子様…、あのカクテルは、永遠の眠りについてしまう毒林檎ではなかったはずですけれど…――しかし、いずれにせよこのまま眠り続けていては…、この悪い悪い魔法使いに、本当に無理やり拐われてしまうかもしれませんよ……」 「……、…」  するとユンファさんは目を固くつむった、険しいその顔を小さくふる、と一度だけ横に振った。 「あ、貴方は…そんな悪いことを、される人ではありません、から……」 「……、…」  それはどうでしょうね…――そうとも言えない。  俺は本気で、いっそこのままユンファさんを拐ってしまおうかと考えていた。  だがそう言われてしまったら、それを実行する気が失せてしまう。――何より、これで無理やりにも俺の家に彼を連れ帰っては、彼の精神がもたないかもしれない。  ユンファさんはいよいよ壊れてしまうかもしれない。――今の彼の唯一の生きる意味、そのよすがたるは、ご両親であるツキシタ夫妻の安全なのである。…そしてそれは、ケグリの性奴隷であることと密接に紐帯(ちゅうたい)している。  ケグリの性奴隷でいれば、少なくとも自分よりも大切な両親の生活は保障される。つまりどれほどつらかろうとも、彼が今一番気にかけていることにおいてばかりは安心はできるのだ。  ところが、ここで正体不明の男の家に否応なく連れ去られ、両親の安全が確保されているかどうかを知れることもなく、自分だけが俺の家で高待遇をうけて…――すると彼は罪悪感、不安、恐怖のプレッシャーに押しつぶされ、俺がどれほど「大丈夫」だと、貴方はもちろんご両親のことも必ずケグリらの脅威や貧困から守る、生活を保障すると言い聞かせても、…そもそも自分を無理やり連れ去った誘拐犯の言葉を、いったい誰が信じられることだろうか?  それも俺はそうした場合、ユンファさんを軟禁しなければならないことだろう。――なぜなら、彼は「(ケグリの)性奴隷でいなければ両親が困る」と思い込んでいるので、突然ケグリのいない、またケグリの無許可で俺の家に、となるとおよそパニックになり、結果俺やモグスさんの隙を見て、ケグリの元へトンボ返りしてしまうかもしれないからである。  ……ましてや誘拐は誘拐、軟禁は軟禁だ、何かしらをもって事が発覚し、俺が捕まりでもしたら、――たとえばユンファさんが逃げ帰ってきた場合、ケグリは鬼の首を取ったかのように通報するに決まっている――、それこそ彼を助けるも何もなくなってしまう。  何にしても信じられるはずがないのだ。  誘拐、軟禁なんてしたら、悪ければ俺はユンファさんの「敵」になってしまう。――いやそれどころか、何一つ安心のない、不安しかない、絶望しかない環境に置かれてしまえば、人は最悪……――。  すなわち――どれほどユンファさんを救いたい一心であろうとも、誘拐は悪手だ。ある程度は彼の意思ありきでなくてはならない。  歯がゆいことだが、…今ではない。  では、ある程度ユンファさん自身の「意思」をもって、また――彼に脅威を想像させないために――あのケグリの許可付きで、うまいこと彼を俺の家に連れ帰るためには…――。 「……、…」  ……時間がないのだ。俺には時間がない。  ユンファさんの「敵」になっている場合ではない。  あくまでも味方のままでいなければ、敵から関係性を巻き返せる時間などない。――急がば回れ、か。  慎重に、入念に、一度のチャンスで成功を掴む。俺にはそれしか許されていない。  ……今は、(こら)えるしかない。  今は…――ユンファさんとの関係性を深めることに、注力しよう。

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