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第1話
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坪庭に置かれた石造りの常夜灯が、初夏の闇にゆらぐ。
開け放った障子にもたれ、佐和紀(さわき)は水割りの焼酎を飲んだ。遠く、かすむように三味線の音が聞こえてくる。京都の夜には独特の味があった。
「酔ったんか?」
低い声の関西弁に呼びかけられ、視線をちらりと投げる。ネクタイもはずした袖まくりのワイシャツ姿でしゃがんだ相手は強面の美園(みその)だ。
高山組(たかやまぐみ)系阪奈会(はんなかい)・石橋組(いしばしぐみ)組長・美園浩二(こうじ)。眉間に刻まれた不機嫌そうなシワが、がっしりとした広い肩と相まって男の渋みを醸している。
「まだまだ、酔わない。横澤(よこざわ)さぁん、おかわりくださぁい」
美園に答え、肩の向こうへ甘えた声をかける。腕をチノパンの片膝へ投げ出すと、小さくなった氷が涼しげな音を鳴らす。
京都市内にある料亭は全室個室で、古い建物でも手入れが行き届いている。
磨きあげられた柱は美しく光り、毛筆の掛け軸がかかった床の間には花を挿した箔散らしの清水焼が置かれ、部屋の外、夏に向けて咲き揃う庭花にも、ひっそりとした風情がある。
「俺がしましょう」
上座で腰を浮かそうとした男を手のひらで制し、別の男が座椅子から立った。佐和紀のそばまで来る。
細身の三つ揃いは上品な青で、ストライプのシャツとネクタイも同系色。さっぱりと刈り込んだツーブロックのヘアスタイルはスマートで都会的だ。
佐和紀からグラスを受け取る瞬間に、爽やかなシトラスとネロリが香る。
桜河会(おうがかい)若頭補佐・道元(どうげん)吾郎(ごろう)だ。
三十代半ばの彼は京都のヤクザで、四十代半ばの美園は大阪のヤクザ。相反する男振りは新旧のヤクザそのものだが、両者ともにヤクザ社会では若手に入り、『若手のホープ』そして『関西のエース』と呼ばれるふたりだ。
「焼酎。濃くして」
水割りを作る道元の視線が上座へ向かい、伺いを立てられた横澤が首を横に振る。佐和紀の要望は却下だ。
サイドで分けて軽く撫でつけたヘアスタイルと、落ち着きのある物腰。ライトグレーのスーツは三つ揃えで、ベストは合わせが深いダブル仕立てだ。淡い藤色と白のストライプシャツにベストのボタンと色合わせしたダークグレーのネクタイが全体をまとめている。
横澤政明(まさあき)。事業の失敗で関東から流れてきたというわりに、金回りはすこぶるいい。高山組系阪奈会・葛城組(かつらぎぐみ)に客分として身を寄せ、佐和紀を囲っている。つまり、愛人関係だ。しかし、ふたりの間に肉体関係はなく、キスさえしたことがない。
「なんもなぁ、別れることはなかったやろ」
自分のグラスを取って戻った美園が、縁側近くの畳に腰を下ろしながら言う。遠慮のない視線に晒された佐和紀は、アルコールが入って潤んだ瞳をついっと細めた。
岩下(いわした)。数ヶ月前までは、そう名乗っていた。
男ながらに『嫁入り』した相手が、関東一の大組織・大滝組(おおたきぐみ)若頭補佐のひとり、岩下周平(しゅうへい)だったからだ。茶番劇から始まって五年続いた結婚生活は、六年目を迎えることなく、去年の冬にピリオドを打った。
佐和紀はいま、旧姓の新条(しんじょう)を名乗っている。ふたつ名は『花牡丹(はなぼたん)のサーシャ』。
横澤の愛人になるまでの間、花牡丹の刺繍が入った別珍のスカジャンを着て、大阪のチンピラ相手に暴れ回っていたがゆえの通り名だ。
春が過ぎてスカジャンを着る機会が減っても、脱色した金髪と眼鏡がトレードマークになっているから、呼び名は変わらないままだった。
「まさか、ほんまに、そうなったんやないやろ?」
あぐらを組んだ美園が意味ありげに笑う。
「ないなぁ。形だけ……」
美園の関西弁を真似た佐和紀は、盆の上から道元が作ったばかりの水割りを取る。持ってきたのは横澤だ。『金のある流れ者』は仮の姿で、正体は元世話係の岡村(おかむら)慎一郎(しんいちろう)だ。周平と別れて関西へ流れた佐和紀を追いかけてきた。
「ホンモノの愛人は、お忍びで来てるんでしょう」
片手に瓶ビールを提げた道元が近づいてきて話に混じる。
グラスをふたつ持ち、横澤を装う岡村へひとつ渡してビールをつぐ。
「なんや。そういうことか。道理でな。当たりが柔らかいわけや」
周平の反応を思い出したのだろう。美園が陽気に笑う。
「言うても、そう頻繁には来られへんやろ。どうなんや。我慢できるんか」
男同士の気楽な物言いだったが、佐和紀の斜め後ろが不穏だ。美園はすっかり横澤を無視してニヤリと笑う。
去年の晩秋に別れた周平と再会できたのは三月の終わりだ。桜が咲く頃だった。あれから一ヶ月と少し。周平と会ったのは二回。相手の忙しさを考えれば、多い方だ。
「思い出を食べて生きてるんだよ。……そっちだって、同じだろ?」
佐和紀はなにげなさを装って口にする。
美園の『愛人』は、真幸(まさき)という名前の男だ。いまは周平が預かり、横浜で生活させている。ふたりは、佐和紀と周平以上に会うことが難しい関係だった。
「高山組は、阪奈会を中心にまとまることで決まったようですね」
話を変えたのは岡村だ。
「筆頭は生駒組(いこまぐみ)ですか」
美園は酒を傾け、物憂い顔で言った。
「そうや。実質は石橋組(うち)が仕切ることになる。真正会(しんせいかい)は、下に潜って、離脱派の派閥を作っとるな」
分裂が危惧されている高山組のパワーバランスは、まだ決定的になっていない。
名古屋地区を拠点とする真正会が独立したがっているという噂は以前からあり、大阪地区を拠点とする阪奈会(生駒組・石橋組含む)が、組織の崩壊を防ぐ地固めを行ってきた。
そしてついに、阪奈会の対抗勢力となるべく、真正会が引き抜き工作を始めたのだ。
「昔ほどの派手な抗争にはならんやろ。警察が手ぐすね引いて見てるしな。そのせいで、半グレが威張ってしょうがあらへん。高山組の執行部の意向は『穏便に』の一点張りや……。真正会だけが、するっと抜けてくれたらええんやけど。そうもいかんな」
ある程度のまとまった数にならなければ、真正会も抜けた後が危うい。
高山組は日本一大きい指定暴力団だ。裏切りの報復は、徹底的に行われるだろう。
「俺、いなくてもよくない?」
佐和紀が言うと、片膝に頬杖をついた美園は薄く笑った。
「派手な抗争にはならんだけで、小競り合いはいくらでもある。まぁ、大阪見物でもして、もう少し遊んどいてくれや」
「いい加減なこと、言うなよ」
佐和紀も薄ら笑いで答えて酒を飲む。
腕っぷしの強さを期待され、美園と道元には幾度となく関西へ誘われた。名を上げることを猛烈に求めたわけではない。ただ収まりのつかない激情を持て余しただけだ。
世話係だった若い知世(ともよ)が傷つけられ、過去の因縁を持った西本(にしもと)直登(なおと)に請われ、鉄火場を求めた佐和紀を周平は止めなかった。代わりに突きつけられたのは離婚届だ。
衝撃の重さをいまさらに思い出し、佐和紀はくちびるの端を片方だけ引き上げる。坪庭へと視線を向けた。景色は陰影の中だ。隅の方は闇に落ちて、はっきりと見えない。
誰も声を出さなかった。しんと静まった和室の空気が、庭先に吹く風と入れ替わり、岡村が煙草と灰皿の乗った盆を持ってくる。水割りと煮物の鉢が下げられ、差し出された両切りの一本を受け取った。
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