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ユンファさんにはもうわからない。
……わからなくなってしまったのである。
誰かの、いや、俺の純粋な恋心が――貴方と恋人になりたい、結婚がしたい、貴方のそばにいたい、そばにいてほしい、貴方とただちょっと目があっただけで気分が高揚して、どうしようもなく舞い上がってしまう。…二人の肉体の目合 いなどよりも先にプラトニックなよろこびを得たい、それを実際に今得ている、俺のただの恋心が――、もう彼にはよくわからない。
……いいや、ユンファさんはわからないのではない。
彼は「わからない」と決め込むことで自分を守っている。――俺の恋心を信じないでおくことで、自分を守っている。
もう騙されたくない。もう裏切られたくない。
もう傷付きたくない。もう自分の恋心を利用されたくない――もう何も信じられない。
それでも信じたい。
ユンファさんは優しい俺のことは信じたい。
だが、もう信じきることなどとてもできない。
もう希望を見たくない。光に期待をしたくない。
……どうせまた裏切られるに決まっているから…――。
どうして今の彼が信じきることなどできようか?
悪いのは間違っても彼ではない。――自分に恋をしたと、自分を愛していると、自分を幸せにしたいと、自分を助けてあげると、…本気で、本心で、――胸の奥の真実から自分にそう言ってくれる人など、この世には存在しない。
そう思い込まされている今のユンファさんにとっては、嘘なのだ。――今の彼にとってはもう、それらの言葉はひとまとめに甘言である。
悪いのは、その甘言をもって彼を騙し、裏切り、陥 れた男、あのノダガワ・モウラという男が、…あの忌々しいドブネズミがいなければ、――あのモウラよりも先に、俺がユンファさんに会ってさえいれば、…
俺はあの動画を見て、明確にわかったのであった。
ユンファさんが俺の愛を信じられない、いや、愛どころか恋心をさえ信じられない原因は、あのケグリどもに性奴隷とされ、苛酷な調教をうけ、日々しいたげられているというのばかりではなかったのだ、と。
……かえって、モウラがわざわざユンファさんを自分の恋人にしてから裏切った――もてあそんだ――ということのほうが、よほどその不信の大きな原因であったのだ、と。…しかしそれは当然だろう。
恋人になろう、結婚しよう、助けてあげる、自由にしてあげる、一緒に逃げよう、可愛いよ、綺麗だよ、愛しているよ、――彼はモウラとの交際中、男のその甘い言葉にすがっていた。
ユンファさんはモウラを信じていた。
……しかしそもそも、仮に俺以外の誰かがあの動画を彼から見せられたとしても、その誰もが口を揃えてこう、彼を心配することだろう。――「大丈夫? 貴方、ちゃんと彼氏に大切にしてもらっている?」
それでもユンファさんは信じていたのだ。
それほど盲目的に、彼はモウラを、モウラのその言葉を信じていた。――彼は男の愛を信じきっていた。
しかし――あまりにも惨 たらしい形で、その信頼は裏切られた。
それもユンファさんは、今もなお知らないでいる。あんな動画、あんなモウラの態度を見せたところで、「結婚を視野に入れた誠実な恋人がいる」という証明になどならない。
逆である。むしろそんなのは彼の夢見がちな目が見ている虚像であると、あれではおよそ誰しもがそう思う。――しかし悲しいことだが、彼にはあんな内容の動画が、あんな男のわがまま放題の傲岸 な態度が、そしてそれに泣かされている自分が映っていてもなお、その「証明」に足るものと判断されたのである。
あるいは、せめてもあの動画くらいしかそれに足るものがなかったのかもしれないが、…いずれしても、恋人関係にあってなおあのような扱いを受けていてなお、どうして、――どうして信じられるだろう?
俺が「モウラとは違う」という確証などないのだ。
またその男をふくめ、ユンファさんの肉体を利用して利己的な収益を、あるいは手前勝手な快楽を得たい、得ている今の彼の周囲の男らと、俺が「違う」という確証などないのだ。
それだからユンファさんはもうわからない。
いいや、彼は俺の「真実の愛」が見えかけると、そしてそれに期待しそうになると目を伏せ、
俺の純然たる恋心が、そうであるとはわからない。
――そうしてわからない ふりをする。自分を守るために…――。
だが、…俺はユンファさんの肩をつかみ、その体を優しく返して、俺と向かい合わせにする。
「貴方とのベッドインを目的としているわけでもないのに、一体どうして俺がユンファさんとデートしたいのか――それを何故と聞かれても、…その答えは、貴方が思うよりうんと単純なことなのですよ」
「……、…」
俺をおぼろげな蒼い瞳で見るその人の、冷たい夜風にふわりふわりと煽られるやや長い黒い前髪は、生気のない美しい人形のような微笑みをたたえた白い顔に、繊細に翳 っては退いて、その壊れそうな儚さをなお浮き立たせる。
俺は陶器のようになめらかな――それだからこそ冷ややかな――青ざめたその人の両頬を、自分の中に流れる血潮のぬくもりであたためるように手のひらで包み込み、そしてそのうつろな蒼い瞳をじっと真剣にみつめる。
「答えは単純です。…俺がユンファさんに恋をし、貴方を愛しているからです。…そして俺が、し た い 、と切に思うからです。――好きな人である貴方とデートがしたい、と。…自分こそが貴方を楽しませたい。…自分の隣で貴方に笑ってほしい。そのときくらい、少しくらい…貴方には俺に甘えてほしい。――だから俺は貴方に〝デートがしたい〟と、〝俺とデートをしてください〟と言うのです。」
「……、…」
ユンファさんのそのうつろな青紫の瞳は、俺の目を見つめ返しているようでいてそうではない。――彼が今見ているものは過去だ。悲しい過去の記憶である。
……どうしたらユンファさんに信じてもらえるだろう? ――間違っても俺とあのドブネズミは違う、と。
俺はユンファさんの青ざめたその瞳をひとりでに見つめながら、悲しい怒りを低い声にあらわにこう続けた。
「好きな人とデートがしたいという気持ちに、どうしてそれ以上の理由が必要でしょうか。…貴方を愛する俺の気持ちに、貴方を求める俺の気持ちに、あとはどんな理由を付ければ…――貴方は俺の愛を、俺のことを、信じてくださるのですか。」
すると……、
「……、…」
ユンファさんの力なかった上まぶたがかすかに力を取り戻し、その薄紫色の瞳がはたと俺を見る。
その澄明な貴石――半球形のタンザナイトの瞳の表面は今、ほんのうっすらとした俺の水色をまとっている。彼の瞳にはやっと目の前にいる俺が映ったのだ。
「……これが…、…今が……」
ユンファさんは俺の両目に魅せられながらそう儚い、しかし甘く夢のようなささやき声で言うさなか、その生白い片手の、その死人の骨のように硬くつめたい指先で、コツ…と俺の仮面の頬に触れた。――彼は悲しそうに眉尻を下げ、ほのかに微笑する。
「…夢なら…、…今夜だけの…、〝一夜の夢〟であれば…――僕は、誰よりも…、この世の誰よりも、優しい…神様のように優しい、魔法使いさん…――貴方を……きっと、心から信じられます……」
「……、…、…」
俺は仮面の下で眉をひそめ、ふと目を伏せた。
悔しかったのだ。
たとえば――今が、俺が「現実」ではないなら、
今が悪意に満ちた自分のいつもの現実ではなく、何だって許され、何だって叶えられるような――安全な夢であるのなら、
そして、「今夜だけ」という危険性のない――騙されることも、裏切られることも、またそのオメガ属の肉体を利用されることもない、その「明日」という可能性のない、限定的な時間の――密かな眠りのさなかだけ見られる幸せな夢、ご主人様も誰もいない自由な夢、神様がくださった一晩だけの奇跡、
……朝がくれば自然と目が覚め、また何も変わらない自分の現実がそこにあり、なおかつ自分を更におびやかす悪魔の気配がない――ただ秘めやかな自分の胸の中にだけ残る、俺の愛、俺の優しさ、俺の恋心、俺の感触、
「……魔法使いさん…」――とやわらかい声で俺を呼ぶ彼の、その両頬を包み込む俺の片方の手の甲に、ひた…とその冷たい指先が、遠慮がちに触れる。
俺は目を上げられない。
「……夢だと…言ってください…、どうか…これは夢なんだと…、一晩限りの夢なんだと…――だって…、貴方が…今夜、眠っている僕が見ている…、ただの夢であれば……」
俺という、神様のように優しい優しい男が…――かき消えることを約束された――「一夜の夢」ならば、
「俺は夢になどなりたくない、…貴方の夢には、」
と怒ったように潤んだ目で彼を見る。
「貴方の夢じゃない、俺を夢になどしないで、――俺は現実になりたい、…ユンファさんの現実になりたい、…明日がある現実に、…夢じゃ嫌だ…っ! 俺は、」
「…貴方の愛を、……」――ユンファさんが眉尻を下げたまま眉根にしわを寄せ、ふとその長いまつ毛を伏せながら、ほろ、と涙をこぼす。
彼の頬につたう涙にその毛先でそっと触れるような、風に揺られたその人の黒髪が、寄せては引いてゆく潮 のように、俺の手の甲にもひらめいてはまた去ってゆく。――俺は負けじと親指の腹で、その涙の余波 をぬぐった。
「……っ、…」するとユンファさんはなお悲しそうに眉をひそめ、
「夢なら、信じられるのにな、…っ貴方の愛を、…っその神様のような、優しさを、…何にも、考えなくて、…何にも考えなくていい、…夢なら何にも怖くないから、これが、今夜だけの夢だったら、――それだったら、…僕、喜んで貴方と、…」
嗚咽しながら、ときどき息を吸い込みながら、ささやくように、悲しい声でそう言ったユンファさんは、諦観の涙をその伏し目にまとわせ、微笑んだ。
「っ神様のように優しくて、すごく…すごく、素敵な貴方と、――恋人に、…なれるのに、…」
「っ俺は、……、…」
俺は夢じゃない。――言いかけてやめる。
その代わりユンファさんをかき抱き、ぎゅっと強く抱きすくめる。
「どうしてこれが夢だったら、儚い夢だったらと、――何故これが現実だったら、現実だったらと、考えてくださらないの、? どうして、…どうしてですかユンファさん、…」
するとユンファさんは消え入りそうな声で、こう答えた。
「…怖いんです、貴方が…、…っ神様のような貴方が、本当は悪魔だったらと思うと、…とても怖くて…――貴方が、…」
ユンファさんの両腕が俺の背中をぎゅっと抱きしめ返す。
「貴方が……好き、――っ好きに、…好きになって、しまったからです、…だから……だから怖いんです、…」
「それならずっと夢の中にいましょうか…、この夢の中に、二人きりで、ずっと、…永遠に、…――永遠に………」
永遠に…――朝が来なければ、恐ろしい朝を迎えなければ…――、
「……いいえ、…」
としかし、ユンファさんはこの夢を見続けることを拒んだ。
「…っ目を覚まさ、なきゃ、…明日の朝には、――借金があるんです、…僕が働かないと、両親が、…――逃げないと決めているんです、…何があっても絶対に逃げない、…生きる、…生きることからも、…死にたくても、どれほど、…っ死んでしまいたくても、…両親のために、…僕は、……っ」
「……、…」
いいや、生きなければ。…生きなければ、二人で、生きなければ、…――生きなければ。
「逃げません僕は、…絶対に、……でも、」
は、は、と小さくしゃくりあげながら、ユンファさんは俺の肩に目もとを押しあてた。
「こんなに贅沢な、夢、――主よ、…ありがとうございます、――この優しい夢さえあれば、…僕、きっと生きていけます、…何があっても、この夢を思い出せば、僕、――何だって、きっと耐えられる、…っ神は僕を生かすために、これからも耐えられるように、…こんなに素敵な、一夜の夢を……」
「いいえ、」
神はそんなことを望んでなどいない。
「どうか目を開けてくれユンファ、…目を開けて、――神を見て、神の目をちゃんと見てくれ、…貴方の信じている神は、――どうか、…どうかもう目を覚まして、ユンファ、…――その目でちゃんと見るんです、見るんだ、…っ」
……俺は獣のような俊敏さで抱きしめていたユンファさんの体を手放し、その骨っぽい手首を掴んで引き、早足で歩き出す。――室内に戻ろうとしている。
「……っ?」
ユンファさんは一瞬よたついたが、俺に腕を引かれるまま、俺のあとを着いてきてくれている。
俺たちはあたたかい室内に入った。しかし俺はまだ早足で進む。
なお照明があら方消されているとはいえ、神聖な陽光に透かされているふうのステンドグラスのまばゆい光や、壁に等間隔に吊るされたランタンなどの細々とした灯りのおかげで、薄暗いながらも外よりは明るい。――何かを見なければならないときには、光が必要なのだ。
「俺は貴方に見てほしいのです、ユンファさん、…俺は…――」
ひたと立ち止まる。
ひときわ大きなイエス・キリストのステンドグラスの前、俺はふっと背後のユンファさんにふり返り、向かいあう。
「見てください――俺は現実だ。…俺は貴方の、現実です。」
「……、…」
俺が真っ正面からやや見下ろしているユンファさんの、その切ない表情をうかべた美貌は今、蜜月と蒼い月が共存しているハーフムーンの様相となっている。
その形の瀟洒 な高い鼻でへだてられた半分――ステンドグラスからの陽光を受けている側とは反対の、少ない光に青ざめた陰りを帯びているその半分はblue moonであった。
うすい暗闇の中に浮かぶ蒼い月――蒼白い不安げな肌、その漆黒の髪と長いまつ毛、潤沢な群青色の瞳に輝く小さな艶――壊れそうなほど儚い月下に流れる、涙の小川のつやめきは、夢のように美しい。
しかし美しい鼻をへだてたもう半分は、優しい神聖な陽光に照らされたhoney Moonである。
明るい生気の立ちのぼるミルク色の肌は、光にかすかに血の色を透かせて、またその頬や鼻にはつやつやしい「生 」の光沢をやどし、朝の光にかすかに蒼く透けている黒髪と長いまつ毛、そしてあまりにもよく透きとおった薄紫色の瞳――その優しい月の下に流れる涙の小川さえも、見つめあえる喜悦の蜜が流れているように、愛おしい。
「綺麗だユンファ。貴方は本当に美しい。」
と俺は言ってから目を伏せ、自分の顔をおおう仮面を片手で掴み、またもう片手では、耳と後ろ頭にかかる紐を取ってゆく。
「だ…駄目、…」
カラン、…――俺が投げ捨てた仮面が、床に落ちる。
「…よく見て――俺は貴方の現実なんだ。」
俺は目を上げ、ユンファさんを見すえた。
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