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第3話 氷潟夕真と刀子朱利

 ウツロが最後の一音(いちおん)(はじ)いて、その余韻(よいん)が消え去ったあと、少しの()()き、音楽室の中に拍手(はくしゅ)がわきおこった。  時刻はちょうど、始業ベルの三十分前。  ピアノの前に立ち、奏者(そうしゃ)が深く礼をしたのを合図(あいず)に、取り巻きたちはドヤドヤと会場をあとにした。 「いやー、佐伯(さえき)くん。(きみ)は日に日に進化を()げているよね。しかしフランスものもいいけど、たまにはバルトークにも挑戦(ちょうせん)してほしいな」  音楽教師の古河登志彦(ふるかわ としひこ)が、中年太(ちゅうねんぶと)りの腹をたぷたぷ()らしながら、ウツロのほうへ近づいてきた。 「それは(たん)に、先生の趣味なのでは」  彼の回答に残っていた者たちは、口を押さえてクスクスと笑った。 「――っ!」  群集の中に(するど)殺気(さっき)を感じ取り、ウツロはそちらへ視線を送った。  音楽室の出入口(でいりぐち)、その右側。  開かれたドアの高さにおよぶかというほどの背丈(せたけ)、ブレザーからのぞくワイシャツの()具合(ぐあい)から、たくましい肉づきがうかがえる。  なにより目立つのは、(くず)気味(ぎみ)に整髪された金髪で、そのところどころに黒いメッシュを入れてある。  氷潟夕真(ひがた ゆうま)――  佐伯悠亮(さえき ゆうすけ)、すなわちウツロとは同じクラスではあるが、まだ一度たりとも会話したことはない。  そもそも彼が誰かと会話をしているのを、ウツロは見たことがない。  一匹狼(いっぴきおおかみ)――  そんな印象(いんしょう)を、ウツロは彼に対して持っていた。  氷潟夕真は腕を組んだ体勢でナイフのような眼差(まなざ)しを、ウツロへ向けジッと送っている。  その(えぐ)るような威圧感(いあつかん)に、ウツロは自分と同じく、通常なら経験しえない修羅場(しゅらば)をくぐってきた者だけが体得できる、強力な闘気(とうき)を確認した。  すきさえあれば、お前を殺す――  そう語りかけているようにも感じた。 「佐伯(・・)!」  真田龍子(さなだ りょうこ)の声が耳に入り、ウツロはハッとわれに返った。  もう一度もとの場所を見ると、氷潟夕真の姿はどこにもなかった。 「……」  ウツロは彼の存在に、何か得体(えたい)の知れない、不安な気持ちを覚えた。 「おーい!」 「わっ」  ウツロがもう一度われに返ると、真田龍子が目の前に立って、仏頂面(ぶっちょうづら)を作っている。 「なーにボケッとしてたの? ほら、授業に(おく)れるよ?」 「あ、うん、真田(・・)……」 「もう」  素性(すじょう)(いつわ)っている関係で、ここでは『ウツロ』と呼ぶことはできない。  真田龍子はそのことに――愛する者を本名(ほんみょう)で呼ぶことができないことに、()えがたいもどかしさを感じていた。  ウツロはウツロで、「自分は『ウツロ』であって、『佐伯悠亮』ではないのに」というつらさに、ずっと向きあっていた。  それぞれの(おも)いを胸に(いだ)きながら、二人はしばし、見つめ合った。 「佐伯くんって――」 「――?」 「真田さんの彼氏、で、いいんだよね?」 「刀子(かたなご)さん……」  クラスメイト・刀子朱利(かたなご しゅり)横槍(よこやり)に、二人は水を差された。  彼女は手を後ろに組み、赤毛(あかげ)のロングヘアーを()らしながら、ウツロと真田龍子の顔を、かわるがわるのぞきこんだ。 「朱利! なんだよ、その引っかかった言い方! お前には関係ないだろ!?」 「いいじゃん瑞希(みずき)。それに、関係はあるんだよ?」 「はあ?」  態度にイラついた長谷川瑞希(はせがわ みずき)が、腰に手を当てながら(さけ)んだが、赤毛の少女は(ふく)みを持たせた言い回しで、それをはぐらかした。 「――っ!?」  ウツロはいきなり、刀子朱利に手首(てくび)(つか)まれ、前方(ぜんぽう)に引き寄せられた。  目の前には彼女の不敵(ふてき)にほほえむ顔がある。 「わたしも佐伯くんが、好き」  刀子朱利はウツロの(くちびる)(うば)った。 (『第4話 ウツロにまつわる略奪宣言(りゃくだつせんげん)』へ続く)

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