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第2話

「あいつらと合流したら、すぐに忙しくなると思ってた」  助手席に座った佐和紀は、シートベルトをはずす。街灯を避けた道端でヘッドライトを消せば、相手の顔を見るのがようやくの暗さだ。 「映画の世界の話ですね。この世界も、基本的には地道な交渉の積み重ねです」  笑った岡村が、封を切った煙草の箱と封筒を重ねて差し出した。 「……ありがと」  受け取ったのは、いわゆる『お手当』だ。サーシャを愛人にしている横澤は、毎週二十万を包んで渡してくる。月額にすれば百万円近い金額が専属契約の代金になっている。 「ぜんぶ渡してはダメですよ」  岡村に釘を刺されたが、佐和紀は答えない。煙草の箱に残った本数を確かめる素振りで聞き流した。  箱の中は、いつも通り、いま吸ったばかりの一本が抜かれているだけだ。 「佐和紀さん」 「サーシャだ。サーシャ。横澤さん。それらしく行こうよ」  身体ごと向き直り、片腕を伸ばす。岡村の肩に載せて、指先でうなじをなぞる。  ぞくっと震えたのがわかり、佐和紀は静かに身を寄せた。  関西ヤクザの情勢は、水面下で動いている。ふた昔も前なら、血で血を洗う抗争が巻き起こり、大阪決戦ふたたびと言われるところだろうが、いまはもう法律がそれを許さない。  かといって、話し合いで穏便に済む世界でもなかった。  美園が警戒しているのは、火種が弾け、報復合戦が始まることだ。抗争まで行かない小競り合いの応酬は必ず起こる。  その飛び火が高山組の執行部に移れば、一大組織が総崩れになってしまう。  食っていけずに廃業していき、一般社会が望むように、ヤクザすべてが絶滅すればいいのかもしれない。しかし無理な話だ。野放しになった犬が総崩れ後の遺産を食い合っているうちはいいが、やがて飢えが広がる。そのときには統制など取りようもなくなってしまう。迷惑をこうむるのは、やはり一般人だ。 「香水を変えたのって、いつ?」  深みのあるスパイスに加えられた花の香りが、じんわりと甘く感じられる。 「出会った頃から。……連れて帰りたいな」  横澤の口調がかすれ、耳元へ息が吹きかかる。  周平の舎弟として世話係を務めていた岡村は忠誠心と朴訥が売りで、自我や素の姿はめったに見せなかった。それが岡村の処世術だと周平は知っていただろう。  肩をすくめた佐和紀は目を細めて笑いを噛み殺す。洗練されて謎めいた横澤はまるで別人格だ。 「朝帰りは、月に二回まで。そういう約束だろ」 「それが、俺のための時間ならいいのに……。これは、きみの遊び代に」  スーツの内ポケットから取り出したのは、折りたたんだ紙幣だ。佐和紀に渡したばかりの煙草の箱を取り戻し、中に紙幣を押し込んで返してくる。 「あんまり、無茶なことはしないようにね」  そっと頬を撫でた手が、名残惜しそうに遠ざかる。 「いまんところ、あんたのモノだしな。傷がつかないようにする」  チンピラとのケンカは、横浜にいた頃からの娯楽だ。佐和紀からケンカを売ることはないが、買って欲しそうにしていれば素通りできなかった。大阪でも、街をまっすぐ歩くことは難しい。 「近々、『身体検査』があるからね。特に気をつけて」  岡村に言われ、佐和紀は目を見開いた。 「都合がついたと、連絡が……」  苦笑を向けられ、素直に微笑んだ。『身体検査』は文字のごとく、身体の隅々までを検査される日だ。もちろん、行うのは周平で、無茶なケンカでケガをしていないか、欲求不満で浮気していないか。ありとあらゆる言い訳をつけて、余すことなく確かめられる。  月に二度の朝帰りは、周平と過ごすための時間だった。忙しいスケジュールをやりくりして出かけてくる横浜の若頭補佐と、朝までしっぽりと抱き合うのだ。 「わかった。じゃあ、またね」  軽い口調で言って、佐和紀は車のドアを開けた。  深夜を回った薄暗い路地に人通りはなく、生活の拠点になっているマンションはすぐそこだ。繁華街からほどよく離れて立地がいい。日中は築年数の深さが一目でわかる建物だが、古くさいレトロさに味がある。  オレンジ色の明かりが漏れるエントランスへ近づくと、茶髪の男が携帯電話をいじりながら出てくる。佐和紀に気づいて眉根を開いた。 「遅いね。ずいぶん、待たされた」  佐和紀の手に封筒を見つけて軽薄に笑う。するりと抜き取られた。  封筒の中身を確かめる木下(きのした)知之(ともゆき)はこざっぱりとした顔だちの青年だ。髪は襟足を長めに残してラフに切り揃えられ、耳元にはフープのピアスがついている。  ヤクザと関わるチンピラには見えず、街の遊び人がいいところだ。 「今週も二十万! やっぱり美人はいいよね。金になる」  封筒の中身を十枚数えて抜き、ふたつに折る。自分の綿パンのポケットへ無造作に押し込みながら、残りの入った封筒を佐和紀に押しつけた。 「残りは、いつものとこに入れといて。今日もごはんだけ? やり手すぎるだろ」  佐和紀の匂いをわざとらしく嗅いだ木下はケラケラ笑う。  佐和紀が横澤の愛人となり、毎週決まって金が入るようになってから、木下は金を取りにくる以外にマンションの部屋へ寄りつかなくなった。 「ナオは部屋にいるよ。サーシャが戻るまで寝ないってさ。あっちにもこっちにも愛されてるよなぁ、サーシャ。……俺も、大好きだ」  肩を抱かれそうになり、胸を押し返す。 「おまえの愛情は高くつくからヤダ。コンドーム、使えよ」  エントランス前の階段を下りる木下に念を押す。 「えー、やだぁ」  わざとらしくふざけた声を返したかと思うと、木下は眉をきりっと吊り上げた。 「俺はいつでも男らしくナマって決めてるんだ」 「……性病をもらってくるバカが言いそう」 「誰、それ」  もらった病気が全快したしたばかりの木下は小賢しく、幼稚なチンピラよりも悪質だ。 「サーシャ。おまえってさ、不思議なんだよな。女と違う色気……、なんていうのかな、はべらせてみたいって感じがする。虎を飼う、みたいな」 「誰が猛獣だよ」 「ぴったりだろ? 仕事じゃなくても、ケンカしてくるし。体力ありすぎ」 「だから横澤と寝てんだろ。バーカ」  ベッと舌を出してみせ、踵を返した。木下を置き去りにして、エレベーターで八階へ上がる。廊下をまっすぐに歩くと、三人で暮らしている部屋は真ん中あたりにあった。両側は事務所として使用されているらしく、深夜は人がいない。  ドアに鍵はかかっておらず、開くと玄関の明かりが漏れてきた。 「ただいま」  声をかけるのと同時に、廊下寄りの部屋から直登が顔を出す。 「おかえり、サーシャ」 「トモに下で会った。ごはんは食べた?」  話しながらリビングへ向かうと、直登は犬のようについてくる。印象的な高身長を屈めて歩くのが悪い癖だ。背筋がピンと伸びるのは、木下が持ち込んだ仕事で人を殴るときだけだった。 「バイト先で食べた。天丼だったよ。サーシャは?」 「俺は、懐石料理ってやつ。刺身と煮物がうまかったな」  答えながら、封筒をビニール袋に入れた。米びつを開けて、白米の中に押し込んで隠す。 「今度、おまえも行く?」  顔を覗き込むと、直登は怯えたようにあとずさる。佐和紀は木下の言葉を思い出した。  横澤の匂いがついていることに、直登も気がついたのだろう。 「シャワーを浴びてくる。そしたら、ビールを飲もう」  待っていて、と付け足して、身体が触れないように脇をすり抜ける。

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