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第4話

 大人だけでなく子どもたちも軍事訓練を受けている中、佐和紀は特別に扱われた。  このあたりのことは、美園の愛人である真幸なら詳しく知っているはずだ。以前はまだ思い出していなかったので、質問はひとつも思い浮かばなかったが、今度会った時には聞きたいことがいろいろある。 「サーシャ?」  直登の声に呼び戻され、ぼんやりと見つめ返す。両頬を包む手が温かくて泣きたくなった。周平の腕に抱かれ、無知でいられた頃が懐かしくよみがえり、過去と引き換えに現在(いま)が押し流されていく。いろいろな記憶を、忘れていられたら、どれだけよかっただろう。  これまで生きてきて、周平との暮らしだけが真実に幸せだった。  迷いもなく抱き寄せられ、戸惑いもなく寄り添ったのは、ふたりの関係を脅かすものなど存在しないと信じていられたからだ。周平は周平のままで、佐和紀は佐和紀のままで、これからも変わらずに愛し合えるはずだった。記憶が戻らなければ。 「今夜は疲れた」  薄く笑って、直登の手を握りしめた。  記憶が戻ってから、佐和紀の心もバランスを崩しかけている。少しずつゆっくりと、噛み合っていたはずのものがズレていく。本当の自分になるのだとしても、未知の世界だ。  周平なら受け入れてくれるとわかっている。けれど、問題は別のところにある。なにもかもを話して、なにもかもを受け入れてもらえても、自分の心にある違和感は自分で納めなければどうにもならない。  だから、周平と距離を置き、離れていることで時間を止めることができたらと願う。周平との関係だけは変えたくない。傷つけたくないし、嫌われたくない。  嫌いにもなりたくない。  佐和紀は目を伏せて、ため息をつく。まぶたの裏に浮かぶのは、自分だけの優しい男だ。自分が選んだことなのに、離れていることは、耐えがたいほどにさびしい。  うっすらとした情欲を感じ、握りしめた手が周平でないことを悟る。誰も代わりにはならない。それだけは初めからわかっていた。      2    怒声が聞こえて振り向くと、すかさず腕を掴まれた。 「今夜は……」  声をひそめて引き止められる。ジャケットを羽織り、横澤を演じている岡村だ。花柄のシャツを着た佐和紀は不満げに見つめ返す。  繁華街のレストランを出たところで遭遇したのは、チンピラ同士の小競り合いだ。 「腹ごなしなら、ホテルに戻ってからでいいじゃないか。……ダメだよ」  横澤の口調で言った岡村に腕を引かれる。  今夜はこれから、横澤の滞在しているスイートルームに連れ込まれる算段だ。  コネクティングルームで周平が待っている。そして、翌日は奈良へ小旅行の予定だった。周平と横澤が会合に出席するので、サーシャはおまけでついていく。もちろん会合には出ないから、観光をしながら暇を潰す予定だ。 「あ、我慢した」  殴り合いは始まらなかった。挑発に乗せられそうになった男を、仲間が押し留めたからだ。意外な展開だったが、理由はすぐにわかった。挑発していたグループが「ヤクザもたいしたことがない」と叫ぶ。 「もう、終わり」  タイミングを見た岡村の手が肩へ回り、ぐいっと抱き寄せられる。そのまま人の流れにまぎれた。タクシー乗り場へ連れていかれる。 「ヤクザとチンピラだったな」  佐和紀が言うと、肩を抱いた岡村の手は背中へと滑り落ち、さりげなく腰あたりで止まる。最小限に控えめな下心を隠した岡村は、横澤の口調で返してきた。 「相手は不良グループだ。ヤクザの下っ端を、からかうのが流行ってるらしいね」 「なに、それ……。趣味が悪いな。不良って、半グレ?」 「もう少しライトな層かな。半グレとチンピラの間ってところだ」 「どっちが上で、どっちが下? チンピラが下か?」 「横向きに考えた方がいい」  岡村が笑う。チンピラに優劣はない。あるのは形態の違いだけだ。 「なるほどね。横……」 「美園の話を覚えてるだろう。半グレとチンピラが威張ってるって話。あれの大部分は彼らだ。『紅蓮隊(ぐれんたい)』って名乗ってる」 「愚連隊? 戦後のヤクザ予備軍だろ」 「……違うこと考えてる。紅蓮の炎の『紅蓮』で紅蓮隊。そういう名前の不良グループだ。基本的には犯罪から遠くて、あんなケンカもしないタイプらしいけど……」 「資金源は?」  佐和紀が切り返すと、岡村は目を細めた。 「クラブやディスコでのイベント。近頃はディスコも復活の兆しだ」  ふたりを乗せたタクシーは、すぐにホテルへ着いた。開業して間もない外資系の高級ホテルだ。  横澤が来阪した当初は、関東から逃げてきた設定上、葛城組が護衛をつけてくることもあったようだが、いまはない。腕っぷしの強さに定評のある『花牡丹のサーシャ』を愛人にしたからだ。用心棒も兼ねている。 「この前のさ、京都の料亭に行ったときのスーツ。あれ、かっこよかったな。……誰の趣味?」  宿泊客の乗り合わせていないエレベーターの中で、佐和紀はいたずらに近づく。正面に立ち、ジャケットの前裾を引っ張りながら、岡村の物静かに見える目元を覗き込んだ。 「どれを着たかな……」  眩しそうに細められる岡村の瞳には、金髪のサーシャが映っている。眼鏡は赤いセルフレームだ。  腕が背中へ回り、そこで到着のベルが鳴った。お遊びはここまでと岡村の胸を押し返し、佐和紀はさっさと身体を離した。キスもしない偽装愛人だが、岡村の想いは本物だ。佐和紀が心許す瞬間を待っている。だからこそ、油断ができない。 「あのスーツは道元の趣味です。なんだか、ムカつくなぁ……」  佐和紀を追い抜いた岡村は、スイートルームエリアに入るドアをカードキーで開けてぼやく。桜河会若頭補佐の道元が岡村に執心していることは佐和紀も知っていた。  恋愛感情ではないらしいが、友情とも違い、従属とも違う。ふたりの実態に興味はあるが、ごまかす岡村を追及するほどの好奇心はない。

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