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第30話 昼の月と夜の月

美影(みかげ)ねぇよ、人間とは何のために生きるのか、考えたことはあるかね?」  黒い部屋。  龍影会(りゅうえいかい)総帥である刀隠影司(とがくし えいじ)は、かたわらに座る伯母・鬼鷺美影(きさぎ みかげ)大警視にたずねた。 「おや、影司さん、あなたまで例のウツロ病ですか?」  鬼鷺美影は視線だけをそっと動かす。 「いつもの酔狂、たわむれにすぎぬ。世間では大事なことなのだろう? そういうことを考えるのは」 「人間は何のために生きるのか。それは生まれてきてしまったから仕方なく、それだけです」 「ほう」 「生きるのはつらいけれど、かといってみずから命を絶つこともつらい。その程度のものですよ、人間など」 「達観であるな。ウツロに聴かせてやりたいものだ」  鬼鷺美影はゆっくりと茶をすする。 「よりよく生きるだとか、より人間らしくふるまうだとか、そんなものはしょせん、こじつけにすぎないのです。人間がみずからの存在を美化するための、いわばエゴであると言えましょう」 「ふ、面白いな。さすがは美影ねぇ。しかしいっぽうで、人間はみずからの欲望を満たすことに必死であるな?」 「そうです、何せ暇ですから。人生とは退屈なもの。しからば、自分の好き勝手に生きるしかありますまい?」 「その一環として、わたしに父上を殺させたのかね?」 「影聖(えいせい)は刀隠の家を継ぐ者としてふさわしくなかった。よりにもよって組織を解散しようなど言い出しはじめたのです。おそれおおくも刀隠の血脈を持つわたしが、神君・龍影(りゅうえい)公に合わす顔があると思いますか?」 「ふん、それこそエゴではないのか? 言うにことを欠いて龍影公だと? そなたこそ自分の好き勝手にふるまっているだけではないか。刀隠の家を守るなど大義名分にすぎない、そうであるな?」 「何か問題でも?」 「人形だな、美影ねぇ。あらゆる存在は、おしなべて何者かの傀儡なのだ。そなたも、このわたしもな」 「そんなものです、存在なんて」 「食えない女だ。しかし皮肉なことに、それでこそ美影ねぇであると言えような」 「ぽっかりとあいた穴に延々を砂を送りこむ作業。むなしいものです、人生とは」 「とんだ道化だな。いや、存在というものがそもそもそうであるのかもしれんが」  刀隠影司はロッキングチェアを軋らせた。 「鬼堂(きどう)くんが万城目日和(まきめ ひより)を仕損じたそうだな」 「ウツロが助けに参じたからだと平謝りしていましたが、実際はどうだか」 「あれは龍影会を乗っ取ろうと画策しているのだろう?」 「そうですね。機会を見て処断いたしましょう」 「まあ待ちたまえ。わたしにもメンツがある。処断は本当に機会を見てからだぞ?」 「かわいい甥っ子の頼みならば聴いておきますか、(えい)ちゃん」 「影ちゃんか、なつかしいな。あのころが一番、わたしにとり幸福だった気がするぞ」 「幸福? 幸福ですって? そんなもの、感じることもできないくせに」 「酷だな美影ねぇ。そなたは痛覚のないわたしに、ずっとよりそってきてくれたな」 「影ちゃん、あなたはなるべくして帝王となった。痛みをいっさい感じない体質。まさに支配者の器であると言えます」 「翻せば美影ねぇ。それがわたしの、唯一にして最大の弱点なのではないのか?」 「考えないことです。考えるという行為は、この世においてハエの産卵にも劣る無意味なことなのです」 「そういうものかね、ふむ」  茶をすする音と椅子の軋む音が交互に鳴り響く。 「痛みがないということは、死ぬよりも痛い」  刀隠影司は遠くへとまなざしを送った。  魔王桜(まおうざくら)が咲き乱れている。  彼には聞こえた、異形の王の嘲笑が。  笑わば笑え、それがお似合いだ。  何者が支配者なのか、何者が奴隷なのか。  それはさしずめ、昼の月と夜の月の違いを考察するようなものなのだ。  悶々とする心、そんなものはないに等しいのだが、彼はほんの少し、愉快な気持ちになった気がした。

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