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結局――追い出されてしまった。
「ふっ…ククククク…、……」
俺は暗いグリーンのスーツを身に着け、ステンドグラス前のソファの背もたれにひらいた両腕をのせて、脚を組み、すわっている。なお仮面は片手にもっている、つまり今は顔にそれをかぶせていない。
……追い出されてしまったのだよ。――ユンファさんに、浴室から。
それは無論、俺が鼻血を出したせいである。
まあ、ちなみにもちろん血まみれの顔は洗ったし、鼻血ももう止まったのだが。
ユンファさんは俺のことを心配してくださったのだ。――それで彼は動揺はしつつも、ここは俺の(体の)ために冷静な判断をくださねばならない場面だ、と努めてこう言った。
〝「あのっ…鼻血が出ているときは体を温めてしまうとよくないですから、…シャワーで泡だけ流して、どうかもう上がってください、――何なら一緒に…」〟
しかし俺はこう返した。
〝「いえ、ご心配には及びません。…経験則からいって、これくらいなら放っておけばそのうち止まりますよ。――そんなことより…せっかくですから、一緒にお風呂に浸かり…」〟
〝「っ駄目です! そんなの駄目に決まっている、…体を温めたら血が止まらなくなってしまうんですから、…」〟――俺は彼に叱られた。
俺としては一緒に湯船につかっていちゃいちゃしたかったのだけれど……しかしそこからのユンファさんは駄目、早く上がってくれ、の一点張り――となれば俺は致し方なく、結局わかりました、それでは…と先に上がることを彼に伝えたが、その前に洗えていなかったところを自分で洗い、それから泡をしっかりと流して先に浴室を出た。
なお一緒に上がろうか、と言ってくれていたユンファさんには、いいえそれには及びません、どうぞあの素敵なジャスミンのお風呂にゆっくりと浸かられて、貴方はお体をあたためてからいらして、…と言い添えておいた。
「……、…」
俺はソファの背もたれに後ろ頭をあずけて、ぼんやりと勾配 天井にひろがるプラネタリウムの夜空を見上げ――それから顔は仰向かせたまま、片手に持っていた仮面を目線の位置にかかげ、そのマネキンのような仮面の顔を下からながめる。
……存外、これの鼻の穴から血が流れ出るわけでもないのだな…? ――意外。
いや、そんなことはどうでもよいのだよ。
「…………」
今夜のことは、「カード」になり得るだろうか? と仮面を眺めながら考える。
一夜の夢――今宵に芽生えた宿願の恋心――感謝、崇拝、安心、信頼――嘘と真実、真実の愛と盲目的リアリスト――交わされた二つの約束――神の祝福、願い、祈り――この甘い蜜月の夜の夢、その閉鎖的な城、あるいは牢の中に閉じ込められた二人の行く末は、現実か、はたまた夢の続きか……。
夢というものはおそろしく魅力的である。
夢の中であれば誰もが思うままの選択をすることができる。――夢の中では、何もかもが叶う。
そして朝がくれば、全てが無かったことになる。
どれほど凄惨な悪夢だろうが何だろうが、夢が夢である以上、それを見ている者はあくまでも安全――夢の中というのは、絶対的な安全地帯なのである。
ユンファさんが俺の「本当の恋人」になってくださったのは、あくまでもこの今が「夢」であるからだ。
そしてこの俺が、「夢」であるからだ――。
「……、…」
この虚偽の仮面なくして俺は、今宵というほとんど虚構の時をなくして俺は、初恋の美男子の「本当の恋人」になることはできなかった。
しかし――もちろん今宵は、俺は、「本当の夢」ではない。…朝陽に照らされても今宵の記憶は美男子のなかに残り、俺はその人のなかに存在しつづける。
十分カードになり得るだろう。
少なくとも俺はユンファさんの恋心を得た。
……とは、いえ…――。
「……ふぅ…、……」
俺は目をつむり、仮面を持っている手をまたソファの背もたれにのせ直す。
――先ほどにも考えついたことであるが、ユンファさんの恋心を得ていてもなお、やはり彼とはまずは「恋人契約」を締結するとしよう。
そしてその「恋人契約」の過程で彼の心変わりが望めなければ、おいおい「婚姻契約」も、そうして契約上であろうがさっさと籍を入れてしまえばこちらのもの…――。
それはなぜか?
俺のもとへユンファさんをとどめ置く理由付けにしては、単なる俺への恋心だけであるとどうしても弱いからである。――需要と供給、損得、そうした明確なメリット・デメリットが存在する理由づけが必要だ。
……先ほどもユンファさんは、それというだけでは俺のもとへ来ることを拒否している。
また、多額の借金を完済するだの現在の苦境から救い出すだの、というのを俺がする理由には、何かしら俺にメリットがなければならない。――今のユンファさんは、俺がそれをする理由が「愛しているから」というだけでは、たとえそれが俺にとっての真実であろうが、過去の経験からどうしても疑義をいだくようになっている。
……しかしそれも契約であれば、何かしら対価を得られるからそうした、と納得してはもらえるはずだろう。
――だから「契約」が必要なのである。
またかつ、たとえばはじめこそ「恋人契約」を締結、そのまま俺の家へ――その際には俺が彼の借金を全額返済、くわえて彼のご両親の生活も保証、もう貴方はケグリどもの性奴隷ではない、さあこれで貴方の背負っている、そのあまりにも重すぎる肩の荷はすべて下ろされた――、そしてのちに種明かし、契約なんてもう必要がない、いよいよお互いの「想い」だけで恋人に、伴侶に…と、そこまでやっても……。
おそらくユンファさんは契約なくしては、やすやすと俺の恋人になってくれることはないだろう。結婚なんておよそもっと渋られるにちがいない。
それは俺が――正体不明の男・カナイではなく――九条 ・玉 ・松樹 だから、である。
今のユンファさんの自尊心は傷だらけ…――いくら彼もまた五条ヲク家の高貴な血を引く身分にあろうが(まあおそらく彼自身は知らないことだろうが)――性奴隷とされてしまった過去、性奴隷の証を刻みつけられた体、そしてその精神はどこに在ろうと引き続き、そう簡単に消えるものではない。
何よりケグリのもとから離れられ、その男の性奴隷ではなくなったとしても、彼の精神にこびりついたケグリの支配という穢れもまた、そうやすやすと洗い流されるものではない。――すなわち、ケグリが彼に仕掛けたマインド・コントロールは、離れようともそう簡単には解けない。
すると、そうしたユンファさんにとっての九条 ・玉 ・松樹 は、そしてその男との恋愛および結婚というのは、大そう受け入れがたいものなのである。
自分は俺にふさわしくない。
たとえこの体にどれほど高貴な血――九条ヲク家の俺とつり合う五条ヲク家の血――が流れていようとも、自分が性奴隷であった過去が消滅することはない。
どれほど俺に強く、どうしようもなく、おそろしくなるほど惹かれていようが――どれほど俺の恋人に、伴侶になりたいと自分の心が叫ぼうとも――自分がそんな向こう見ずな幸せを掴むより、愛した俺が不幸にならないこと、…ひいては過去も体も顔も血統も、自分よりもうんと「綺麗な人」と、愛した俺が幸せになること…――好きな人が幸せになれること――自分にとってはそのほうがうんと重要だ。
そのほうが僕も、きっと幸せだ…――。
……そういう人なのだ、ユンファさんは。
愚直なまでに誠実、神聖なほど心清く、慈悲と慈愛に満ちた人――利他的もすぎるほどの自己犠牲をもって、彼は今もなお愛する両親のために孤軍奮闘している。…つまりユンファさんの幸福の基準は「自分の」ではなく、「誰かの」なのである。
ましてや今のユンファさんは、自己犠牲を強いられて当然の環境におかれ、自分の幸せなど一抹も考えられない精神状態になっている。――彼は誰かの幸せを願い、叶えようとそのために今も身を切ってはいるが、一方自分の幸せのことなどは少しも考えていない…いや、考えられない、考えるだけ無駄な、かつそれを許されない環境下におかれている。
そうしたある種感覚の麻痺している今のユンファさんは、自分が幸福になることをほとんど恐怖症のレベルで恐れ、無意識に避けてしまう。
幸せを感じたとき、それを受けとる権利は自分にはない、とそもそも彼は考えがちであるし――そして、今は幸せであっても一寸先は闇……どうせまた裏切られる、どうせまた不幸になる、…と目の前の幸福を疑ってかかってしまいがちで、…ましてや、(両親を差し置いて)自分だけが幸せになることは許されない、と、…つまり今の彼は、自分が幸福になることが恐ろしいのだ。
幸福になることが怖い、というのは、一見すると奇妙かもしれないが…――それも彼の精神に「お前は幸せになどなってはならない」とすり込んできた、ケグリのマインド・コントロールのせいなのである。
恐れから自分が幸せになることを無意識的に拒んでしまう人――するとそれもあっては、俺への愛という気持ちだけでは、いよいよ彼は交際にも結婚にも踏み切れまい。
……したがって、まずは「恋人契約」を締結する。
俺の最終目的は言うまでもなく、ユンファさんと結婚をすることだ。そして前にも思うとおり、「お友達から」では埒 が明かないし、非効率的である。スタートラインはやはり「恋人から」であろう。
ただし契約を締結するにおいては、むしろ今夜のことは伏せておいたほうが都合がよい。
……明らかにおかしいではないか? ――それこそさんざ恋人になってくれ、結婚してくれと言いつのってきた男、それもその執念の結果、今夜ばかりであってもユンファさんと「本当の恋人」になった俺が――再会の折に「恋人契 約 」を持ちかける。
それこそ初対面同士という体 でその話をもちかけなければ、意味不明だ。――かといって、単に「恋人になってください」と持ちかけても、先にも思うとおり、十中八九彼は応じやしないだろう。…もちろん俺としては、後者で行きたいところではあるけれどね……。
しかし…――そもそも、どこまでユンファさんに俺が「カナイ」であることを気づかれずにいられるか、…それが俺の意図したタイミングかつ方法であればよいが、今宵に俺が隠せているのは結局、この顔と名前くらいのものである。
……声、話し方、そしてこの水色のアクアマリンの瞳、プラチナブロンド、体格…――必ず合致するそれら記号をもってしては、彼が賢いというのもあって、およそそうかからず気づかれよう。
すると悪いことに、俺はユンファさんの不信を買ってしまうかもわからない。
結局は最初からユンファさんの何かしらを利用するために、すなわち今夜というのはその利己的な「契約」を結ぶための前座であり、下ごしらえであり、――やっぱり自分なんかに本当に恋をしてくれたわけではなかったんだ…――彼にはそう思われかねない。
そうなれば深く傷つけてしまうことだろう。
俺の愛も、疑われてしまうことだろう――。
しかし契約を持ちかけずして、どうしてユンファさんが俺のもとへ来てくれようか?
……あの夜に俺たちは「本当の恋人」になったじゃないですか。貴方は「今夜だけ」とおっしゃったけれど、俺はそんなつもりではなかったのです。――貴方を愛している。だから助けたい。俺と一緒に来てください。
貴方を誰よりも愛している――だから、俺と結婚をしてください。
「……っふぅー…――。」
ユンファさんの拒絶は目に見えている。――今夜の彼がよい例である。
……それで上手くいくのなら俺だってそうしたいのは山々だが…――悠長なことは言っていられない、……俺は眉をひそめながら目を開け、月のない偽りの夜空へ片手をのばす。
早々に、確実にユンファさんをケグリの元から引き離し、救わねば――そして俺は早々に、確実に、
「貴方と、結婚をしなければ、……っ俺は死ぬしかないのです、…」
俺の筋ばった象牙色の手の甲は、カタカタと震えている。
だから契約しかない…――どうであれひとまずは、ユンファさんと籍だけでも入れられてしまえばこちらのもの……――絶対に御免 だ、…俺はまだ死ぬつもりはない。幸せになりたい、…生きて、幸せになりたい。
だかもしユンファさんと、結婚できなかったら?
「……、…」
俺らしくない悲観だけれど…――伸ばしていた片手をおろし、その手の甲を目もとにあてがって、そっと我が目をふさぐ。
……善処はする。だけれど、それでも叶わぬ夢だというのなら…――生きている意味なんか、ないもの。
「でも、せめて…愛する貴方を地獄から救い出してからでなければ、ね…――貴方を自由にしてあげる…。せめて貴方の幸せの土台だけは、整えてから……」
少なくとも「恋人契約」を結ぶ過程で、その土台は整えられることだろう。――そのあとは……、どうなることやら知れないが…――少なくともいずれ俺は、貴方を傷つけてしまうことだろう。
それでも俺の真の目的は、間違っても初恋の美男子にして、俺の唯一無二の月の男神――月下 ・夜伽 ・曇華 を我が手中におさめること、…すなわちその美男子との結婚、ひいては名実ともに「つがい」となることである。
……それこそが、俺の幸せだから――。
「……、…」
俺はろくでなしだな。
……そっと自分の顔に仮面をかぶせる。
今の俺は「カナイ」だ。
今の俺の顔は、この仮面である。
キィ…――脱衣場の扉が控えめにひらかれた音に、寄っかかっていたソファの背もたれから起き上がり、ふとそちらへ顔を向ける。
そこから俺のもとへ歩いてくるユンファさんは、…とても美しい格好をしていた。
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