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第38話 黒い部屋

 黒い部屋だった。  どのくらいの広さなのか、広さという概念(がいねん)がぼやけているような空間。  部屋にある唯一(ゆいいつ)の光源は、(かべ)いっぱいのプロジェクターに映し出される夜桜(よざくら)の映像。  天を串刺(くしざ)しにするような枝からは、雪よりも白い大輪(たいりん)の花。  鬼の爪を想起させる根は大地に食らいつくよう。  幹はといえば老獪(ろうかい)帝王然(ていおうぜん)として、あらゆる角度へにらみを()かせている。  魔王桜(まおうざくら)だ。  この世とあの世の(さかい)()くという(まぼろし)の桜、あやかしの王、異界の支配者。  人間に異能力「アルトラ」を植えつけ、悪意を(しぼ)()し、飴玉(あめだま)のようにしゃぶる。  いったい何者で、何を考えているのか。  どこから吹いているのかもわからない風が、その枝葉(えだは)()らしている。  その動きは妖艶(ようえん)で美しく、しかし見るものを破滅へといざなうような。  明るいのか暗いのか、それすらもわからない。  ただその光は、一台のグランドピアノを照らし出していた。  ベーゼンドルファー・インペリアル。  喪服(もふく)を思わせるダブルのスーツを着た男が、エボニーのロッキングチェアをたわむれに(きし)ませながら、ときおり鍵盤(けんばん)をつまびいている。  フランツ・シューベルトのソナタ変ロ長調D.960。  音楽にこそなってはいないが、その音型(おんけい)はとぼとぼとさすらっている。  魔王桜への道を歩く旅人のように。 「来たか、鹿角(ろっかく)の」  ふいに、男の口から言葉が()れた。  黒い部屋の一部が(ひら)き、ストライプが入ったダブルのスーツを着た中年男がひとり、中へと入り込んでくる。 「は、龍影会元帥(りゅうえいかいげんすい)浅倉喜代蔵(あさくら きよぞう)、ここに」  浅倉喜代蔵。  ウツロへの試験を終えたばかりの彼だった。  ここは日本を影で掌握(しょうあく)する組織「龍影会」の奥の院。  すなわち、トップである総帥(そうすい)の部屋だった。 「こちらへ。どうやら話は面白いほうのようだな」  光の加減で顔はよく見えないが、総帥は少年のような、しかし老人のようでもある声で語りかけた。 「さすがは閣下(かっか)毒虫(どくむし)のウツロ、実に満足のいく解答をわたしに出してくれました」  浅倉喜代蔵は(うやうや)しく近づくと、そばに置いてあるアンティークの椅子(いす)へと座った。  彼はしばし、ウツロのことを総帥へ話した。 「ほう、さすがは魔人(まじん)似嵐暗月(にがらし あんげつ)の孫といったところか。まあ、彼は祖父のことも、似嵐(にがらし)の家のことも、まともには知らんだろうがな」 「それもこれも(おろ)かな父・鏡月(きょうげつ)によるところにございますれば。あやつがもし、まっとうな当主ともなっていれば、あるいはいままさに、閣下のほんの一助(いちじょ)程度にでもなっていたやもしれませんのに」  ロッキングチェアが軋んだ。 「やめておけ鹿角、すべては終わったことだ。そうであるな?」  総帥は浅倉喜代蔵に顔を向けた。  (やみ)の中で二つの目が爛々(らんらん)と光っている。 「は、これは失礼を……」  浅倉喜代蔵はギョッとして平服(へいふく)した。  体が寒くなって、冷汗(ひやあせ)が浮かんでくる。 「ウツロのことはわかった。わが息子のほうはどうだ?」 「南柾樹(みなみ まさき)、いまはそう名乗っておりますが……さすがは閣下の血脈(けつみゃく)かと。すべては計画どおりにてございます」  浅倉喜代蔵はハンカチで顔をぬぐいながら答えた。 「わが椅子を()ぐに(あたい)する者かどうか、いずれ確かめる必要がある。引き続き頼むぞ」 「は、さくら(かん)には典薬頭(てんやくのかみ)息女(そくじょ)(みやび)もおりますし、前式部卿(ぜんしきぶきょう)武田耕太郎(たけだ こうたろう)も何かの(こま)にはなるかと存じます」 「心強(こころづよ)いな、二人の存在は」 「はい」 「ときに鹿角の、お得意の火牛計(かぎゅうけい)を仕込んだようだな」 「はは、(ひら)に。遊び心でございますれば」  浅倉喜代蔵は体を震わせた。  火牛計とは彼が用いる戦術のひとつで、この場合、さくら館にトロイの木馬(もくば)、つまり組織のスパイが(ひそ)んでいることをウツロに告げたことを指している。  相手を混乱させ、篭絡(ろうらく)するテクニックだ。 「遊び心か。その遊び心とやらで、わたしの息子を傷つけるなよ?」 「め、滅相(めっそう)も! しかし、おそれながら閣下、これも計画の一部にてございますれば……」 「よいよい、わかっておる。ただの酔狂(すいきょう)だ」 「はは……」  浅倉喜代蔵は心臓が(こお)りつきそうになったが、その言葉にやっと平静さを取り戻した。  手の上でもてあそばれている感覚が、彼の総帥に対する恐怖感をあおらずにはいられなかった。  総帥はピアノの上に置かれた端末のディスプレイをのぞき込んだ。  そこには南柾樹の動く姿が。 「会いたいものだ、早く。わが子にね」  進歩した機械朗読のような口調(くちょう)が、黒い部屋の中へ静かにこだました―― (『第39話 忸怩(じくじ)』へ続く)

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