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第35話 予兆

 日も()れかかる頃。  ウツロは目を()ましていたが、敷布団(しきぶとん)の上にうずくまって、なかば放心(ほうしん)していた。  橙色(だいだいいろ)西日(にしび)が、彼の陰鬱(いんうつ)な気持ちに拍車(はくしゃ)をかける。  考えがまとまらない。  やはり(おれ)の見てきた世界は、あまりにも小さすぎた。  人間についてわかったつもりになっていたけれど、実際はとても複雑だった。  人間には表面と内面がある。  それは一概(いちがい)に、良いとか悪いとか決められるものではないだろう。  人それぞれ、ということだ。  星川雅(ほしかわ みやび)。  彼女は邪悪な内面を、しとやかな表面で(おお)っている。  しかしそれだけで「悪い存在である」と決めつけられるだろうか?  彼女は彼女で、何か(かか)えているものがあるのかもしれない。  他者(たしゃ)平服(へいふく)させたいという欲求(よっきゅう)、もしかしてそれと、必死に戦っているのかもしれない。  安易(あんい)に悪だと(だん)じるのは、早計(そうけい)にすぎるのではないか……  南柾樹(みなみ まさき)。  彼は俺と同じだった。  俺と同様、強すぎる自己否定(じこひてい)衝動(しょうどう)と戦っていたのだ。  俺はその表面だけを見て、彼を傷つけてしまった。  自分だけが不幸だと思っている……  そのとおりだ、彼の言うとおりだ。  柾樹の苦しみは、俺にはわからない。  いや、人の数だけ苦しみの形があると、いえるのではないか?  苦しみとはひとつの個性なのかもしれない。  やはり良くも悪くも、だけれど……  そして真田虎太郎(さなだ こたろう)くんと、真田龍子(さなだ りょうこ)さん。  俺なんかには理解しえないほどの苦痛(くつう)苦難(くなん)、それをあの姉弟(きょうだい)は味わっているんだ。  ()(はか)ろうとするのは、()骨頂(こっちょう)だろう。  他者(たしゃ)の苦しみなど、理解するのは不可能だ。  (あゆ)()りはもちろん必要だけれど、「わかった気になる」のは最低だ。  それはまさに、俺がやっていたことではないのか?  俺はひとりよがりな思い込みで、みんなを傷つけてしまった。  罪深(つみぶか)行為(こうい)、やはり俺の存在は、間違っているのではないか……?  ウツロの卑下(ひげ)は止まらない。  彼は沸騰(ふっとう)しそうになる思考(しこう)を、なんとか(こら)えた。 「やっぱりここは、俺なんかがいていい場所じゃない。分不相応(ぶんふそうおう)にもほどがある。毒虫が人間になろうだなんて、生意気だったんだ……」  いまは無理でも、(すき)を見てここから抜け出そう。  ウツロはそう思案(しあん)した。  窓辺(まどべ)数羽(すうわ)のスズメが、ちゅんちゅんと(さえず)っている。  その鳴き声は、いまの彼にはどこか、物悲(ものがな)しく聞こえた。  そうだ、ここを去る前に、もう一度だけ目に焼きつけておこう……  「世界」のありさまを。  ウツロは影を落とすようにふらふらと、ベランダのほうへ足を運んだ。  (さん)の上に両手を(あず)け、おそるおそる眼下(がんか)をのぞいてみた。  学生服を着た下校中の高校生数名が、談笑(だんしょう)しながら歩道(ほどう)を歩いている。  あれが学生……  学校というところにかよっている人たちか。  俺と同じくらいの年頃(としごろ)だ。  なんて楽しそうな顔だろう。  俺もあるいは、あそこにいたかもしれないのに……  いや、そんなことを言っても水掛(みずか)(ろん)だ。  わかっている、わかっているけれど……  ウツロは(せつ)なくなった。  本音(ほんね)を言えば、当たり前が良かった。  家族がいて、学校へ行って、いつかは社会へ出る……  そんな当たり前を、自分は持つことができなかったのだ。  駄目(だめ)だ、いけない。  それではお師匠様(ししょうさま)や、アクタの存在を否定することになってしまう。  余計(よけい)なことを考えるな、いいじゃないか。  あるがまま、与えられたものを受け入れなければ……  相変(あいか)わらず発動(はつどう)する循環論法(じゅんかんろんぽう)嫌気(いやけ)がさし、彼は部屋の中へ(もど)ろうとしたとき―― 「……ウツ……ロ……」 「――!」  桟の上にとまっている一羽(いちわ)のスズメが、なんとこちらに語りかけてくるではないか。 「……これは、アクタの『口寄(くちよ)せ』か……!」 「……ウツロ……俺は逃げのび……いまは、人首山(しとかべやま)(ひそ)んでいる……お師匠様も、一緒だ……早く、お前に、会いたい……人首山まで、来てくれ……」  それを言い終えると、スズメは正気(しょうき)に返ったらしく、どこかへ飛び去っていった。 「アクタ、お師匠様、ご無事で何より……! 人首山……早く、行かなければ……!」  ()()()のまま、ウツロは(あわ)てて部屋を出た。 (『第36話 脱出(だっしゅつ)』へ続く)

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