3 / 244
第2話 その男、似嵐鏡月
東京都と神奈川県の辺境 に位置する山脈地帯 。
とびきり標高 のある一角 をすっぽりと削 り取 って、この隠 れ里 はつくられていた。
ネギ畑 はその中の小さな日本家屋 に併設 されたもので、彼らの食料はほぼここの農作物 でまかなわれている。
家のほうは屋敷 というより、大きめの庵 といった感じだ。
長方形の母屋 は前座敷 と奥座敷 に分かれていて、そこから直角 に折れる渡 り廊下 の向こうに「はなれ」、そしてさらに直角 に頑丈 な塀 が建てられている。
上空から見ると「コの字」型になっているわけだ。
その中には簡素 ではあるが庭園 ――植えこみの松や花々 、石燈籠 、錦鯉 の泳ぐ池などが設置されている。
この里は空からの目視 では死角 になるよう設計 されており、地中 にはソナーなどの音波 、GPSなどの電磁波 を誤認識 させるシステムが組みこまれていた。
端 からはただの山にしか見えないのである。
しだいに傾 いてくる太陽の角度から、二人はそろそろ夕刻 であることを意識した。
「ウツロ、日が暮れるぞ」
「うん」
「腹あ、減ったな」
「うん、俺 もだ。でも、もう少しで終わるよ」
アクタは手を止めて、天を仰 ぎながら額 をぬぐった。
ウツロは会話をしながら、せっせとネギを引っこ抜いている。
里へと近づいてくる気配 を、彼らは少し前から感じ取っていた。
そしてそれが、自分たちの育ての親・似嵐鏡月 であることも。
その男は傭兵 上がりの殺し屋で、暗殺の請負 で生計 を立てている。
ウツロとアクタをこれまで養 ってきたのは、自分の暗殺稼業 の後継者 に据 えるためであり、実際に二人はその方法を徹底的 に指導 されてきた。
さまざまな武器・暗器 の使用方法から古今東西 の体術 、果 ては諜報 の極意 から実戦 における戦略 の立 て方 まで。
人間を殺傷 するために必要な技術の多くを教育されたのである。
「ウツロ、お師匠様 が来る、急ぐぞ」
「いまはまだ、『蛭 の背中 』のあたりだ。この歩 みなら、あと三十分はかかる」
「夕餉 の支度 をしなきゃならんだろ?」
「今日は『さしいれ』があるみたいだよ。ひとりぶんの携行食 にしては強すぎる」
「おまえ、においまでわかるのか?」
「こっちはいま、風下 だからね」
「いや、そういうことじゃなくてだな……」
『蛭 の背中 』とは、隠 れ里 からだいぶ山を下 った、渓谷沿 いの難所 を指 している。
盛 りあがった硬 い土壌 がすっかり湿 って苔 むしていることから、彼らだけに通 じる暗号 として用 いられている言葉だった。
そんな場所の状況をたちどころに言い当てる獣 のような嗅覚 に、アクタは驚 いて呆気 に取られている。
その態度にウツロ当人 は不思議そうな眼差 しを送った。
自分の気づかない間 に成長を続けている弟分 に、アクタはポカンと開 き気味 だった口をすっと締 め、控 えめに笑ってみせた。
「どうかした?」
「なんでもねえ。ほれ、仕事仕事」
「変なの……」
ウツロとアクタがそれぞれ最後の一束 をギュッと結び、大きく伸 びをして一息 ついたところへ、その男は現れた。
杉の大木 が作る密な並木 の、人ひとりがやっとくぐれる程度の間隙 。
木漏 れ日 も弱まってきて、すっかりぼやけているその林の奥から、獣道 を通り抜けて姿を見せる、ゆがんだ蜃気楼 。
それは黄昏 の闇 を背負 ってなお暗い、黒炎 のような。
彼こそウツロとアクタの育ての親である殺し屋・似嵐鏡月 その人である。
群青色 のストールから、ほぼ白髪 だが中年 としては端正 な顔がのぞいている。
藍色 の羽織 と着流 しの下には、筋肉細胞を爆縮 したような、屈強極 まる体躯 を隠 してある。
ただでさえ豪奢 に見えるが、これでも着痩 せしているのだ。
腰にはマルエージング鋼製の愛刀・黒彼岸 を差している。
斬 るというよりは「砕 く」ことに主眼 を置く大業物 だ。
軍靴 を改造した黒色 のロングブーツで大地を重く踏みしめながら、彼は二人の前までゆっくりと歩 み寄 ってきた。
その右手には、風呂敷包 みを引 っ提 げている。
ウツロの予見 どおり、その中には三人分の夕食が納 められていた。
「お帰りなさいませ、お師匠様 」
ウツロとアクタはすぐさま片膝 をついて、その男の前にかしずいた。
「せい が出るじゃないか、二人とも」
ウネの横いっぱいに結束されたネギの列をながめ、水晶 の帯留 めをいじりながら、似嵐鏡月 は満足げな表情を浮 かべた。
同時に彼はその状況から、小脇 に抱 えた食事の存在を悟 られていたことを察知 した。
「ウツロ、わしのさしいれを嗅 ぎ当 てたな?」
「ご無礼 をお許しください、お師匠様 」
ウツロはハッとした。
彼は心のどこかに、自分の成長をほめてもらいたいという願望があった。
だからアクタにも、晩の支度 はしないよう促 したのだ。
アクタもそれに気がついていたから、あえて反対はしなかった。
しかしウツロは、この親代わりの殺し屋を前にして、突如 自責 の念に駆 られた。
こざかしい承認欲求 をさらし、自分をはぐくんでくれた尊 い存在を、不快な気分にさせてしまったのではないかと。
お師匠様 がそんなことをするはずがないと、彼は重々 理解している。
しかしどこかで、自分を否定してしまうのではないかという恐怖が芽生 えたのだ。
それは決壊寸前のダムの水のように、緩徐 として、しかし十二分 の重量感を持ってあふれ出てきた。
師 に無礼 を働いたと考えているのか、それとも自分の保身のことしか考えていないのか、それすらもわからなくなってきた。
頭が混乱する。
思考の堂々 めぐり。
ウツロはひたすら平伏 し、黙 して許しを請 うた。
しかしそこは、いやしくも育ての親。
似嵐鏡月 本人は、ウツロの複雑な胸中 をすぐに察 し、口 もとを緩 めてみせた。
「よいよい、わしはほめているのだ。お前のその鋭敏 な嗅覚 、いや、嗅覚 だけではない。五感のすべてが突出 してすぐれている。しかも日に日に、その鋭 さを増しているな? それがどれほど、わしにとって有益 なことであるか。ウツロ、おまえの存在は本当に心強 いぞ」
ウツロはグッと拳 を握 った。
俺はなんて最低なんだ、心の底からそう思った。
大恩 あるお師匠様 をわずらわせた挙句 、あらぬ疑いまで持ってしまった。
俺はつくづく、最低だ。
恥ずかしい、この世に存在しているという事実が。
可能であるならば、いますぐに消えてしまいたい。
俺はこの世に、存在してはならないんだ。
彼はいよいよ、思考の泥沼 へ。
その鈍 く重い深みへと、はまりこんでいく。
落ちる先は自己否定 という名の深淵 。
たどり着くことのない、奈落 へと。
「頭を上げてくれ、ウツロ。アクタもだ」
ウツロは反射的に顔を上げた。
似嵐鏡月 はひざまずいて、ウツロに目線 を合わせている。
やさしい顔で、ほほえんでいた。
「あ……」
ウツロはのどの奥から、嗚咽 にも似た声を漏 した。
似嵐鏡月 はそっと、ウツロの頭に手を当てた。
「ウツロ、おまえは心根 のよい子だ。それゆえ、そのように自分を責 めてしまうのだね? 恥 じることなど、何もないのだ。それがおまえの、おまえという人間の、個性なのだから」
師 を見つめるそのまさざしが濁 る。
「う……お師匠様 ……」
アクタも気丈 を装 ってはいるが、そのまなじりはにじんでいる。
「ウツロ、アクタ。何があろうと、おまえたちはわしにとって、かけがえのない存在だ。たとえ天が裂 け、地が割 れることがあっても、おまえたちを否定することなど、あるはずがない。それだけはどうか、わかってほしいのだ」
似嵐鏡月 は身を寄 せて、ウツロとアクタを両腕 で抱 えこむ。
伝わってくるそのぬくもりを、二人はしばし享受 した。
「よし、もう大丈夫だな。ウツロ、おまえは強い子だ。アクタ、どうかこれからも、ウツロのよき支えとなってくれ。おまえがいてこそなのだ、アクタ。車輪 と同じように、どちらかが欠けても成り立たない。おまえたちは、二人でひとつだ」
「もったいない、お言葉です……お師匠様 ……」
アクタは隠 しているつもりだが、体が小刻 みに震 えている。
兄貴分 として、気を強く持とうとつねづねふるまってはいるが、彼もウツロと同じ境遇 には違いない。
思いのたけをぶつけたくなるときとてある。
それを察 してくれる師 の存在は、何ものにも代えがたい。
ウツロもアクタも、心は決意に変わっていた。
アクタはウツロを、ウツロはアクタを、絶対に守り抜く。
そしてお師匠様 に、この偉大なる救い主に、絶対の忠誠 を誓 うと。
「うむ、よきかな。さあ、立ってくれ二人とも。今夜はうまい飯を手に入れてきたのだ。冷 めないうちにいただこう」
「はい、お師匠様 」
気を使って先に立ちあがる師に、二人は恭 しく準 じる。
「ウツロのやつ、さっきから腹ぁ減ったって、グーグーいわしてたんですよ? お師匠様 」
「なっ、それはおまえだろ、アクタ!」
「お師匠様 、早くご馳走 持ってこないかな~って言ってたくせに」
「アクタっ、虚偽 の弁論 をするな! お師匠様 っ、反駁 の機会を俺に!」
こんなふうに、アクタはウツロをからかってみせた。
「ははは、本当に仲がよいなあ、お前たちは」
「よくないです!」
ふくれっつらをしてのにぎやかなやり取りに、似嵐鏡月 は破顔 していた。
(『第3話 ウツロ、その決意』へ続く)
ともだちにシェアしよう!

