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「……、…――。」
なるほど俺は、しかしわかった。
……わかった…――なんと忌々 しい。
背後から俺が抱きしめているユンファさんの体は、まるで凍えているかのようにガタガタと震えている。
しかし反面、彼のその伏せ気味になった青ざめた横顔は美しい人形のように、涙のつたった跡を頬に残していながら、一見悲しんでいるとも苦しんでいるともない、生気のない、感情の見えない、――彼はさながら、その諦観によるタナトス が生みだした、冥府の川に身を委 ねているオフィーリア…――しかし楽しそうに古い唄 を口ずさみながら、今に自らの身にのしかかってきている死をも理解せず、ある種だれよりも純真無垢なまま川底へしずんでいった彼女と、彼は違う。
オフィーリアの狂気はある種の救いであった。
それをもふくめて悲劇的な彼女ではあるが、それでもその狂気は、彼女の心を苦痛から救った。
……しかしユンファさんには、その身をひたす川の凍えるような冷たさが伝わっている。彼はこれでも正気だ。――彼は正気のまま、しかしすべてを諦めて無抵抗に、自らのうちに流れるその絶対零度の川に身を浮かべている。
「俺は…」とユンファさんの耳に憤りの低声 を聞かせる。せめてもの慰めに。
「貴方のその彼氏とやらがどうしてもゆるせません。――尤も…、……」
だが、もはやはっきりと言う他はあるまい。――これ以上ユンファさんの過去の傷をえぐらせることになっては、目も当てられない。
「ユンファさんは嘘を吐 かれたのでしょう。――今の貴方には、お付き合いしている人などいない。」
「……いいえ…嘘、では……」
しかしユンファさんは、どこかうわの空ながらそう否定する。
「僕…、本当に…付き合っている彼氏が……」
「……それならば…」
心苦しいことだが、…それこそ本当は彼を責めるような真似などしたくはないが、俺はこうして追求する。
「どうして、直近の彼氏とのやり取りを俺に見せなかったのですか? ――そもそも過去の動画でなくとも、その彼氏との会話内容…、トーク履歴でもよかったのではないかと思いますけれど……」
いいや。俺にそれを見せられるはずがないのだ。
モウラとのやり取りにおいて、恋人らしいものがあったとしても、それは過去のもの――さかのぼった際、その過去の日付が表示されてしまうものしかないはずだからである。
そもそも彼は、その男の表示名を『モウラご主人様』と設定していた。――彼氏?
まあ冗談のノリで、という可能性も思い当たらないでもないが、…少なくともユンファさんにはこの指摘のみで十分だろう。
「…………」
ユンファさんは少しの間黙り込んだが、何もかもを諦めた伏し目のうち、ほとんど捨鉢 になってこう観念した。
「貴方って…恐ろしいほど何でもおわかりになる方なんですね…。……そうです…、そう…――嘘です…。まさか彼氏なんか…本当はいません……」
「……、…――。」
そもそも俺はユンファさんが「恋人がいる」と言って直後、すでに彼の「嘘」が視えていた。――というよりか、焦ってなかば無理やりにも彼の瞳をのぞき込んだのだが、――すると彼の瞳には、その「嘘」のなごりが映っていたのである。
すなわちユンファさんとあのモウラとは、すでに破局している。
……では、なぜ俺がこのような回りくどいことをしたか。――それは、あのとき俺が即座「嘘だ」と図星を指しても、俺のその嘘をも見とおす「神の目」を知らない彼は、(往々にして嘘をついている人はそんなものだが、)まず「嘘ではない」と否定したに違いなかったからである。…そして、俺がまずそうして「嘘だ」と指摘するばかりでは、水掛け論的展開となってしまうのは目に見えていた。
しかし俺は、どうしてもユンファさんのその嘘を嘘であると暴 くべきだ、そう判断した。
エゴイスティックであることは自覚しているが、それでもユンファさんにこれ以上、俺の想いに応えるべきではない「理由」を与えたくなかったのだ。
まあ先ほどの動画にもあった通り、以前は一応は交際関係にあったようではあるが――俺にとっては幸いなことに、今のユンファさんを視るに、とまでもなく、あの動画の中の彼においてさえ、そもそもモウラに恋をして付き合ったようではない。
縋 りたかっただけである。
苦境の中に射しこんだ一条の光、その掴もうとも掴めない藁 に、彼はただすがっていただけである。――また今においても、モウラへの未練といったものは彼の中にかけらも残っていない。
それこそユンファさんは明確に、モウラとはもう「破局した」ものと認識している――まあドブネズミのほうはわからないが――。
そして彼の先ほどの涙の訳は、間違ってもモウラへの未練や恋心などによるものではなく、あの動画によって心の傷をえぐってしまったことによる、ある種生理的なものであった。それでも強いていえば、悲しみと痛みの涙である。
「まさか…いるわけないでしょう、」ユンファさんは目を伏せたまま、自分のことをそうあざ笑う。
「僕に彼氏なんかいるがわけない…っ、ちょっと考えたらそれくらい…」
「いいえ、俺は正直とても意外でした。…ユンファさんほど美しく聡明な方に、未だ恋人という存在がないとは…――しかし、そうした貴方に恋をした俺にしてみれば、それほど幸いなこともありません…、……」
と俺は言いながら、彼の両肩にかかる黒いチェスターコートの、その襟もとを両方引きよせ、彼の体をできる限りそれに包む。
「愛しています、ユンファさん…――俺は貴方のことを悲しませたそのクズの元恋人なんかより、…いいえ…この世の誰と比べられたところでも…――この俺の方が絶対に、ユンファさんを幸せに出来ます。…ですからどうか、心やすく俺と…」
「いいえ……」
しかしユンファさんは人形のような横顔を伏せたまま、吐息の声でそう否定した。
「僕は…幸せに…なれません…、馬鹿な、オメガだから……」
「貴方は馬鹿じゃない。――どうしてそうご自分をばかり責められるのです。…ユンファさんは何も悪くないじゃありませんか。…貴方の清らかな心を傷付けたその男が全て悪いのです。――逃した魚は大きい、といったところでしょう。」
さてそう言い切ったところで俺は、ユンファさんの欄干の手すりにゆるく置かれた、その生白い手の甲に手のひらをそっと重ね、やわらかく握りこむ。――見るからに血の気がうせて冷えているので、ひとまずあたためてあげようかと思ったのである。
「いいえ…、僕なんかを本当に愛してくださる人なんか、いません……」
……なおそう悲観的に言うユンファさんはなかば、わざと卑屈になっているところもあるのだ。――俺に呆れられ、鬱陶 しがられたい、…ひいては俺に、自分との交際を諦めさせたいからである。
それでいて本当は、俺の手のひらのぬくもりに、いじらしい幸せを感じている。彼の長いまつ毛の下で、小きざみに揺れているその紫の瞳は、幸せそうに微笑んでいる。――『あたたかい…、覚えておこう…明日が来ても…、彼のこの手のあたたかさを……そうしたら僕は、彼のこの手を思い出すだけで、ちょっと幸せになれる気がするから……』
「……貴方がご自分なんかは幸せになどなれない、とそう悲観的に思い込んでいらっしゃるとしても、…どうぞご勝手に。――この俺が絶対にユンファさんを幸せにしてみせます。もはや強制的にね。」
「……、…」
するととたんに、ユンファさんのその長いまつ毛の下で翳 る、濃い紫の光を失った瞳は、もはや何の幸せをも望んでいない。希望など見えていない。――彼が今見ているものはあくまでも「現実」だ。…今の自分の周りをとり囲む檻 、あのケグリどもがつくり出した檻のような「現実」である。
……俺は自分の両腕に力をこめながら、あえて彼の耳もとでやさしく微笑した。
「ですからユンファさん。今夜ばかりではなく、どうか今後も俺とデートをしてくださいませんか。」
「……デー…ト……」
ユンファさんはそう、口の中で無感情的にくり返した。――しかし俺は「そう…」と諦めず、彼のそのうつろな、俺の言葉が伝わっているのかどうかも怪しい真っ白な横顔に、こう言葉を継ぐ。
「行きたいところはありますか…?」
「……いいえ…」
「…そうですか。では、はじめの何回かは俺が張り切ってセッティングしますね。――そうだな…、……」
俺はふたつの瞳を横へ向け、少しユンファさんとのデートのイメージをふくらませる。ややあって、また彼のその無表情の横顔に目をやり、やさしい微笑をふくませた声でこう提案する。
「お紅茶にご興味は?」
「……紅茶……」
「ええ。…友人の一人がやっている、紅茶専門の素敵なカフェがあるのです。…高原地帯にあって、夏でもなかなか快適ですし…――何より草原の花々や湖畔 など、豊かな自然の中にあるガゼボで、お紅茶が愉 しめる。――初めてのデートはまず、アフタヌーンティーなんて如何 でしょう。」
俺のこの提案に、ユンファさんはほとんど無表情のまま、またその長いまつ毛を伏せたまま、小さな声でこう答えた。
「素敵…ですね……」
「……、…そうでしょう…?」
彼のその返答は、どこまでも他人事のそれであった。――俺の頭の中にはその英国的なガゼボ(東屋 )の下、もちろんユンファさんと俺が並んで座り、アフタヌーンティーを楽しんでいる。
……ところがユンファさんの頭の中のイメージでは、俺の隣に自分はいない。…それどころか、何もイメージはされていない。ほとんど社交辞令で「素敵」だと言っただけである。
「…太陽の下で微笑む貴方は、さぞお綺麗でしょうね。――ふふ…、勿論、月の下にいる今の貴方も大変お綺麗ですけれど……」
まさに月下美人…――事実、この月明かりの下ではなおその白皙 が際だつユンファさんは、大そう美しかった。
だが、太陽の下で楽しそうに笑っているユンファさんも、俺は見たいのだ。
「…いいえ……僕…綺麗じゃありません…」
「貴方はお綺麗ですよ。…それとも何ですか、やはり実はお紅茶がお嫌いであるから、そうして暗に断っていらっしゃるの…?」
「…いいえ……」
ほとんど心ここにあらず、というふうに、そうどこか機械的に答えるばかりのユンファさんであったが、…ほろ、とまた片目から涙をこぼし、そしてほのかに微笑する。
「…いいえ、素敵です…、…とても……」
「ユンファさん、その時は俺と一緒にお紅茶を選びましょう。」
俺はあえてそう言った。強調したのである。
ユンファさんと、俺が。――というのも、彼の中には俺の語ったデートのイメージがあった。…ただし「何者か」が介在している。すなわち俺の隣に座っているのはユンファさんではなく、彼はそのガゼボの外で、俺と「俺にふさわしい誰か」とが、仲睦まじく寄り添いあっているのを眺めているだけであった。
しかし俺の強調は幸い奏功し、その「何者か」を退治した。
ユンファさんはその伏し目をキラキラと輝かせながら、やはりほのかに微笑して、ささやくようにこう言う。
「一緒に…、……貴方と……僕が……?」
「…そう。俺とユンファさんとで、一緒に。――あぁ失礼、俺はまだ言っていませんでしたね。…そのカフェ、当然紅茶専門店ですから、アフタヌーンティーセットのお紅茶も選ばせてくれるのです。…」
と俺は柔らかい声でたのしそうに話す。
「それこそ店内の棚には何百種類とお紅茶がありますけれど、しかし、ユンファさんがお紅茶に詳しくなくとも別段問題はありません。――これでも俺は結構詳しい方ですし、何よりその店のオーナーは、詳しくない人のことも決して馬鹿になどしませんから。」
「……、…」
ユンファさんのその青ざめた肉厚な唇の端が、もう少しだけ上がる。
「それにね…ふふ、寧ろ詳しくない人に対しての方が、あのオーナーは張り切ってお紅茶を勧めてくれるような人です。――気になったものはどれでも試飲させてくれますので、それによってユンファさんが美味しいと単純に感じたお紅茶を頼めばよいだけのこと…、寧ろ悩んで悩んで、今の気分にマッチした美味しい一杯を選ぶのもまた、楽しいかと。」
「……楽しそう…ですね……」
俺は「そうでしょう」と答えた。
ユンファさんの伏せられた紫の瞳に、やっと俺と彼とが二人でデートをしているイメージ――そうして俺と何百種類の中からいくつかの紅茶を試飲し、笑い合っているイメージがうかんでいる。
……そしてユンファさんはガゼボの屋根の下、俺と並びあって座り…――遠くのどかな美しい湖を眺めながら、ティーカップを両手でもち、先ほど実際にしたように、とん…と俺の肩に頭をあずけた。
「……、…」
ほろ、とまた彼の伏し目から涙がこぼれおちた。俺は危機感を覚え、慌ててこう続けようとした。
「…それに自分で選んだお紅茶に合うデザートやサンドイッチなども、おすすめをと注文すれば、合わせて提供してくれ……」
「ですが……」
と夢から醒 めたユンファさんの、その横顔から微笑がかき消える。
「そんなに素敵なデート、分不相応ですから、僕には…――つまらないかと、僕なんかとでは…、……それに…――貴方が…恥ずかしい思いをされてしまうと思います…、だから……」
「どうしてつまらないなんてことがあるでしょう! あはは、――愛するユンファさんと過ごせるだけで、俺はとても楽しくて幸せですよ。…今も勿論。…そもそも貴方が、俺とのデートで何かをしてくださる必要などありません。――貴方ではなく、俺が。手を尽くし、ユンファさんを。そのデートを以 て楽しませるべき立場にあるのですから。」
俺はあえて明るい声でそう言った。
「それに、どうして俺が恥ずかしい思いをするのでしょうか? 花も恥じらうほど美しいユンファさんの隣に並べる光栄は、却 って、俺の男としての誇りを十二分というほど満たしてくれることでしょう。」
「……、…」
ユンファさんの眉尻が下がり、しかし彼はその唇をにこっと笑わせた。
「貴方は…本当に、素敵な人ですね……」
ふわり…冷たいそよ風が彼の黒髪をたゆたわせる。
「…本当に…、……貴方に恋をする人は、たくさんいらっしゃることでしょうから……」
僕だけではなくて…――僕よりももっと素晴らしい、貴方にふさわしい人も、貴方に恋をすることでしょうから……、…ユンファさんはその紫の瞳に、諦観した恋心をやどしてそう言ったのだ。
「ですから…他の方にそう言って差し上げてください、どうか…――どうか…、他の方に……」
「俺はユンファさん以外にこんなことは言いません。…言いたくないからです。――貴方以外の他の誰かなど、俺は愛していないからです。」
と俺はなかば意地になって答えた。…彼はふ…と顔を上げ、その潤んだ蒼い瞳で夜空を遠く見上げた。
「でも…綺麗な星はあんなにたくさんありますから…」
「俺にあんな星屑 共を愛せと仰言いますか。」
もちろんユンファさんは、自分よりももっと素晴らしい人は星の数ほどいるのだから、という意味でそう言ったのだ。――だが俺は「月」が欲しいのだ。
「俺は言ったはずです。――ユンファさんは俺のblue moonなのだと。」
「……、…」
ユンファさんは蒼い月のような瞳をつともう少し上げ、わずかに欠けた月を見やる。
「今日は〝十三夜月〟ですね。」と俺もその月を見上げて言う。
「満月に次いで美しいとされている月です」
「……そう…なんですね……」
俺はユンファさんの耳もと、「ええ…」と深い声で言い換える。
「つまり、あれは所詮貴方よりも美しくない月だ、ということです。…ユンファさん……新月のように、自分の恋心を闇の中に隠そうとしても…――その黒く塗り潰されている新月の裏で、その実月は満月になっているもの……」
新月とは、月を明るませる太陽と月が重なることによって起こるもの…――つまりその黒い月の裏側は満月になっている――地球から見上げる人間の目には新月としか見えない。しかし全てを見透す神の目には、満月とも新月とも視えている。
「…それどころか…地球から見える満月よりも強く輝き、またより熱くなり…――恋い焦がれてやまない太陽と、今までで一番近くにいられることを…、また太陽と至近距離で見つめ合えることを、太陽のその直 というほどの熱情を…――月はその黒く塗りつぶされた心の裏で、本当は大そう喜んでいるのです……」
「……、…、…」
ユンファさんはハッとした顔をたちまちしかめ、自分の心を見透かされているその恐怖から、またさっとうつむいた。
「ねえ、どうして俺ほどの太陽の男が、星屑や十三夜月などとデートをしたいと思うでしょう。――俺が見つめているのは貴方という蒼い満月だけだ。」
「……、え、ええ…。貴方ほど素敵な人に…恋をする人は、たくさんいらっしゃるはずです…」――ユンファさんは儚い声でそう言うと、ふと目を閉ざした。
「貴方が星屑だと思っている人の中に…、その中にはきっと…本物の、貴方の月もいる…――ですから目を開けて…、よく見てください…。そんなことを言ってしまったら…貴方に恋をした方が、お可哀想ですから…」
「目を塞いでいるのは貴方だ、ユンファ。」
……いいや、彼は「盲目的リアリスト」に過ぎない。――かえって直視しすぎているのだ。自分を取り囲む「檻」、その「虚構の現実」を。…今の彼の目には、その檻の外は、そこに広がる「本物の現実」は、見えていない。
「好きな人にこうしてフられ続けている俺が可哀想ではないとでも? 何なら俺が一番可哀想でしょう。――どうか俺の愛を疑わないで。…俺は本気です。――本気で貴方だけを求め、愛しているんだ。」
「……、…」
……ユンファさんはふと目を開け、おもむろに俺に振り返った。
しかし彼は壊れそうな微笑みをたたえ、うつろな瞳で俺を眺めながら、こうささやくように言った。
「無料で…セックスが…したいんですか…」
「そんなわけないでしょう。…俺はそんな下劣な想いで貴方とデートがしたいわけではない。――いいでしょう…、だが貴方がどうもそう思われてならないようであれば、神に誓ってお約束します。…ユンファさんご自身がお許しなられるまで、俺は貴方のことを決して抱かない、とね。」
「……それでは…、どうして……?」
とユンファさんはうつろな微笑を、少しだけ傾けた。――もうわからないのである。
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