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「…よく見て――俺は貴方の現実なんだ。」
と仮面をはずした俺はつと目を上げ、ユンファさんを真っ向から見すえた。
俺は間違っても夢の存在ではない。『夢見の恋人』のカナエでも、またカナイという友の名を借りた架空の人物でもない。――俺は夢の中に出てくるような幻の「仮面の男」ではない。
生まれついたこの顔を、この目を、この鼻を、この唇をもつ、…あるいはユンファさんも見たことがあるかもわからない、この顔をもつ――九条 ・玉 ・松樹 という一人の男――、
それが俺の現実である。
これが俺の嘘偽りない本当の顔である。
あるいはユンファさんも、俺のこの現実を、この顔を見れば、この夜が、俺が「夢ではない」と――二人に明日があるのだと――目を覚ましてくださるのではないか。
……神は――俺たちのそばで大手を広げ、優しくほほ笑みかけている彼の神は――ユンファさんに、もうこれ以上の自己犠牲も、忍耐も望んでなどいないはずだ。
貴方が俺の本当の顔を、俺のこの目を見てくだされば…――俺は今夜にも、貴方の手を引いて……、
「…ユンファさん」
「……、…、…」
しかし俺が見すえたユンファさんは、ぎゅっと目をつむってしまっている。――その美しい黒い眉を困惑ぎみに寄せ、その白いまぶたに少ししわが刻まれるほど固く、彼は目をつむっている。
「Open your eyes…どうぞ目を開けてください。」
「……ぃ、いえ、…ぁ、開けられません、…」
ユンファさんは肩にかけた俺の黒いチェスターコートの襟を、片手でぎゅっと握りしめながら、怯えているような顔を深くうつむかせた。――「開けられません…」そうくり返し強調した彼に、俺はふとこれまでのことから推察する、この「盲目的リアリスト」が今まぶたの裏で見ているのだろう悪夢に思いあたり、そのまぶたの裏の暗闇に現実の朝陽を射しこませようと、一語一語を丁重にこう言った。
「貴方が今見ている現実こそが悪夢…つまり虚構です。…それこそは悪魔の作り出した虚構なのです。――しかし貴方はそれを絶対的な現実である、と決め込んでいる…――だから貴方は目を開けられない。」
俺はうつむきがちなユンファさんの両頬を、するり…両手でつつみ込み――ゆるやかに少しうわ向かせ、そして彼の頑なに閉ざされた震える上まぶたを、両方親指の腹でそっとなでる。
「ユンファさんは今目を瞑っている…――いいえ、目を塞がれているのです…、貴方のご主人様の醜い両手に…――そして貴方は…その男の見せる幻影的な悪夢の現実を、盲目的に信じ込んでいる…。それこそが自分に最も相応しい居場所、それこそが自分に最も相応しい扱い、…それこそが…自分の変えようもない現実である…と――尤も…貴方のpessimistic なその盲目は、無理からぬことではありますけれど……」
俺は力むあまり小刻みに震えている彼の黒い濃いまつ毛、その長いまつ毛の生えぎわを、目頭側から外へむけてつー…と両方、おもむろに親指でなぞってゆく。
「しかし…太陽は毎日昇ります。醒めない悪夢はありません。――ましてや貴方が今見ているその虚構の現実は、外から見ればいかにも脆弱 なもの……、つまり、割に易 く変えることが出来るのです…」
「……、…」
ユンファさんの顔と上まぶたが、同時にぴく、と微動した。それは俺の愛撫がくすぐったかったのか、はたまた「変えることができる」という、朝の陽光に満ちあふれた言葉にまぶしさを覚え…――目を、覚まそうとしているのか。
「現実というものは、」と俺は言いながら、ユンファさんのその高い鼻先に、そっと自分の鼻先を寄せた。
そしてぷるぷると震えている彼の白いまぶたを、そのつやのある扇のように伏せられた黒いまつ毛を凝視する。しながら、こうつづける。
「しかと目を開ければ…きちんとその目で見、きちんとそれの綻 びを見定め、そしてきちんとその弱点を突けさえすれば…――変えることが、出来るのですよ。」
「……、…」
しかしユンファさんの秀麗な黒い眉が、悲しげにひそめられる。――いまだ現実とは思われていない、…いや、彼はきっと「変える」ことを恐れているのだ。
……案外誰しもがそんなものである。――その変化が良かれ悪しかれ、また現状に不満があろうがなかろうが、誰もが変化というものには大なり小なり不安がるものなのだ。
ましてやユンファさんの視野は今狭窄 的になっている。――どれほどつらかろうとも自分は持ちこたえねば、この苦境の中でもとにかく自分が頑張らねば、自分の何よりも愛する両親がどうなってしまうかわからない…――彼の場合、その自分を脅迫しているような恐怖心がほとんどを占める不安が、変化を拒む原因になってしまっているのだろう。
今のままであれば、少なくとも両親は無事でいられると思うからである。……だからどれほど今が苦しかろうが変化が恐いし、変化を望めないのである。
それがたとえ今の苦境を、その不遇を丸ごと救済してしまうような、大逆転の奇跡的変化と呼ばれて過言ではない大好転であったとしても――。
だが、この世に変わらないものなどはない。
俺はあえて悪夢を見ようと目をつむっているユンファさんの、その悲しい上まぶたをまたそっと撫でる。
「今という現実は確かに地続きだ…。過去から続く今、今から一歩、一歩と未来へ歩んでゆく…、貴方はその過去からここまで歩んで来られたのでしょう。…それは大変凄いことだ。――しかし歩み続ける限り、変化というのものは、森羅 万象 何においても免 れられないもの…」
「……、…、…」
ユンファさんのまぶたが苦しそうにその震えをもう少し大きくする。それはまるで、朝陽の眩しさに目を覚まそうとしている人かのように。
「月は日々満ち、満ち切れば、また日々欠けてゆきます。…」と俺は己れが見つめる蒼い月の、そのつやのある白いまぶたに優しく語りかける。
「すなわち月はずっと満月ではいられず…、しかし、ずっと新月でいることも出来ないのです…――ましてや月は、太陽に強く引き寄せられるせいで、日毎 少しずつ軌道を変化させながら地球の周りを回っている…――今も過去と同じ道を歩き続ける必要などないのです…。いいえ寧ろ、月は同じ道を進み続けることなど出来ない…――太陽に出逢ってしまった月は…、貴方はどうしたって、別の道を選ぶ他にはないのだ…。」
俺は「要領を得ないでしょうね…」と、…もう言ってしまおうと決心した。――明確に、言ってしまおうと。
さあ目を覚まして、目を開けて、俺を見て…――。
「要するに俺は、ユンファさんにこう言いたいのです。――今宵の夢を決して夢では終わらせず…貴方の明日を俺と一緒に、幸せなものに変えてみませんか、ユンファさん…――もう貴方のご主人様の元へは帰らないでほしい…。俺はもう貴方をあんな男の元へは帰したくない…、もう、貴方とは離れたくない……」
「……は…、…」
ユンファさんは驚いたような吐息を、そのふくよかな青味の桃色の唇を震わせながら、そっとこぼした。
「ですからどうか、…どうか今夜このまま…今すぐにでも、俺と一緒に来てください。」
「……、…」
ユンファさんのその閉ざされた二つの上まぶたが、ふるふると震えながら…――
おそるおそる…ほんの薄く、開かれた。
俺はドキと心臓に走った期待の電撃に、目が冴えてゆく。――もっともその開き具合では、まだ俺の顔はほとんど見えてないことだろう。しかし俺は逸 る気持ちを必死におさえ込み、震えた声で、
「ユンファさん…、…俺を見て…――どうか…、どうかそのまま、俺の顔を見て……」
「……、…、…」
ユンファさんの深くひそめられた眉が、その上まぶたが逡巡して震えている。
……しかし彼は、
「い…いえ、…やっぱり…ごめんなさい…」
また目をつむった。そして顎を引き、自分の頬をつつむ俺の両手からも逃げ、
「ごめんなさい、僕、…怖いんです、…」
と言いながらそのまま後ろへトタ、トタ…とややぎこちなく引いて、…俺は彼の手首を掴み、ぐっと引き寄せた。
「…ぁ……っ!」
彼の肩にかけられていたコートがトサッと床に落ちた。しかし抱きすくめる。
「愛してる。」――ユンファさんの耳もとで、俺はただそうとだけ言った。
「愛してる、ユンファ。」
虚しくも悔しくもあるが、今はこれしか思いつかなかったのだ。ただただ正直な、これしか。――トクトクと小刻みなユンファさんの鼓動が聞こえる。
「……、…、…」
「貴方をこうして抱き締められて…はは、…とても幸せですよ、俺は…、……」
なるほど、ユンファさんはつくづく何とも安っぽい服を着ている。
千円ほどで買えるような安っぽいカッターシャツと、ポリエステル100%の安い作業着のようなスラックスと、…どちらも肌ざわりがよいとはいえないガサガサとした生地である。…思うに、彼には全く相応しくない衣服だ。
だが、一円だろうが一億円だろうが、値札付きのもの――金で買えるもの――の本質などみな等しく同じである。金額は関係がない。金さえあれば買えるのだから。
「貴方を…、貴方を愛しています、ユンファさん…」
俺がどれほどの金持ちであろうとも、この体は、心は、金では買えない。
だが、その金では買えないユンファさんの体を、こうして抱きしめられる――無理やりではあったが…、だとしてもこのユンファさんの肉体は俺に、言いしれぬほどの安心感と高揚感、そして、自分よりも何よりも大切な、必ず何ものからも護 るべき愛おしい存在、という焦燥感にも似た胸の疼 きを俺に与える。
俺は今、たったひとときでも、金では得られない――簡単には得られない――至上の幸福を、得られたのである。
「もう…離したくないな、ふふ、…なんて…――つまり単純なことなんです。…俺は貴方を愛している。だからもう…、…もう……」俺は言葉のさなかだが、聞こえてきたかすかな音に耳を澄ませる。
「……、…、…」
布ずれの音…ユンファさんの曲がった両肘が、おそるおそると俺の脇腹をかすかにかすめ…、…ためらい…迷い…震えながら迷い…――迷って……、
「……、…――は、……っ」
俺の体を、思い切りぎゅっと抱きしめる。
「…幸せです、僕も、――こうして貴方に抱き締めていただけるだけで、…すごく、…すごく幸せです、…」
「…それならどうか見て…――俺のことを…、俺の目を…貴方のその美しい目で……」
俺はそっと目を伏せながら離れようとした。
しかし「駄目、…」とユンファさんは、とっさ恐ろしいほどの勢いで俺の体を強く抱きすくめ、離さなかった。
俺は優しく抱きしめ返すが、それこそ俺のあばら骨がきしむほどぎゅうっと両腕に力をこめながら、ユンファさんは、俺の耳の隣でふるふると顔を横に振った。
「ごめんなさい、…見られません、僕、…っ」
「…何故…?」
と俺は優しく彼の耳に尋ねる。
するとユンファさんは、泣きながらこう言うのだ。
「…っ現実を見るのが、…怖いんです、…」
「……、…」
……俺は唇を薄く開け、固まった。
ユンファさんは…――、
ユンファさんは、…きっと、あまりにも幸せだったのだ。
あまりにも、幸せなのだ。
彼にとっての現実は地獄だ。
今は彼にとって――夢、でしかないのだ。
なぜなら――幸せだから。
今のユンファさんにとってはもう、幸せである時間が、自分が、現実ではないのだ。
いや…今さらだ。
俺もわかってはいたのだ。これでもわかってはいたのだが…――。
「……、…」
俺は悲しいやら愛おしいやら、もはや自分が今抱いている感情にすら名前を与えられない。…ましてや、そう言うユンファさんになんて言葉をかけたらよいかなどもっとわからず、――目を伏せ、言葉を探しながら――彼の後ろ髪をやわらかく抑えるように、優しく、なで…なでと撫でる。
「…夢を、見ていたいんです、」――ユンファさんは嗚咽まじりに、そう言うのだ。
「…許されるなら、幸せな夢を…、今夜くらいは、せめて、…見ていたいんです、――貴方の顔を見てしまったら、…貴方が、…本当は誰なのか、知ってしまったら、――僕はきっと、…貴方を疑ってしまう、…」
「……、…」
ユンファさんとってはあり得ないから、だろう。
たとえば俺が九条 ・玉 ・松樹 であるとわかれば、たしかにユンファさんはより俺のことを、俺の気持ちを疑ってしまうことだろう。――見上げるほど身分の高い九条ヲク家の子息が、それもその名家の跡継ぎが、自分のような性奴隷に恋をし、真剣に付き合いたい、結婚がしたいと申し出るはずがない。
九条 ・玉 ・松樹 という、家柄も地位も金も何もかもを持っているアルファ男が、伴侶など選り取りみどりのはずのその「完璧な男」が、自分なんかをわざわざ選ぶはずがない。
よりにもよって自分なんかを本気で愛してくれているわけがない。ありえない。――何か裏があるに決まっている。自分に甘い愛をささやく俺の唇の奥には、何かの嘘があるに決まっている。
それはたとえばケグリの企 てのような、モウラの策略のような、これまで彼を犯してきた男らの下心のような…――。
「……それでも…俺は、」
それでも俺は、見てほしい。
「俺はユンファさんに見ていただきたいのです。」
俺はまた身を離そうと試みた。
今度は――カタカタと震えているユンファさんの腕に力はなく、すると俺たちのあいだに隙間をもうけることがかなった。
「貴方が今恐れていることが起こらず…、却って、貴方が夢にも見ないような幸せなことが起きている未来…、今――その現実を、俺は貴方に是非見ていただきたいのです。」
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