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第3話
直登の心は幼い。そして敏感だ。まるで動物のように、他人の気配を嗅ぎ取る。
木下が言うには、佐和紀と再会するまでは自分の意見や希望がなく鈍感で、命令に逆らうこともなかったらしい。ところが、佐和紀を偶然に見つけた直登は一変し、金づるとして利用していた木下を困らせた。結果、佐和紀は脅され、横浜を出ることになったのだ。
大阪へ来てからは三人で行動をしているが、木下は現れた当初に心配したよりも野心のない単純な男で、周平と佐和紀の関係も深くは知らない。
周平から渡された離婚届も実行力がないと思われて破り捨てられた。戸籍の性別が誤記載されている佐和紀は書類上、周平の籍に入っているのだ。
そのことを思い出しながら、佐和紀は顔を歪めた。
シャワーを浴び、ボディソープを手に取り、全身をくまなく洗う。
木下は真正会と繋がりがある男なので、美園たちからも付き合いを続けておくように頼まれている。
その真正会といえば、桜河会を追い出された由紀子(ゆきこ)を匿っている組織だ。
因縁深い女狐は京都から名古屋へ流れ、麻薬密売をかかえて関東へも姿を見せている。その事件には知世が巻き込まれ、暴行には直登も関わっていた。
心がちりちりと痛み、頬に大きなガーゼを貼っていた知世の眼差しがよみがえる。佐和紀に対して戦うことを求めた年少者の瞳だ。
周平のそばにいることだけが幸福かと問われ、あのとき、言葉に詰まった。
あの男さえいれば、これ以上ないほどに幸福だと思ってきたのに。
心は思いがけず、揺れた。
過去に置いてきた後悔と、美園たちに必要とされる現状が、佐和紀の意識を内側から変えてしまった結果だ。
周平への愛情は変わっていない。けれど、失っていた過去の記憶を取り戻した佐和紀の内心は変わってしまった。端的に言えば、外の世界を見たくなったのだ。
泡にまみれた身体に手のひらを滑らせながら、佐和紀はため息をつく。周平の指の感触が脳裏を痺れさせ、あやうく下半身をいじりたくなる。
とりとめのない逡巡に飲まれ、床を打つシャワーの音を聞く。
背中から腕を回してくる周平の気配は淡くかすれ、官能的な息づかいが耳元に揺らぐ。
新婚当初に抱いていた戸惑いがふいに思い出された。
なかなか本番行為がしてもらえず、好かれているはずなのにもどかしかった頃だ。
いまになってみれば、周平の気持ちはよくわかる。経験の少ない佐和紀に足並みを揃え、耐えてくれたことが嬉しいと、しみじみ感じる。
甘い記憶が全身に溢れ、一方でせつなく胸がよじれた。
あの頃のように周平が焦らしてくれたら、別れ際も、セックスに逃げずに済んだのかもしれない。
自由でいたい気持ちと、縛られていたい気持ちがせめぎ合い、自分本位だとつくづく思う。胸の奥がチクチクと痛み、考えることにうんざりしてくちびるを引き結んだ。
シャワーを止めて、キスマークのない身体を見る。そこに残されているのは、ケンカでつけた打撲痕ばかりだ。『身体検査』までに消えそうもない。
浴室から出て、髪を拭きながらリビングへ入ると、ソファで膝を抱えていた直登が顔を上げた。パッと花が開くような笑みを浮かべ、一目散に駆け寄ってくる。横からギュッと腕が回った。
「はいはい。さびしかったな~。ビール、飲む?」
髪をぽんぽんと叩きながら声をかける。直登は機嫌よく離れた。
「先に、髪を乾かしてあげる。サーシャは飲んでて、いいよ」
ドライヤーを取りに行く直登を横目に、佐和紀は冷蔵庫を開ける。中はほとんど入っていない。ヨーグルトとバナナと調味料が少し。あとはビールと発泡酒の缶がいくらか並んでいるだけだ。
ビールを取ってソファへ座ると、直登が背後に立った。
三人で暮らしているのは2DKのマンションだ。ダイニングをリビング代わりにして、個室のひとつは木下が、もうひとつは直登と佐和紀が使っている。
「きれいな色になったね」
佐和紀の髪を指で梳き、ドライヤーの風で乾かしはじめた直登が言う。
木下から強引に脱色されたときは、色も傷みも酷かった。誰よりも嘆いたのは岡村だ。すぐに美容室へ連行され、佐和紀はいっそのこと、紫かピンクにしたいと願ったが聞きいれられず、つれなく却下された。
許されたのは金髪だ。横浜にいた頃もインナーカラー程度のブリーチしかできなかったので、色には満足している。
「また泊まりに行ってくる。日程が決まったら言うよ」
佐和紀が振り向くと、ドライヤーが止まった。
「横澤と? ……ふたり?」
「大丈夫だよ。客を取らされたりはしてないから。心配しないでいい」
沈んだ表情になった直登の頬に触れる。ヒゲがザリッと手のひらを刺した。
年齢は二十代半ばだが、佐和紀の前では寂しがりの甘えたがりだ。
金の計算をすることと時計を即座に読むことが苦手で、コンビニエンスストアへ買い出しに行かせれば、持たせた金を使い切ってしまう。あれこれと欲しいものを買うのではなく、頼んだものを買えるだけ買ってくるから、使いを頼むのにもコツがいる。
「やっと、あいつから解放されたのに……」
直登が『あいつ』と呼ぶのは周平のことだ。佐和紀はさらりとかわして、横澤の話に変えた。
「横澤はいい男だよ。金も持ってる。俺は、おまえが人を殴らずに済むならいいんだ」
愛人契約をきっかけにして、ヤクザからの暴力的な依頼を受けないでくれと木下へ頼んだ。人を殴ると直登の心は乱れ、興奮は風俗で晴らすことになる。それを避けたかった。
「あいつがいなければ、こんなことにはならなかった」
直登がまたつぶやき、佐和紀は肩をすくめる。
「岩下か……。あれも、いい男なんだけどな」
「見た目だけだ」
顔をしかめながら言われ、佐和紀は笑う。心の成長を止め、逆行さえ感じさせる直登には、真実が見えるのかもしれなかった。
周平はいい男だが善人ではない。佐和紀にとっては、たまらなく好きなところだ。しかし、理にかなった説明はできそうもなかった。
「……俺の知ってる、サーシャでいて……」
祈るような直登の声に、佐和紀はうなずく。泣きたいような気分になるのは、変えることのできない過去のせいだ。
直登の兄・大志(たいし)は、佐和紀の親友だった。短い時間だったが、三人は家族のように暮らし、佐和紀の貞操を守ろうとして犠牲になった大志は長すぎる入院生活の末に死んだ。
彼らを見捨てて逃げた佐和紀の人生も楽なものではなかったが、それなりに楽しく過ごし、周平にも出会うことができた。幸せの意味も、いまはもう知っている。
だからこそ、兄の代わりに佐和紀を守ると詰め寄ってきた直登を突き放せなかった。
「わかってるよ、ナオ。一緒にいるから」
そっと指を動かして、直登の頬を撫でる。
大志と直登を犠牲にして逃げたことを佐和紀は長らく忘れていた。それは、母と祖母の教えがあったからだ。血が繋がっているかどうかも定かでない母と祖母は、生き延びることだけが最優先で、そのための犠牲はやむをえないと繰り返した。
もう二度と、あの施設へ入ってはいけない。遠く離れ、身を潜め、ただ生きていく。
その先に何があるのかはわからない。生きていれば必ず、と祖母は言った。そして、真夏の暑さにやられてあっけなく死に、佐和紀のそばには祖母の恋人が残った。南洋帰りの男だ。ふたりで寺へ行き、納骨したことは覚えている。
しかし、大志と親しくなるにつれて、男の影は薄くなり、いつしか消えてしまった。
佐和紀には、自分のいた場所や施設の意味がわからない。当時は幼く、なによりも疑問を抱いたことがなかった。
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